第20話:新しい基盤、未完の契約
夏の強い日差しが、窓のブラインドの隙間から鋭い筋となってリビングに差し込んでいた。
俺はキッチンに立ち、怜奈さんのために、喉越しを重視した冷製スープと、軽く焼き上げたトーストを用意していた。冷房の効いた室内でも、外から漏れ聞こえる蝉の声が、季節がまた一つ進んだことを教えてくれる。
朝食のテーブルに並べられた郵便物の中に、一通の厚みのある封筒があった。
神崎法律事務所の刻印。それは、俺が十年間積み上げてきた過去――あのマンションの売却と、それに付随するすべての清算が完了したことを告げる最終報告書だった。
「ようやく、すべて片付いたわね」
寝室から出てきた怜奈さんが、トーストを手に取る前にその封筒へ視線を落とした。眼鏡の奥の瞳は、どこか遠い場所を見ているようにも、あるいは俺の表情を伺っているようにも見えた。
「はい。神崎さんには、後で改めてお礼を伝えておきます。……これで、書類上の俺の居場所は、どこにもなくなりました」
「何を言っているの。……貴方を縛っていた『過去』の重荷が消えただけよ。合理的に考えれば、これ以上に晴れやかなことはないわ」
彼女はそう言って、淡々と食事を始めた。
だが、俺の胸の中には、その「晴れやかさ」とは別の、静かな、けれど重い責任感が芽生え始めていた。
◇
オフィスでの空気は、驚くほど平穏だった。
先日の断罪を経て、俺への心ない噂は完全に霧散し、代わりに「九条部長が全幅の信頼を置く係長」という確固たる評価が定着していた。
俺が資料を届ければ、かつて陰口を叩いていた社員たちですら「ありがとうございます、佐藤さん」と、丁寧な敬意を払ってくる。
(……俺は、この場所にいていいんだ)
仕事での自立。そして、法的な過去の清算。
それは、あの日雨の中で怜奈さんに拾われた際の、「行く当てがないなら、私の家に来なさい」という言葉に含まれていた『一時的な保護』の期間が、終わりを迎えたことを意味していた。
定時後。フロアに人が少なくなった頃、怜奈さんが俺のデスクに近づいてきた。
「佐藤係長。……今月の、対価よ。確認しておきなさい」
彼女が差し出したのは、家政夫としての給料が記載された明細書だった。
これまで俺は、これを生活を立て直すための生命線として、また、彼女の家に居座るための「契約の証」として受け取ってきた。
けれど、今の俺は、これを素直にポケットに収めることができなかった。
「部長。今夜、少しだけお時間をいただけますか」
「……何かしら。業務外のこと?」
「はい。これからの、『契約』の内容についてお話ししたいことがあります」
俺の言葉に、怜奈さんの指先が、僅かに止まった。
彼女の瞳に、一瞬だけ鋭い焦燥が走り、すぐにそれを打ち消すような冷徹な光が上書きされる。
「……承知したわ。家で、じっくりと聞かせてもらうわよ」
◇
帰宅後のリビング。
夕食を終え、俺は意を決して、先ほどの明細書をテーブルの上に静かに置いた。
怜奈さんはソファでワイングラスを揺らしながら、俺の出方を窺うように沈黙を保っている。
「怜奈さん。マンションの売却も終わり、俺の身辺整理はすべて完了しました。……『家が見つかるまでの仮住まい』という当初の契約理由は、今日、完全に消滅したことになります」
俺の誠実さが、俺自身に最も残酷な問いを突きつける。
「何が言いたいの、佐藤君」
彼女の声は低く、そしてどこか強張っていた。
「契約終了の提案かしら? 自由になった貴方が、私のリソース管理から解き放たれて、新しい拠点を探すという……合理的な結論を出すつもり?」
彼女の指が、グラスの脚を白くなるほど強く握りしめている。
その不器用な震えを視界に入れながら、俺は次の言葉を選び取った。
怜奈さんは、グラスを握る指先が白くなるほど力を込め、俺の次の言葉を拒絶するように唇を噛んでいた。彼女にとって、俺を「雇い人」という管理下に置くことは、自分の平穏を守るための最後の防壁だったのかもしれない。
「怜奈さん。そうではありません」
俺は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、一歩も引かずに言葉を継いだ。
「俺は、ここを出ていくつもりはありません。……ただ、これからは、その給料を受け取ることはできません。『家政夫』としての契約は、今日で終わりにしたいんです」
怜奈さんは目を見開き、戸惑ったように瞬きを繰り返した。
「給料を受け取らない? 契約を終わらせる? それは、一体どういう……」
「俺は、貴女に雇われ、対価を貰うことでこの家に居場所を作ってもらっていました。けれど、過去の整理がすべて終わった今、俺は自分の意志でここにいたい。……誰かに強制されるのでも、恩義を返すためでもなく、一人の男として、この場所を貴女と共に守りたいんです」
俺はテーブルの上の明細書を横に退け、代わりに一枚のメモを置いた。そこには、この家の家賃の半分、そして光熱費や食費の概算が記されていた。
「これからは、生活費を折半させてください。俺はもう、貴女に守られるだけの存在ではなく、貴女と対等にこの家を支える『同居人』になりたい。……それが、俺の誠実さの示し方です」
リビングに、静寂が降りた。
怜奈さんは、俺が提示した数字をじっと見つめていたが、やがてワイングラスをテーブルに置き、深くソファに背を預けた。彼女の頬には、先ほどまでの蒼白さはなく、微かな熱が宿り始めていた。
「……貴方は、本当に非効率な男ね。……雇用主という私の優位性を奪い、対等な立場を要求するなんて。そんなことをすれば、もう私は貴方を『命令』で縛ることはできないわ」
「はい。その代わり、俺は貴女の隣に、自分の意志で居続けます」
怜奈さんは眼鏡を外し、少しだけ潤んだ瞳を指先で拭った。そして、彼女らしい不器用な、けれど確かな信頼を込めた微笑みを浮かべた。
「……合理的ではないわ。……でも、貴方のその、救いようのないほど真っ直ぐな誠実さに、私も乗ってあげるわ。……契約書のない、未完の共同生活。……悪くないわね」
彼女は俺の手からエプロンを奪い取るような仕草を見せ、けれどすぐにそれを俺の手に戻した。
「 ただし! 私の胃袋の管理は、引き続き貴方の責任よ。そこだけは、対等なんて認めないわ」
「……ええ。喜んで、怜奈さん」
翌朝。
窓から差し込む夏の光は、昨日までと同じはずなのに、どこか新しく感じられた。
俺が朝食を用意し、彼女が眠たげな目を擦りながらリビングに現れる。
「おはよう、佐藤君」
「おはようございます、怜奈さん」
給料という対価のない、初めての「おはよう」。
誠実すぎて全てを失った男と、孤独を合理性で隠していた女上司。
二人の「再生」の物語は、ここから本当の意味での、新しい基盤を築き始めていく。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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