第8話:職場の浄化と、氷の微笑
水曜日の朝。オフィスに足を踏み入れた瞬間、耳に届く空気の振動が、昨日までとは明らかに違っていた。
いつもならフロアのどこからか聞こえてくる、間宮の軽薄な笑い声や、周囲を揶揄するような騒がしさがない。不自然なほどの静寂が、かえって彼が職場から実質的に排除された事実を際立たせていた。
俺が自分の席に座ると、隣の空席――つい昨日まで間宮が座っていたデスクに、数人の若手社員が戸惑った様子で集まっていた。
「あの……佐藤係長。すみません、間宮さんが担当していたこの案件なんですけど……」
一人が、おそるおそる資料を差し出してくる。
「どうしたんだ?」
「それが……先方から、先週約束していた修正案が届いていないって、朝一番で連絡がありまして。履歴を確認したんですけど、下書きのままで止まっていて……」
俺はその資料を手に取り、数ページめくっただけで眉を潜めた。
部長が以前から指摘していた通りだった。引用されているライバル企業のデータは数年前のもので、顧客の要望に対する回答も、ただの御託を並べただけの、中身が伴わない代物だ。
「わかった。これは俺が引き取る。先方には俺から謝罪と、今日中に再提案する旨を伝えておいてくれ」
「えっ、いいんですか? 佐藤係長も自分の仕事があるのに……」
「いいんだ。このまま放置して、うちの課の信頼を落とすわけにはいかないからな。……本来、俺がもっと早く確認しておくべきだった。すまない」
俺はすぐにパソコンに向かい、キーボードを叩き始めた。
誠実さ。それが俺の武器だ。
間宮のように要領よく立ち回ることはできないが、地道に数値を洗い直し、一つ一つの課題を丁寧に潰していくことならできる。十年間、俺がこの会社で積み上げてきたのは、こうした泥臭い作業の積み重ねだった。
昼過ぎ。集中して作業を続けていた俺の背後に、微かなシトラスの香りが漂った。
コツ、コツ、と硬いヒールの音。振り返らなくても、それが誰だかすぐに分かる。
「佐藤係長。その案件の進捗はどう?」
九条部長だ。彼女は一糸乱れぬスーツ姿で、冷徹な上司としての仮面を完璧に纏っていた。
「はい。データの修正は完了しました。これから最終確認をして、夕方には先方へ送ります」
「そう。……貴方に任せて正解だったわね。間宮君が散らかしたものを片付けるのは骨が折れるでしょうけど、期待しているわ。……ああ、それと、無理に一人で抱え込みすぎないことね。合理的なリソース配分も、係長の仕事よ」
彼女は淡々と告げると、そのままフロアを横切っていった。
周囲の社員たちが「やっぱり佐藤さんだよな」「部長も信頼してるし」と小声で囁き合っているのが聞こえる。
不意に、胸の奥が少しだけ軽くなった。俺が守り続けてきた仕事への姿勢は、間違っていなかったのだ。
◇
定時を少し過ぎた頃。
片付けを終えて退社しようとする俺の前に、再び九条部長が現れた。
周囲に人がいないことを確認してから、彼女は少しだけ声を潜める。
「佐藤君。……少し付き合いなさい」
「買い出しですか? 確か、昨日買い込んだ分で数日は持つはずですが……」
「今日は、私の『リフレッシュ』を優先させてもらうわ。……脳のリソースを使いすぎたのよ。糖分を補給しないと、明日の仕事効率に影響するわ」
それは、彼女なりの労いなのだと、すぐに理解した。
断罪の立ち合い、そして今日の残務整理。俺を労いたいという気持ちを、彼女は「合理性」という言葉で不器用に包み隠している。四十二歳のキャリアウーマンとしてのプライドが、素直な感謝を口にするのを邪魔しているようだった。
「……承知いたしました。部長。何が良いでしょうか」
「……駅前の地下に、期間限定のアイスを置いている店があるわ。それと、少し良いワインも。……今日は、冷たいものでも食べて、区切りをつけるべきでしょう?」
◇
帰宅した部長の家は、俺が整えた時のまま、清潔な静寂を保っていた。
リビングに入った瞬間、彼女は大きく息を吐き、ピンとした背筋を緩めた。
眼鏡をかけ直し、ハーフアップにした髪を少し乱しながら、ソファに深く沈み込む。
「はぁー……。ようやく一息つけるわね。……佐藤君、神崎からメッセージが来ているわ」
彼女はスマホを操作し、表示された内容を読み上げた。
「……由香さん、マンションのローン督促に相当参っているみたい。間宮君と、ゴミ出しや洗濯のことで言い争いになって、今は互いに無視し合っているそうよ。……滑稽だわ。家計を支える『基盤』がいかに重いか、失って初めて知るなんて」
「……そうですか」
「自業自得ね。……でも、私たちの時間は、あんな人たちのために使うものではないわ。……ほら、早くそのアイスを出しなさい」
彼女は、買ってきたアイスをテーブルに置き、俺にスプーンを差し出した。
「食べなさい。……これは、私の生活効率を維持してくれている貴方への、正当な報酬よ」
不器用な、けれど確かな温かみを感じさせる言葉。
彼女はアイスを一口運ぶと、「……ん、美味しいわ」と、ふっと表情を緩めた。
その直後、口角に少しだけアイスがついているのに気づき、俺がそれを指摘すると、彼女は一瞬で耳まで赤くしてそっぽを向いた。
「……っ、見てないで、貴方も早く食べなさい。溶けてしまうわ」
完璧な上司が見せる、この家だけの特別な隙。
俺は、その隙を愛おしく思いながら、自分の分のスプーンを手に取った。
静かな夜の空気の中に、新しい日常の足音が、確かに聞こえていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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