第3話:最強の弁護士と、揺れる胸中
約束の金曜日の夜。九条部長のマンションは、俺の「誠実な清掃」によって、数日前とは見違えるほど整っていた。
キッチンからは、じっくり煮込んだ角煮の甘辛い香りが漂っている。
「……信じられないわ。ここ、本当に私の家かしら。佐藤君、貴方には清掃業への転職も勧めたくなるわね」
ソファに深く腰掛け、ビール缶を片手に感心したような声を出す九条部長。
今日の彼女は、仕事用の眼鏡を外し、少しゆったりとしたニットを纏っている。白く細い指が、グラスの縁をなぞる仕草に、ふと視線を奪われそうになる。
その時、インターホンが鳴った。
「あ、来たわね。……神崎よ。少し口は悪いけど、腕だけは本物だから」
現れたのは、高級そうなチャコールグレーのスーツを隙なく着こなした男だった。
年齢は九条部長と同じくらいだろうか。整った顔立ちに、どこか人を食ったような不敵な笑みを浮かべている。
「やあ、怜奈。……ほう、あのゴミ屋敷がここまで片付くとは。天変地異でも起きたかと思ったよ」
「うるさいわね。……紹介するわ。私の部下で、今回の依頼人の佐藤君よ」
「初めまして、佐藤さん。弁護士の神崎です。……怜奈から話は聞いていますよ。『最高に誠実で、最高に不運な男を拾った』とね」
神崎は俺の手を握りながら、値踏みするように目を細めた。
九条部長のことを「怜奈」と下の名前で呼ぶ親密さ。二人が並ぶと、まるで完成された一枚の絵画のようで、俺の胸の奥に、チリッとした小さな痛みが走った。
◇
食卓を囲み、神崎は俺が作った料理を一口食べると、大袈裟に眉を上げた。
「……なるほど。怜奈が家に入れた理由が分かった。この味は、一度知ると離れられない。佐藤さん、貴方は罪な男だ」
「……恐縮です」
「さて、本題に入りましょうか。……佐藤さん。貴方の奥さんと、その不倫相手の間宮君。彼らの行動は、あまりにも杜撰で、かつ悪質です」
神崎がカバンから取り出したのは、数枚の報告書と写真だった。
そこには、俺がまだあの家にいた頃から、二人が手を繋いでホテルに入っていく姿や、俺の給料で購入したブランド品を間宮に買い与えている妻の姿が、鮮明に写し出されていた。
「……っ」
胃の底が焼け付くような怒りが込み上げる。
誠実であったはずの十年間。その裏で、俺はこれほどまでに嘲笑われていたのか。
「佐藤さん、安心してください。……慰謝料の請求はもちろん、マンションの権利、不当な追い出しに対する損害賠償。全て、相場の倍は毟り取って差し上げます。……怜奈をこれほど公私共に支えている貴方を傷つけた報いですから」
神崎の言葉に、九条部長が少しだけ頬を赤らめてそっぽを向いた。
「……別に、支えられてるなんて言ってないわ。ただ、彼の朝食がないと私の仕事効率が落ちるだけよ」
「ふふ、そういうことにしておきましょうか」
神崎の笑い声に、俺のモヤモヤとした気持ちが少しだけ晴れていく。
この二人は、戦友なのだ。そして今、その戦列に俺も加えてもらおうとしている。
◇
その頃。
俺を追い出したはずの、あのマンションでは――。
「……ねえ、マミくん。洗濯物、また溜まってるんだけど。……昨日の夜に洗っておいてって言ったじゃない」
不機嫌そうに声を上げたのは、元妻だ。
「えー、だって俺、昨日は残業で疲れてたし。……っていうか、前の旦那の時は、あいつが全部やってたんだろ? なんで俺がやらなきゃいけないんだよ」
不倫相手の間宮が、ソファでスマホをいじりながら生返事を返す。
「あいつは、……誠は、黙っててもやってくれたのよ! あんた、掃除も料理もしないし、おまけにこの家のローン、今月分どうするのよ。私のパート代だけじゃ足りないって言ってるじゃない!」
「そんなの、あいつに請求すればいいだろ? 追い出したんだから、あいつが払うのが当然だって」
二人は、まだ気づいていなかった。
彼らが謳歌していた「自由」も「贅沢」も、全ては俺という「誠実な基盤」の上に成り立っていた、砂上の楼閣であったことに。
そして、その基盤を自らの手で壊した瞬間から、破滅へのカウントダウンが始まっていることに。
「……マミくん、なんか今日、部屋が臭くない?」
「……ゴミ出し、あいつがやってた曜日、分かんねーんだよ」
部屋の隅に溜まったゴミの山と、冷え切った食卓。
俺がいなくなったことで、二人の関係は、急速に色褪せていた。
◇
九条部長の家では、神崎が帰り、静かな夜が戻っていた。
食器を洗う俺の背中に、九条部長が声をかける。
「……佐藤君。神崎に、変なこと言われて、気にしてない?」
「……神崎さんとの仲のことですか?」
俺が直球で返すと、彼女は少し慌てたようにグラスを置いた。
「違うわよ! あいつはただの腐れ縁。……私が言いたいのは、その……。貴方はもう、一人じゃないってこと。……私が、保証するわ。貴方の誠実さは、武器になるって」
洗い物を終えた手で、俺は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。部長。……明日、また美味しい朝食を作らせてください」
「ええ。楽しみにしているわ」
九条部長が、眼鏡を外して優しく笑う。
その笑顔を独占できている今の自分を、ほんの少しだけ誇らしく思いながら、俺は次の戦いへの決意を固めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、
下方の【評価(★★★★★)】や、ブックマーク等で応援いただけると、執筆の大きな励みになります。
何卒、よろしくお願いいたします!




