第24話:由香の「空疎な懺悔」と引導
アスファルトが陽炎を放ち、蝉の声が耳を劈くほどに響き渡る盛夏の午後。
定時を告げるチャイムと共に、俺は九条部長――怜奈さんと連れ立って、オフィスビルの重厚なエントランスを後にした。
「……信じられない熱気ね。これほど高温度の環境下では、思考のリソースを維持するだけで精一杯だわ。佐藤君、今夜は無理に火を使わなくていいわ。冷たいもので、胃の負担を軽減しましょう」
「ええ、そうですね。瑞々しい夏野菜を冷やして用意しておきます、怜奈さん」
そんな、事務的でありながら確かな信頼の通う会話。
かつて俺が「誠実すぎて退屈だ」と捨てられたあの頃、夢にまで見た穏やかな生活がここにある。俺は隣を歩く彼女の、僅かに上気した頬を視界に入れながら、今の充足を噛み締めていた。
だが、その平穏は一瞬にして凍りついた。
「……誠。誠なのね」
ビルの陰から、一人の女性が這い出すように現れた。
俺は反射的に足を止め、怜奈さんの前に一歩出る。
そこにいたのは、由香だった。
以前、ここで再会した時よりもさらにやつれ、手入れのされていない髪は肩で無惨に跳ねている。ヨレヨレの服に、焦点の定まらない瞳。かつて彼女を彩っていた「傲慢なまでの美しさ」は、もはや塵一つ残っていなかった。
「誠……お願い、聞いて。私、もう本当に独りなの。マミくんは、私の貯金を全部持って、別の女の所へ逃げちゃったみたい。……家賃も払えなくて、昨日の夜、アパートを追い出されたのよ」
由香は、すがりつくように俺の腕に手を伸ばそうとした。俺がそれを冷たく避けると、彼女はその場に崩れ落ち、泣きじゃくりながら言葉を重ねた。
「あの時は、どうかしてたの。不倫なんて、ただの気の迷いだった。……誠と別れて、一人になって、初めて気づいたの。私のことを本当に愛して、守ってくれたのは、あんただけだったんだって。……誠なら、許してくれるわよね? あんたの取り柄は、いつだってその『誠実さ』だったじゃない!」
彼女の口から漏れる「懺悔」と称された言葉。
けれど、それはあまりにも空疎だった。彼女が悔やんでいるのは、俺を裏切ったことでも、俺の心を壊したことでもない。ただ、自分の生活を支える「誠実な基盤(俺)」を失い、生活が立ち行かなくなったことへの、独りよがりな泣き言でしかない。
俺は、足元で泣き崩れる彼女を、ただ無機質な壁を見るような眼差しで見つめていた。
かつてなら、俺はこの涙を見て、自らの身を削ってでも彼女を助けようとしただろう。だが、今の俺の胸に去来するのは、憐れみでも怒りでもない。
ただ、彼女に割くべきリソースが、俺の中にはもう一滴も残っていないという、冷徹な事実だけだった。
脳裏に、怜奈さんがよく口にする言葉が過った。
俺は深く息を吐き、由香に告げるために、ゆっくりと口を開いた。
足元で縋り付き、見苦しく涙を流す由香を見下ろしながら、俺の心は驚くほど凪いでいた。かつて俺の誠実さを「退屈」と切り捨てた彼女が、今度はその誠実さを「命綱」として求めている。その身勝手な矛盾が、俺の中の最後の情を完全に消し去っていた。
「……由香。顔を上げてくれ」
俺は、彼女に届くよう、努めて冷静に声をかけた。
「誠、じゃあ……!」
期待に顔を上げた由香に対し、俺は怜奈さんから学んだ、最も残酷で、最も正しい論理を突きつけた。
「由香、君に割くリソースは、今の俺にはもう一秒も残っていないんだ」
「え……? リ、リソース……?」
「今の俺にとって、自分の時間や誠実さを誰に捧げるべきか、その優先順位はもう明確なんだよ。君のような不合理な存在に思考を割くことは、俺の新しい生活において、最も非効率な損失でしかない。……これは冷酷なんじゃない。今の俺にとって、唯一の正しい選択なんだ」
彼女がかつて馬鹿にしていた、俺の真面目さ。それが今は、彼女を排除するための鋭い刃となって突き刺さる。由香は絶望に顔を歪ませ、「誠実だったあんたが、そんな冷たいこと言うなんて……っ!」と叫んだが、その声は俺の心にはもう届かなかった。
傍らで静観していた怜奈さんが、一歩前へ出た。彼女は氷のような部長の顔で、膝をつく由香を見下ろした。
「……聞き苦しいわね。警察を呼ぶ手間をかけさせないで。貴女の存在は、今の私たちの生活において、排除すべき不純物でしかないわ。……佐藤君、行きましょう。これ以上ここに留まるのは、時間の浪費よ」
「……はい。行きましょう、部長」
俺は一度も振り返ることなく、怜奈さんの隣に並んで歩き出した。
背後で由香の泣き叫ぶ声が聞こえたが、それも夏の蝉時雨の中に、やがてかき消されていった。
◇
夕闇が迫る駅への道すがら、俺たちは無言で歩幅を合わせていた。
ふと、怜奈さんが前を向いたまま、可笑しそうに口角を上げた。
「……佐藤君。さっきの言葉、私の口癖を借りたわね」
「あ……。すみません、つい。でも、あの状況で一番しっくりきたのが、あの言葉だったんです」
「いいわよ。使い道が正しかったわ。……不純物を切り捨てるための合理的な判断、合格よ」
彼女の不器用な、けれど確かな信頼の言葉。
かつての俺は、誰にでも誠実であろうとして、結局一番大切なものを守れなかった。けれど今は違う。誠実さには「使い道」があり、それを捧げるべき相手を、俺はもう見つけている。
「……ありがとうございます、怜奈さん」
帰宅したリビングには、涼やかなシトラスの香りが満ちていた。
過去の亡霊を完全に埋葬した俺たちは、二人で冷たい夏野菜を囲んだ。
整えられた清潔な空間。静かな夜。
俺の誠実さが、誰かの「空白」を埋め、誰かの「安らぎ」になる。その確信が、今の俺の、揺るぎない基盤になっていた。




