第25話:マンションの鍵、最後の一本
夏の終わりを告げるような、湿り気を帯びた熱風が窓を叩いていた。
朝食のテーブルに並べたのは、怜奈さんの好物である出汁のきいた厚焼き玉子と、炊き立ての米。湯気の向こうで、彼女は新聞に目を落としながら、ふと手を止めた。
「……神崎から連絡があったわ。今日の夕方、例の物件の最終的な引き渡しがあるそうね」
「はい。最後の一本の鍵を返却して、すべての手続きが終わります」
俺の言葉に、怜奈さんは新聞を置き、眼鏡の奥の瞳でじっと俺を見つめた。
「……最後の手続きね。仕事の後にでも済ませてきなさい。貴方を縛っていた物理的な鎖が、これで完全に消滅するわ。合理的に考えれば、これほど清々しいことはないはずよ」
彼女はそう言って、いつものように事務的なトーンを保とうとしていた。だが、俺がかつて十年間守り続けた場所へ戻ることに、僅かな……本当に僅かな不安を抱いているのを、俺は察していた。
「終わったら、真っ直ぐに帰りなさい。……夕食、待っているわ。貴方のリソースを、あんな場所に一分でも長く放置しておくのは非効率だもの」
「……ええ。終わったらすぐに戻ります、怜奈さん」
俺の返答に、彼女は少しだけ満足そうに頷き、再び仕事の顔に戻ってコーヒーを口にした。
◇
オフィスでの時間は、驚くほど速く過ぎ去った。
かつての俺なら、過去との決別に怯え、仕事が手に付かなかったかもしれない。だが、今の俺には、誠実に積み上げてきた実績と、それを正当に評価してくれる「部長」という背中がある。
定時少し前、俺はすべての業務を完璧に完遂し、デスクを整えた。
「お疲れ様です、佐藤係長。……今日は、大切な用事があるそうですね」
加藤が、珍しく茶化すような真似はせず、真面目な顔で声をかけてきた。
「ああ。……少し、過去を置いてくるだけだよ」
ビルを出て、俺は神崎弁護士の待つ、かつての我が家へと向かった。
夕日に照らされたマンションの外観は、数ヶ月前と変わらずそこにあった。けれど、見上げる俺の心には、あの日追い出された時の絶望も、怒りも、もう残っていなかった。
神崎と共に、オートロックを抜け、エレベーターに乗る。
無機質な機械音が響く中、神崎がポケットから一本の鍵を取り出した。
「佐藤さん。これが、貴方の手元に残る最後の一本です。これを管理人に返却すれば、貴方とこの部屋を繋ぐものは、何もなくなります」
玄関のドアを開けた瞬間、俺を襲ったのは、懐かしい匂いではなかった。
家具も、家電も、そして人の気配すらも完全に消えた、冷たいコンクリートの匂い。
俺が這いつくばって磨き上げた床は、夕暮れの光を虚しく反射している。誰もいないはずのキッチンに、由香のために料理を作っていた自分の幻影が、一瞬だけ揺らめいて消えた。
ここは、俺の誠実さが死に、埋葬された場所だ。
神崎から差し出された、冷たい金属の鍵。それを受け取る俺の指先が、自分でも驚くほど、僅かに、けれど確かに震えていた。
がらんとしたリビング。神崎さんが見守る中、俺は部屋の真ん中に立ち、かつて自分が十年間も「基盤」として守り続けてきた空間を最後に見渡した。
ここで由香と笑い、彼女のために食事を作り、彼女が汚した場所を黙って磨き続けた。あの頃、俺はそれが「誠実さ」だと信じて疑わなかった。けれど今、家具一つなくなったこの冷たいコンクリートの箱を見つめて、ようやく理解した。
俺が捧げてきたものは、彼女には届いていなかったのではない。彼女がそれを望んでいなかったのだ。俺は、愛という名の独りよがりな献身を、この無機質な空間に埋めていただけだった。
「……佐藤さん。よろしいですか?」
神崎さんの静かな声に、俺は深く一度だけ頷いた。
「はい。……ここには、もう俺の守るべきものは、何一つ残っていません」
俺は手に持っていた最後の一本の鍵を、神崎さんへと差し出した。
「管理人に返却をお願いします。……俺は、もう二度とここへは戻りませんから」
「……承知いたしました。これで本当に、法的な過去も、物理的な執着も、すべて清算されましたね。……お疲れ様でした、佐藤さん」
◇
マンションを出ると、晩夏の夜風が頬を撫でた。
昼間の熱気が嘘のように引き、湿り気を帯びた空気が、俺の中に残っていた最後の感傷を洗い流していくように感じられた。
神崎さんは車の横で足を止め、俺を見て僅かに目を細めた。
「……お疲れ様でした。これで本当に、ゼロですね」
「いいえ。ゼロではありません」
俺は夜空を見上げ、その先に待っている光を思い浮かべた。
「俺には、帰る場所がありますから。……今の俺を、必要としてくれる人がいる場所が」
神崎さんは「……そうでしたね」と、珍しく柔らかな笑みを浮かべて去っていった。
◇
怜奈さんのマンションのドアを開けると、そこには懐かしい「生活の匂い」が満ちていた。
かつての家のような冷たいコンクリートの匂いではなく、清潔に整えられたシトラスの香りと、俺が朝用意しておいた出汁の残り香。
リビングに入ると、怜奈さんはソファでタブレットを眺めていたが、俺の足音に気づくと、いつもより心なしか素早く顔を上げた。
「……遅かったわね。貴方の不在による私の生活効率の低下を、これ以上拡大させないでちょうだい」
彼女は眼鏡を直し、ぶっきらぼうに告げた。だが、その瞳には、俺が迷わずに帰ってきたことへの、隠しきれない安堵の色が宿っていた。
「……すみません。今、戻りました」
「お腹が空いたわ。貴方のリソース、今すぐ私への食事提供に割きなさい。……今日は、頑張ったご褒美に、私の好きなものでいいわ」
その不器用な、けれど確かな温もりを伴った出迎え。
十年の歳月を費やしたあの家よりも、俺を「誠実な一人の男」として待っていてくれるこの場所の方が、何倍も重く、愛おしい。
俺はエプロンを締め、彼女のためにキッチンへと立った。
「……ただいま戻りました、怜奈さん」
「……ええ。おかえりなさい、佐藤君」
本当の居場所。本当の日常。
俺の誠実さが、誰かの「安らぎ」になる。その確信を抱いて、俺たちは新しい朝へと歩き出す。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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