第2話:氷の仮面と、秘密の朝食
鳥の囀りではなく、スマホの無機質なアラーム音で目が覚めた。
視界に飛び込んできたのは、見覚えのない高い天井と、昨日俺が整理したはずなのに、まだどこか雑然としたリビングの風景だ。
(……ああ、そうか。俺は昨日、家を追い出されて、部長の家に拾われたんだっけか)
リビングのソファで毛布にくるまっていた俺は、体を起こしてキッチンへと向かう。
時刻は午前六時。誠実さだけが取り柄の俺の体には、十年間の結婚生活で染み付いた「早起きして朝食を作る」というルーチンが刻み込まれていた。
冷蔵庫を開ける。昨夜、九条部長――九条怜奈さんが「一週間前の卵があるかも」と言っていた通り、中身は絶望的だった。
しなびたネギ、賞味期限の切れたヨーグルト、そしてなぜか一瓶まるごと残っている高級な粒マスタード。
「……さて、これで何が作れるかな」
俺は狭いキッチンを魔法のように使いこなし、手際よく動いた。
冷凍庫の奥に眠っていた食パンをトーストし、しなびたネギは刻んでコンソメスープの具にする。卵は幸い生きていたので、バターをたっぷり使ったプレーンオムレツに仕上げた。
ちょうどトーストが焼き上がる香ばしい匂いが漂い始めた頃。
寝室のドアがゆっくりと開き、一人の女性が這い出してきた。
「……んー……。佐藤君? 何、このいい匂い……」
そこには、昨夜の「鉄の女」の面影など微塵もない、寝癖だらけのボサボサ頭で、ヨレヨレのTシャツ一枚を羽織っただけの四十二歳がいた。
眠そうに目をこすりながら、無防備に白い太ももを晒して椅子に座る。
「おはようございます、部長。朝食、できてますよ」
「……ん、ありがと。……あ、美味しい。このオムレツ、中がトロトロじゃない……」
彼女は夢中でスプーンを動かし、最後の一口まで綺麗に平らげた。
満足げに息をつき、コーヒーを一口飲む。その瞬間、彼女の瞳に「仕事モード」の光が宿った。
「……佐藤君。これから三十分、私は『氷の部長』に戻るわ。貴方も準備しなさい。会社では、昨日までの通りに」
「承知しました。……九条部長」
三十分後。
鏡の前に立っていたのは、一糸乱れぬタイトスカートに身を包み、鋭い眼鏡の奥で冷徹な光を放つ、完璧なキャリアウーマンだった。
玄関を出る際、彼女は俺の方を一度も振り返らず、冷ややかに言い放った。
「佐藤係長、お先に失礼するわ。遅刻は認めないから、そのつもりで」
その完璧な後ろ姿の裏で、ついさっきまで寝癖を立ててオムレツを頬張っていた姿を思い出せるのは、世界で俺一人だけ。
不覚にも、胸の奥が少しだけ熱くなった。
◇
出社してからの空気は、地獄のようだった。
俺がデスクに座るなり、隣の席の若手社員――間宮がニヤニヤしながら近づいてきた。
こいつが、俺の妻と不倫し、俺を家から追い出した張本人だ。
「あ、佐藤係長。おはようございまーす。昨日、ちゃんと眠れました? ネットカフェ難民になってなきゃいいんですけどw」
間宮は周囲に聞こえないような低い声で、けれど確実に俺を逆なでするように囁く。
こいつは仕事はそこそこできるが、要領が良く、上司に取り入るのが得意なタイプだ。
俺の誠実さを『要領が悪い』と馬鹿にし、挙句の果てに俺の家庭まで奪った。
「……仕事の話なら、後にしろ。今は進捗管理表を仕上げているんだ」
「おっ、さすが誠実がモットーの佐藤さん。家がなくても仕事はバッチリっすね。あ、奥さんのことなら心配しないでください。今朝も『あんたの方がずっといいわ』って、最高の朝食作ってくれましたから」
拳が震える。
だが、ここで手を出せば俺の負けだ。
俺は無言でパソコンに向き合い続けた。
そんな時、フロアの空気が一瞬で凍りついた。
コツ、コツ、と硬いヒールの音が響く。九条部長だ。
間宮は待ってましたと言わんばかりに、営業スマイルを張り付かせて彼女の元へ駆け寄った。
「九条部長! おはようございます! 今回の新プロジェクトの企画書、少し手直ししておきました。もしよろしければ、ランチでもご一緒しながらご説明させていただければと……」
間宮は自信満々だった。
社内の女性の扱いに長けている彼は、氷の九条部長すらも自分の手玉に取れると信じている節がある。
だが、九条部長は立ち止まることすらなく、冷徹な視線を一瞬だけ間宮に向けた。
「……間宮君。あなたのその企画書、数値の根拠が甘いわね。ランチに誘う暇があるなら、ライバル企業の過去三年のデータを洗い直して。それから――」
彼女は一歩、俺のデスクの方へ歩み寄った。
「佐藤係長。昨日の資料、完璧だったわ。後で私の部屋へ来てちょうだい。今後の体制について、少し話し合いたいことがあるの」
「……はい。承知いたしました」
一瞬、彼女の眼鏡の奥の瞳が、昨夜の「あの温かい家」を思い出させるように揺れた気がした。
間宮の顔が、屈辱で真っ赤に染まる。
憧れの「氷の女」に一蹴され、自分が馬鹿にしていた俺が評価される。
それが、これほどまでに滑稽だとは思わなかった。
◇
その日の夜。
九条部長のマンションに戻ると、彼女は玄関で再びパンプスを放り出し、盛大な溜め息をついた。
「はぁー……。疲れた。佐藤君、今日のあの子……間宮君だっけ? 本当に不快だわ。仕事の詰めが甘いくせに、口だけは達者なんだから。あんなのが貴方の部下なんて、同情するわ」
「……そうですね。でも、部長があっさりと切り捨ててくれたおかげで、少しだけ救われました」
俺はキッチンに立ち、手早く夕食の準備を始める。
今日の献立は、九条部長がボソッと呟いていた「美味しい煮物」だ。
「……ねえ、佐藤君」
「はい」
「さっき、神崎っていう私の知り合いの弁護士から連絡があったわ。例の件、……貴方の離婚と、不倫の慰謝料請求。本格的に動く準備ができたって」
包丁を動かす手が止まる。
九条部長はソファから、真剣な眼差しをこちらに向けていた。
「私の友人で、かなり性格は悪いけど腕は一流よ。……徹底的にやりたいんでしょ? 奪われたものを、全部取り返してやりたいんでしょ?」
彼女は、俺の「誠実さ」という牙が、まだ死んでいないことを見抜いていた。
氷の女上司という最強の味方。そして、これから現れる最強の弁護士。
「……お願いします。俺を否定したあの二人に、後悔を教えてやりたいです」
「ふふ、いい顔ね。……じゃあ、明日の晩、その神崎をここに呼ぶわ。……あ、部屋、片付けなきゃダメかしら?」
「……それは、俺の仕事ですから」
俺の返答に、彼女は子供のように無邪気に笑った。
嵐の前の、けれどどこか温かい、二人の静かな夜が過ぎていく。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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