第6話:贅沢な夕食と、報いの始まり
月曜日の夜。九条部長――怜奈さんが約束してくれた通り、今夜は少し贅沢な夜になった。
カバンの中には、仕事帰りに怜奈さんと合流して選んだ、最高級の和牛サーロインと、旬の彩り野菜が入っている。
「これ、佐藤君が焼いてくれるなら、外のレストランで食べるよりずっと価値があるわ」
そう言って、会計の際にいたずらっぽく笑った彼女の表情が、今も脳裏に焼き付いている。
帰宅し、怜奈さんがリビングで窮屈なストッキングから解放されている間に、俺はキッチンに立つ。
まずは、牛脂でじっくりとニンニクの香りを引き出し、肉を焼く準備を整える。
(……一週間前には、想像もできなかった光景だ)
雨の中、すべてを否定されて追い出された夜。
俺を救ったのは、いま隣の部屋で「ふぅ……」と深く息を吐きながらソファに沈み込んでいる、社内では決して見せない隙を見せた、ひとりの女性だった。
「佐藤君、良い匂い。お腹と背中がくっつきそうだわ」
「もうすぐ焼けますよ。付け合わせのクレソンと、特製のマスタードソースも用意しました」
ダイニングテーブルを整え、整理された空間に料理を運ぶ。
数日前まで山積みだった書類やゴミは、俺の「誠実な家事」によって消え去り、そこには本来の高級マンションらしい静謐な時間が流れている。
「いただきます……っ。……ん、最高。肉の旨みが爆発してるわ。これに佐藤君の作ったソースが合わさると、もう……仕事の疲れが消滅する感覚ね」
幸せそうに頬張る彼女を見て、俺の胸の奥は静かな充足感で満たされていく。
だが、食事の手を休めた怜奈さんが、ふと真剣な表情で俺を見つめた。
「……今日、会社で神崎から連絡があったわ。間宮君、パニックになって自分の親にまで泣きついたみたいよ」
「親に、ですか」
「ええ。でも、親御さんも真っ当な方だったみたいでね。神崎が出した証拠を見て、絶句していたそうよ。……由香さんの方も、実家の両親がマンションに駆けつけて、彼女を連れ戻そうとしたらしいけれど、相当な修羅場だったって」
包丁を持つときとは違う、冷たい怒りが指先に走る。
彼らは俺から奪った場所で、自分たちがしでかした不誠実の報いから逃げ回っているのだ。
「佐藤君、怖がることはないわ。貴方はここにいて、明日もまた、私のために美味しい朝食を作ってくれればいい。……あとは、私と神崎が、あの二人の『砂上の楼閣』を瓦礫に変えてあげるから」
彼女は、俺の震える手に、自分の温かい手を重ねた。
その力強さは、俺が信じてきた「誠実さ」は間違いではなかったのだと、無言で伝えてくれているようだった。
食後、怜奈さんがリビングで神崎から送られてきた資料を精査し始めた。
俺がコーヒーを淹れて差し出すと、彼女は画面を見つめたまま、低く冷ややかな声で言った。
「これを見て。間宮君、社内の共有サーバーに、君の悪評を流そうとした形跡があったわ。自分の不倫を正当化するために、君が家庭内でモラハラをしていたという偽の情報をね。でも……」
彼女は薄く笑った。
「あの子、詰めが甘いのよ。ログを消したつもりでしょうけど、情報システム部に私の息がかかった有能な子がいてね。全て復元して、名誉毀損の証拠としてキープしてあるわ」
「……そこまで、されていたんですね」
「ええ。でも、それが彼の命取りになる。明日、人事部を交えたヒアリングがあるわ。佐藤君、貴方はいつも通り、誠実に仕事をしていればいい。それだけで、あの子との『格の違い』が証明されるから」
◇
翌朝。会社に着くと、フロアの空気は昨日以上に重苦しかった。
昨日「体調不良」で早退したはずの間宮が、幽霊のような顔でデスクに座っていた。
だが、誰も彼に声をかけようとはしない。昨日の由香からの電話、そして神崎からの通知の噂は、瞬く間に社内に広まっていた。
「……佐藤係長」
間宮が、掠れた声で俺を呼んだ。
「……何かな、間宮君」
「これ、……全部あんたが仕組んだんすか? 弁護士とか、部長とか……。俺と由香さんを、そこまでして追い詰めたいんすか?」
逆恨みも甚だしい言葉だった。
俺が答える前に、後ろから冷徹な声が響く。
「追い詰めたのは、貴方の不誠実な行動そのものでしょう。間宮君、九階の会議室に来なさい。人事部長と、……佐藤係長の代理人である神崎弁護士が待っているわ」
そこには、一糸乱れぬスーツ姿の九条部長が立っていた。
間宮は絶望に顔を歪ませ、立ち上がることすらできずにいた。
「さあ、行きましょうか。佐藤君。……貴方も同席してちょうだい。被害者として、全ての真実を見届ける権利があるわ」
俺は深く頷き、怜奈さんの後ろを歩き出す。
窓から差し込む朝の光が、俺の汚名を晴らすための「戦いの始まり」を照らしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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