第5話:受任通知と、剥がれ落ちる仮面
月曜日の朝。オフィスには、週末の余韻を断ち切るような緊張感が漂っていた。
俺、佐藤誠は、いつものように始業三十分前にデスクに着き、九条部長――怜奈さんのために用意した、保温ボトルに入った淹れたてのコーヒーを彼女のデスクに置いた。
出社してきた彼女は、一瞬だけ俺と目を合わせ、小さく頷く。その瞳には、土曜日の穏やかな「怜奈」ではなく、戦闘態勢に入った「氷の部長」の光が宿っていた。
嵐が起きたのは、午前十時を過ぎた頃だった。
フロアの静寂を切り裂くように、間宮のスマホが激しく鳴り響く。
「……っ、チッ。なんだよ、仕事中だってのに」
間宮が忌々しそうに電話に出る。だが、次の瞬間、彼の顔から血の気が引いていくのが目に見えて分かった。
「え……? 受任通知……? 弁護士……? ちょっと待てよ、落ち着けって!」
受任通知。
それは、神崎弁護士が正式に俺の代理人となり、不倫の慰謝料とマンションの明け渡し、そして損害賠償を請求するという最後通告だ。
間宮の動揺は、フロア全体に伝播した。周囲の社員たちが「何事だ?」と顔を上げる。
その時、追い打ちをかけるように、会社の代表電話が鳴った。
「……はい、営業二課です。……えっ? 佐藤係長の奥様……? いえ、今、佐藤さんは取り込み中でして……」
電話を受けた新人社員が困惑した表情を浮かべる。
受話器からは、フロア中に響き渡るほどの、元妻・由香の金切り声が漏れていた。
「誠を出してよ! 何よあの手紙! 慰謝料五百万!? マンションも出ていけって、冗談じゃないわよ! 誠、そこにいるんでしょ! 出なさいよ!」
俺が立ち上がろうとした、その時。
奥の個室から、コツ、コツ、と硬い足音が響いた。
「……五月蝿いわね。ここは仕事の場よ」
九条部長だ。彼女は凍てつくような視線でフロアを一蹴し、新人から受話器を奪い取った。
「代わりなさい。……ええ、九条です。佐藤の上司ですが。……奥様、いいえ、『元』奥様と呼ぶべきかしら。貴女が今していることは、業務妨害に当たります。これ以上騒ぐなら、警察を呼び、請求額に『営業損失分』を上乗せするよう弁護士に伝えますが、よろしいかしら?」
電話の向こうが、一瞬で静まり返ったのが分かった。
「……な、なによあんた! 誠の味方をする気!? あいつ、私を捨てて自分だけ幸せになろうとしてるのよ!」
「捨てられたのは佐藤君の方でしょう。……不倫という不誠実な行為を選んだのは貴女たち。代償を払うのは当然の帰結よ。……二度と、ここへはかけないことね」
ガチャン、と受話器を置く音が、静まり返ったフロアに重く響いた。
九条部長は、そのまま震えている間宮の方へ歩み寄る。
「間宮君。貴方のデスクに、神崎弁護士から貴方宛の通知も届いているはずよ。……不倫は個人の自由かもしれないけれど、社内の規律を乱し、同僚の家庭を壊した事実は重いわ。……今後の身の振り方、よく考えなさい」
間宮は何も言い返せず、ただガタガタと膝を震わせていた。
周囲の社員たちの視線が、同情から「軽蔑」へと変わっていく。
俺を「退屈な男」と馬鹿にしていた二人の、あまりにも醜い自滅の始まりだった。
◇
昼休み。俺は非常階段の踊り場で、一人で息をついていた。
スカッとすると思っていたカタルシスよりも、虚無感の方が大きかった。十年間の想いが、あんな金切り声一つで終わってしまったのか、と。
「……佐藤君。そんな顔をすると思ったわ」
背後から、九条部長が現れた。
彼女は俺の隣に並び、手すりに体重を預ける。
「……部長。すみません、お騒がせして」
「いいのよ。……あれが、貴方が守ろうとしていたものの正体よ。……あんな女のために、これ以上心を砕く価値なんてないわ」
彼女はそっと、俺の手に自分の手を重ねた。
会社の中だというのに、彼女の手は温かく、力強かった。
「……今夜は、少し贅沢な食材を買って帰りましょう。神崎からの進捗も届いているわ。……貴方が作った美味しいご飯を食べて、全部忘れなさい」
「……はい。ありがとうございます、怜奈さん」
その日の午後、間宮は「体調不良」を理由に早退した。
後で聞いた話では、彼は元妻からの電話の嵐に耐えきれず、自分のアパートに逃げ帰ったらしい。
だが、そこにも神崎弁護士からの「請求書」が待ち構えている。
誠実さを踏みにじった代償は、これからじわじわと、彼らの生活を侵食していくだろう。
俺は、隣に立つ彼女の横顔を見つめながら、ようやく過去との決別を確信した。
嵐はまだ始まったばかりだが、俺には帰る場所がある。
氷の部長が、時折見せてくれる優しい「隙」がある。
それだけで、俺はもう、十分に戦っていける。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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