第21話:家政夫ではない朝
夏の朝の光が、昨日までとはどこか違った色合いでリビングを満たしていた。
俺はキッチンに立ち、いつも通り二人の朝食を用意していた。だが、背筋を通り抜ける緊張感は、かつての「家政夫」としてのそれとは明らかに異質なものだった。
これからは雇われの身ではない。生活費を折半し、対等にこの家を支える一人の同居人。
その肩書きの変化が、使い慣れたフライパンの重みさえも、少しだけ特別なものに変えていた。
「おはよう、佐藤君」
寝室から現れた怜奈さんは、寝癖をそのままに、ハーフアップにした髪を揺らして欠伸をしていた。いつも通りの、隙だらけのズボラな姿。
けれど、彼女が俺の正面に座る際、その視線が一瞬だけ泳ぎ、すぐに逸らされた。
「……おはようございます、怜奈さん」
「ええ。……なんだか、変な感じね。雇用主という盾を捨てた途端、このリビングの空気密度が上がったような気がするわ。非効率な緊張だわ」
「俺も、同じことを考えていました。……今朝のオムレツ、いつもより少し形が崩れてしまったかもしれません」
俺が苦笑いしながら皿を置くと、怜奈さんはじっとそれを見つめ、不意に立ち上がった。
「……佐藤君。今日からは対等なのだから、私も家事というリソースを分担すべきだわ」
「え……? 怜奈さんが、ですか?」
「当然よ。貴方にすべての負担を強いるのは、合理的なパートナーシップとは言えないわ。……サラダの盛り付けくらいなら、私にだってできるはずよ」
そう言って、彼女は俺の制止を待たずにキッチンへと踏み込んできた。
かつてのゴミ屋敷の主が、包丁やザルの並ぶ「聖域」に足を踏み入れる。その光景に、俺は言いようのない不安を覚えた。
「部長、あ、いえ、怜奈さん。包丁は危ないですから……」
「馬鹿にしないで。レタスを千切るくらい、猿でもできるわ」
彼女は意気揚々とボウルを手に取り、冷蔵庫から出したばかりのレタスに向き合った。
だが、その手つきは驚くほど危うかった。千切るというよりは、握り潰しているに近い。ドレッシングの計量に至っては、スプーンを持つ手が僅かに震え、「一ミリの誤差も許さない」と呟きながら、見当違いの分量を注ごうとしている。
「……怜奈さん。そこ、俺がやります」
「待ちなさい、私はまだ計算の途中……っ」
「レタスの盛り付けに微分積分は必要ありませんから。……ほら、代わってください」
俺が後ろから手を伸ばしてボウルを預かろうとした瞬間、彼女の背中がびくりと跳ねた。
狭いキッチン。触れ合いそうなほど近い距離。
雇用契約という事務的な壁が消えた空間で、二人の間に、これまではなかった「熱」が確かに混じり始めていた。
狭いキッチンで、俺の手が怜奈さんの指先に触れそうになった瞬間。
彼女は弾かれたようにボウルを離し、耳元まで朱に染めて数歩後退した。
「……っ、別に、貴方の邪魔をしたかったわけではないわ。効率的なリソースの分担を提案しただけよ。……残りは任せるわ」
彼女はそう言い捨ててリビングへ逃げ戻ったが、ソファに座る背中はどことなく落ち着かない様子だった。
俺は苦笑いしながら、彼女が不格好に握りつぶしてしまったレタスを丁寧に整え、オムレツの横に添えた。形は悪いが、彼女が「対等でありたい」と願って手を貸してくれた証だ。
出来上がった朝食をテーブルに並べると、怜奈さんは恐る恐る箸を手に取った。
「いただきます。……不思議ね。材料も、貴方の手順も昨日までと同じはずなのに、なんだか味が違う気がするわ。非合理的な感想だとは分かっているけれど」
「……俺も、同じことを感じています。誰かに雇われて作る食事ではなく、自分がいたいからここにいて、貴女のために作る食事。……それは、想像以上に心が満たされるものですね」
給料という対価が発生しない、最初の食事。
俺たちは、不格好なレタスのシャキシャキとした食感を楽しみながら、一人の人間として、これからの生活について語り合った。それは、かつての俺の家庭には存在しなかった、血の通った「対等な食卓」だった。
◇
出社後のオフィスは、いつも通りの緊張感に包まれていた。
九条部長は「氷の鉄仮面」として冷徹に采配を振り、俺は彼女の意図を汲む有能な係長として立ち回る。周囲の視線は俺たちを「最強のビジネスパートナー」として認めていた。
けれど、ふとした瞬間。
資料を渡す際、あるいはエレベーターで二人きりになった際。
今朝のキッチンの微かな熱を思い出したのか、怜奈さんは一瞬だけ視線を泳がせ、不自然なほど素早く前を向く。そんな彼女の姿に、俺は胸の奥が温かくなるのを禁じ得なかった。
◇
その日の夜。
掃除を終え、二人で静かにコーヒーを飲んでいた時、怜奈さんが不意にポツリと漏らした。
「……ぁ、……佐藤、……誠君。…………いつまでも苗字に君付けで呼ぶのも、今の対等な関係としては、少しばかり非効率な気がするのだけれど」
彼女はコーヒーカップを両手で包み込んだまま、視線を落としていた。
俺は、その言葉の重みに胸を突かれた。四十二歳の彼女にとって、そして三十五歳の俺にとって、呼び方を変えるということが、どれほど大きな「踏み込み」を意味するか。
「……俺も、そう思います。今はまだ、九条部長としての貴女への敬意が勝ってしまいますが。……いつか、貴女を『怜奈』と呼び捨てにできるくらい、貴女を支えられる男になりたい。……今は、そう願っています」
俺の誠実すぎる回答に、怜奈さんは顔を上げ、呆れたように、けれど慈しむような微笑みを浮かべた。
「……貴方は本当に、どこまでも手順を重んじる男ね。……いいわ。その日が来るのを、私の計算外の楽しみとして取っておくことにするわ」
結局、照れくささが勝ってしまい、呼び方は元のまま、その夜は更けていった。
一気には変われない、不器用な大人たちの日常。
けれど、俺たちの間にある契約の空白は、新しい名前の予感で、静かに埋まり始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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