第26話:九条家への『合理的』な挨拶
夏の終わりの湿り気が、秋の澄んだ空気に押し流されようとしていた、ある土曜日の朝。
穏やかな朝食の時間を破ったのは、怜奈さんのスマホに届いた一通の着信だった。画面に表示された「父」という二文字を見た瞬間、彼女の手からフォークが滑り落ち、カランと乾いた音を立てた。
「……何事かしら。非合理的なタイミングだわ」
通話を終えた怜奈さんの顔は、これまでに見たことがないほど強張っていた。
「佐藤君。……父が、貴方を連れて一度実家へ来なさいと言っているわ。どうやら、私が勝手に同居人を囲っているという事実が、向こうの耳に入ったようね」
かつて彼女が「私の両親にも、好感度が高そう」と小声で漏らしていた独白。それが、予想よりもずっと重い形で現実となった。俺は背筋を伸ばし、彼女の不安を打ち消すように深く頷いた。
「……承知いたしました。怜奈さんのご両親には、俺もしっかりとご挨拶したいと思っていました。逃げるような真似はしたくありませんから」
「……貴方は、本当に損な生き方をするわね。でも……ありがとう」
◇
訪れた九条の実家は、怜奈さんの性格を形作った源流を思わせる、静謐で厳格な日本家屋だった。庭の松の一枝に至るまで完璧に手入れがされており、塵一つ落ちていないその佇まいは、かつての彼女が追い求めた「完璧主義」の象徴のように見えた。
玄関先で、怜奈さんが俺の袖を僅かに引いた。
「……いい? 佐藤君。私の父、九条 厳三は、極めて封建的で合理主義な男よ。貴方の誠実さを『甘さ』や『無能』と切り捨てるかもしれない。けれど、貴方は貴方のままでいいから。……私が選んだのは、今の貴方なのだから」
彼女の不器用な、けれど必死な庇護の言葉。俺は「大丈夫ですよ、怜奈さん」と短く答え、彼女の後に続いて屋敷に足を踏み入れた。
通された座敷の奥。そこに、一糸乱れぬ着物姿で端座する老人がいた。
九条厳三。深く刻まれた眉間の皺と、すべてを見透かすような鋭い眼差しは、まさに「氷の部長」の父そのものだった。
「……座れ」
重厚な、地を這うような声。
俺と怜奈さんは、向き合うように畳に膝をついた。室内に流れる沈黙は、針が落ちる音すら響きそうなほどに張り詰めている。
「娘から聞いている。佐藤誠、と言ったか。……貴様、家事が得意だそうだな」
厳三は、値踏みするような視線を俺にぶつけてきた。
「だが、男の誠実さなどというものは、往々にして無能の言い訳に過ぎん。目に見える実績も持たぬ者が、娘の側にいて何ができる? 貴様は、私の娘に何を差し出せるというのだ」
その言葉は、かつて俺が元妻から投げつけられた「退屈」という言葉よりも、ずっと鋭く、重い。
横に座る怜奈さんが、何かを言い返そうと唇を震わせる。
だが、俺はそれを手で制し、真っ直ぐに厳三の瞳を見つめ返した。逃げも隠れもしない。十年間、泥臭く積み上げてきた俺の「誠実さ」という基盤が、今、この老いた虎を前に試されていた。
九条厳三の放つ、刃のような沈黙が座敷を支配していた。
「娘に何を差し出せる」という問い。それは、俺がかつて最も深く傷つき、そして今、最も自信を持って答えられる問いでもあった。俺は一呼吸置き、静かに口を開いた。
「……私は、彼女の『空白』を埋め、戦い続けるための基盤を死守しています」
「空白だと?」
「はい。怜奈さんは仕事という戦場で最大限のパフォーマンスを発揮するために、私生活のすべてを削ぎ落としてきました。それは彼女の強さであると同時に、あまりに危うい孤独でもありました」
俺は隣に座る怜奈さんの、僅かに震える指先を視界に入れながら言葉を継いだ。
「私が彼女の生活を整え、健康を管理し、安らげる場所を作る。これは単なる奉仕ではなく、彼女が九条怜奈という『氷の部長』であり続けるための、後方支援という名の投資です。この役割は、彼女の合理性を誰よりも理解し、誠実に向き合える私にしか務まりません」
厳三は、俺の言葉を一言も聞き漏らさぬよう目を細めていた。
やがて、彼は鼻で笑い、床の間に置かれた古い香炉を指差した。
「……面白いことを言う。では、貴様の言う『基盤の維持』とやらを見せてみろ。この香炉の煤が、いつまでも落ちぬ。合理的な手入れ法があるなら、言ってみるがいい」
俺は香炉を拝見し、その材質と時代を瞬時に見極めた。
「……これは青銅ですね。安易な研磨は風合いを損ないます。重曹を溶かしたぬるま湯を使い、柔らかい布で一定の方向に……」
俺が淀みなく、かつ誠実なこだわりを持って手入れの真髄を語り始めると、厳三の瞳に、初めて「知心」の光が宿った。
「……ほう。貴様、古い木材の乾拭きについてはどう考える」
「それは、脂分を奪いすぎないことが肝要です。特にこの屋敷のような立派な梁であれば……」
気づけば、張り詰めていた空気はどこかへ消えていた。
怜奈さんが口を挟む隙もないほど、俺と厳三は「家を整えることの合理性と美学」について熱く語り合っていた。怜奈さんは、あ然とした表情で俺たちの顔を交互に眺めている。
「……ふん。口だけではないようだな」
厳三が、奥の棚から古い徳利を取り出した。
「佐藤と言ったか。貴様のその、退屈なまでに真っ直ぐな誠実さ……嫌いではない。九条の家の酒を飲んでいけ」
◇
実家を後にしたのは、すっかり日が落ち、虫の音が涼やかに響く時間だった。
門を出て、駅へと続く坂道を下る。怜奈さんは隣で、まだ信じられないといった様子で頬を赤らめていた。
「……貴方は本当に、計算外だわ。あの偏屈な父を、あんなに早く手懐けるなんて。……家事の講釈で父と意気投合するなんて、私の想定したどのシミュレーションにもなかったことよ」
「……すみません、つい。でも、怜奈さんを育てたお父様ですから、きっと俺の誠実さも分かってくださると思っていました」
俺が微笑んで答えると、彼女は不意に足を止め、俺の袖をぎゅっと掴んだ。
「……合格よ、佐藤君。……父が貴方を認めたということは、貴方はもう、私の家族の一部になったようなものよ。……覚悟、しておきなさいね」
夜風が、俺たちの間を優しく通り抜けていく。
親に認められたという安堵感。そして、何よりも彼女の隣にいることの確かさ。
俺たちの絆は、初秋の夜に溶け合うように、より深く、より確かな「家族」へと近づいていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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