第4話:氷の女上司と、秘密の休日
金曜日の午後のオフィスは、週末を控えた独特の浮ついた空気と、溜まった仕事を片付けようとする焦燥感が入り混じっていた。
俺は淡々と週明けの会議資料を整理していたが、背後から聞こえてくる嫌味な声に、思わずペンを止めた。
「あーあ、佐藤係長はいいっすよね。独身(予定)に戻って、責任も家事もなーんも考えなくていいんだから。俺なんて、今夜も彼女――あ、元奥さんのわがままに付き合わなきゃいけないんすよw」
間宮が、わざとらしく大きな溜め息をつきながら、周囲の若手社員に聞こえるように吹聴している。
元妻との生活が、俺がいなくなったことで早々に立ち行かなくなっているストレスを、俺にぶつけることで解消しようとしているのだろう。
俺は振り向かずに答えた。
「……仕事が終わっているなら、早めに帰って彼女を支えてやればいい。間宮君、君の担当している案件、先方から確認の電話が来ていたぞ」
「ちっ……。細かいんだよ、相変わらず」
間宮が舌打ちをして席を立ったその時、フロアの入り口から九条部長が歩いてきた。
彼女は俺のデスクの横を通り過ぎる際、一瞬だけ足を止め、事務的なトーンで告げた。
「佐藤係長。……明日、社外研修の資料作成のために、少し備品を買い出しに行きたいの。午後の三時に、駅前の商業施設に来なさい。……これは『業務の延長』よ。いいわね?」
「……はい。承知いたしました」
周囲の社員たちは「うわ、土曜まで九条部長に呼び出されるなんて、佐藤さん同情するわ……」という憐れみの視線を送ってきた。
だが、俺と九条部長の間でだけ共有されている、微かな視線の揺れ。
それは、同居している二人だけの「秘密の約束」だった。
◇
翌日、土曜日の午後三時。
約束の場所に現れた九条部長を見て、俺は危うく声を上げそうになった。
「……お待たせ。そんなに驚いた顔をして、どうしたの?」
そこにいたのは、会社で見せる鉄壁のスーツ姿ではなかった。
柔らかなオフホワイトのロングカーディガンに、淡いブルーのデニム。
髪はゆるく巻いてハーフアップにされ、眼鏡ではなくコンタクトにしているのか、大きな瞳が春の陽光を反射してキラキラと輝いている。
「……いえ。部長、その、私服だと雰囲気が全く違うので」
「そう? ……まあ、会社では『氷の部長』を演じないと、あんな間宮君みたいな手合いを抑え込めないから。……さあ、行きましょう。今日は私の『リフレッシュ』に付き合ってもらうわよ」
彼女はそう言うと、自然な動作で俺の腕に手を添えた。
柔らかい感触と、微かに香るシトラスの匂い。
不倫した妻に捨てられ、女性という存在に臆病になっていた俺の鼓動が、うるさいほどに速くなる。
立ち寄ったのは、彼女の言葉通り「備品」ではなく、お洒落なインテリアショップやセレクトショップだった。
「ねえ、佐藤君。このクッション、リビングに置いたらどうかしら。……あ、こっちの観葉植物の方が、貴方の作る料理に合うかしらね」
「……部長、それは研修の備品では?」
「あら。……『私』という備品を整えるための買い物よ。文句ある?」
彼女はいたずらっぽく微笑む。
それは、部下としてではなく、一人の男として頼られているような、不思議な感覚だった。
俺は彼女が手に取った重い荷物をさりげなく受け取り、彼女の歩幅に合わせて歩いた。
妻と結婚していた十年間、こんな風に穏やかな買い物をしたのはいつだっただろうか。
いつも「早くして」「荷物持って」「センス悪いわね」と罵られていた記憶しかない俺にとって、九条部長の「……ありがとう。佐藤君は、本当に気が利くわね」という何気ない一言が、乾いた心に染み渡っていく。
◇
買い物を終え、夕暮れ時のカフェで一休みすることになった。
テラス席に座り、コーヒーを啜る九条部長。その横顔を見つめていると、彼女がふと寂しげに笑った。
「……佐藤君。貴方は、どうしてそんなに誠実でいられるの? 裏切られて、傷ついて……。私なら、もっと自暴自棄になってもおかしくないと思うんだけど」
「……分かりません。ただ、それが僕の唯一の誇りだったんです。……でも、妻にはそれが『退屈』だと言われました」
俺の言葉に、九条部長はコーヒーカップを置き、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
彼女の瞳には、上司としての厳しさではなく、一人の女性としての深い慈しみがあった。
「……退屈、か。馬鹿ね、その女。……貴方のその誠実さが、どれだけ価値のあるものか。少なくとも、私は救われているわよ。……家が、帰りたい場所になったのは、貴方が来てくれたからだもの」
「……部長」
「怜奈、でいいわ。……家の中だけじゃなくて、外でも。……時々でいいから」
彼女の頬が、夕焼けのせいか、それとも別の理由か、ほんのりと赤く染まっていた。
四十二歳の「完璧な上司」が見せた、少女のような純粋な願い。
俺は、彼女を守りたいと、心の底から思った。
「……分かりました。怜奈さん。……これからも、よろしくお願いします」
俺たちが笑い合っているその頃、駅の反対側では、買い物袋を抱えて険悪なムードで歩く、元妻と間宮の姿があった。
安売りのスーパーの袋を持ち、髪を振り乱して不満を漏らす元妻。
スマホを弄りながら面倒そうに舌打ちする間宮。
二人の色褪せた日常と、俺たちが手に入れようとしている新しい輝き。
その対比は、残酷なまでに鮮明だった。
「さあ、帰りましょうか。今夜は、佐藤君の特製パスタが食べたいわ」
「はい。腕を振るいますね、部長――いえ、怜奈さん」
二人の距離が、物理的にも、精神的にも、一歩近づいた土曜の夕暮れ。
月曜日に届くであろう、神崎弁護士からの「受任通知」が、嵐の始まりを告げる直前の、束の間の凪だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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