表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誠実だけが取り柄の僕が、不倫した妻に家を追い出された夜。会社一冷徹な42歳の女上司に拾われたら、彼女の私生活はボロボロだった  作者: 寝不足魔王


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
26/30

第26話:九条家への『合理的』な挨拶

 夏の終わりの湿り気が、秋の澄んだ空気に押し流されようとしていた、ある土曜日の朝。

 穏やかな朝食の時間を破ったのは、怜奈さんのスマホに届いた一通の着信だった。画面に表示された「父」という二文字を見た瞬間、彼女の手からフォークが滑り落ち、カランと乾いた音を立てた。


「……何事かしら。非合理的なタイミングだわ」

 通話を終えた怜奈さんの顔は、これまでに見たことがないほど強張っていた。

「佐藤君。……父が、貴方を連れて一度実家へ来なさいと言っているわ。どうやら、私が勝手に同居人を囲っているという事実が、向こうの耳に入ったようね」


 かつて彼女が「私の両親にも、好感度が高そう」と小声で漏らしていた独白。それが、予想よりもずっと重い形で現実となった。俺は背筋を伸ばし、彼女の不安を打ち消すように深く頷いた。

「……承知いたしました。怜奈さんのご両親には、俺もしっかりとご挨拶したいと思っていました。逃げるような真似はしたくありませんから」

「……貴方は、本当に損な生き方をするわね。でも……ありがとう」


 ◇


 訪れた九条の実家は、怜奈さんの性格を形作った源流を思わせる、静謐せいひつで厳格な日本家屋だった。庭の松の一枝に至るまで完璧に手入れがされており、塵一つ落ちていないその佇まいは、かつての彼女が追い求めた「完璧主義」の象徴のように見えた。


 玄関先で、怜奈さんが俺の袖を僅かに引いた。

「……いい? 佐藤君。私の父、九条 厳三げんぞうは、極めて封建的で合理主義な男よ。貴方の誠実さを『甘さ』や『無能』と切り捨てるかもしれない。けれど、貴方は貴方のままでいいから。……私が選んだのは、今の貴方なのだから」


 彼女の不器用な、けれど必死な庇護の言葉。俺は「大丈夫ですよ、怜奈さん」と短く答え、彼女の後に続いて屋敷に足を踏み入れた。


 通された座敷の奥。そこに、一糸乱れぬ着物姿で端座する老人がいた。

 九条厳三。深く刻まれた眉間の皺と、すべてを見透かすような鋭い眼差しは、まさに「氷の部長」の父そのものだった。


「……座れ」

 重厚な、地を這うような声。

 俺と怜奈さんは、向き合うように畳に膝をついた。室内に流れる沈黙は、針が落ちる音すら響きそうなほどに張り詰めている。


「娘から聞いている。佐藤誠、と言ったか。……貴様、家事が得意だそうだな」

 厳三は、値踏みするような視線を俺にぶつけてきた。

「だが、男の誠実さなどというものは、往々にして無能の言い訳に過ぎん。目に見える実績も持たぬ者が、娘の側にいて何ができる? 貴様は、私の娘に何を差し出せるというのだ」


 その言葉は、かつて俺が元妻から投げつけられた「退屈」という言葉よりも、ずっと鋭く、重い。

 横に座る怜奈さんが、何かを言い返そうと唇を震わせる。

 だが、俺はそれを手で制し、真っ直ぐに厳三の瞳を見つめ返した。逃げも隠れもしない。十年間、泥臭く積み上げてきた俺の「誠実さ」という基盤が、今、この老いた虎を前に試されていた。


 九条厳三の放つ、刃のような沈黙が座敷を支配していた。

 「娘に何を差し出せる」という問い。それは、俺がかつて最も深く傷つき、そして今、最も自信を持って答えられる問いでもあった。俺は一呼吸置き、静かに口を開いた。


「……私は、彼女の『空白』を埋め、戦い続けるための基盤を死守しています」

「空白だと?」

「はい。怜奈さんは仕事という戦場で最大限のパフォーマンスを発揮するために、私生活のすべてを削ぎ落としてきました。それは彼女の強さであると同時に、あまりに危うい孤独でもありました」


 俺は隣に座る怜奈さんの、僅かに震える指先を視界に入れながら言葉を継いだ。

「私が彼女の生活を整え、健康を管理し、安らげる場所を作る。これは単なる奉仕ではなく、彼女が九条怜奈という『氷の部長』であり続けるための、後方支援という名の投資です。この役割は、彼女の合理性を誰よりも理解し、誠実に向き合える私にしか務まりません」


 厳三は、俺の言葉を一言も聞き漏らさぬよう目を細めていた。

 やがて、彼は鼻で笑い、床の間に置かれた古い香炉を指差した。

「……面白いことを言う。では、貴様の言う『基盤の維持』とやらを見せてみろ。この香炉のすすが、いつまでも落ちぬ。合理的な手入れ法があるなら、言ってみるがいい」


 俺は香炉を拝見し、その材質と時代を瞬時に見極めた。

「……これは青銅ですね。安易な研磨は風合いを損ないます。重曹を溶かしたぬるま湯を使い、柔らかい布で一定の方向に……」

 俺が淀みなく、かつ誠実なこだわりを持って手入れの真髄を語り始めると、厳三の瞳に、初めて「知心」の光が宿った。


「……ほう。貴様、古い木材の乾拭きについてはどう考える」

「それは、脂分を奪いすぎないことが肝要です。特にこの屋敷のような立派な梁であれば……」

 

 気づけば、張り詰めていた空気はどこかへ消えていた。

 怜奈さんが口を挟む隙もないほど、俺と厳三は「家を整えることの合理性と美学」について熱く語り合っていた。怜奈さんは、あ然とした表情で俺たちの顔を交互に眺めている。


「……ふん。口だけではないようだな」

 厳三が、奥の棚から古い徳利を取り出した。

「佐藤と言ったか。貴様のその、退屈なまでに真っ直ぐな誠実さ……嫌いではない。九条の家の酒を飲んでいけ」


 ◇


 実家を後にしたのは、すっかり日が落ち、虫の音が涼やかに響く時間だった。

 門を出て、駅へと続く坂道を下る。怜奈さんは隣で、まだ信じられないといった様子で頬を赤らめていた。


「……貴方は本当に、計算外だわ。あの偏屈な父を、あんなに早く手懐けるなんて。……家事の講釈で父と意気投合するなんて、私の想定したどのシミュレーションにもなかったことよ」

「……すみません、つい。でも、怜奈さんを育てたお父様ですから、きっと俺の誠実さも分かってくださると思っていました」


 俺が微笑んで答えると、彼女は不意に足を止め、俺の袖をぎゅっと掴んだ。

「……合格よ、佐藤君。……父が貴方を認めたということは、貴方はもう、私の家族の一部になったようなものよ。……覚悟、しておきなさいね」


 夜風が、俺たちの間を優しく通り抜けていく。

 親に認められたという安堵感。そして、何よりも彼女の隣にいることの確かさ。

 俺たちの絆は、初秋の夜に溶け合うように、より深く、より確かな「家族」へと近づいていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。

二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。


もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、

下方の【評価(★★★★★)】や、ブックマーク等で応援いただけると、執筆の大きな励みになります。


何卒、よろしくお願いいたします!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ