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誠実だけが取り柄の僕が、不倫した妻に家を追い出された夜。会社一冷徹な42歳の女上司に拾われたら、彼女の私生活はボロボロだった  作者: 寝不足魔王


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第19話:職場の視線と、覚悟

 梅雨が明け、本格的な夏の陽光がビルの窓ガラスを白く焼き始めていた。

 オフィスの冷房は常に一定の温度を保っているはずなのに、今日のフロアには、どこか肌にまとわりつくような不快な熱がよどんでいた。


 俺が共有スペースの複合機で資料を束ねていると、パーテーションの向こうから、潜めた、けれど妙に通りが良い声が聞こえてきた。

「結局、実力じゃないってことでしょ。間宮さんがいた頃はパッとしなかったのに、急に部長のお気に入りになって。昇進の噂まであるなんて、出来すぎてるわよね」

「佐藤係長、部長と同じシトラスの香りがするって話、マジなのかな。……もし本当なら、社内の風紀的にどうなのって話だよね」


 手に持った資料が、指先の微かな震えでカサリと音を立てた。

 以前、加藤たちに冗談交じりに追求された時とは、明らかに性質の違う悪意。

 俺が積み上げてきた地道な残務整理も、取引先との信頼回復も、彼らの目には「部長へのおもねり」の結果として映っている。何より耐えがたかったのは、俺の存在が原因で、非の打ち所のない怜奈さんのキャリアにまで、根も葉もない泥が塗られようとしていることだった。


(……俺が、彼女の足を引っ張っているのか)


 俺の誠実さが、彼女をおとしめる材料にされている。

 そう思うと、胃の奥が焼けるように熱くなった。


 複合機を離れ、自分のデスクに戻る際、前方から九条部長が歩いてくるのが見えた。

 いつものように、一糸乱れぬスーツ姿で、周囲を威圧するような凛とした美しさ。

 彼女が俺の前で足を止めようとした瞬間、俺は反射的に視線を落とし、深々と頭を下げた。


「九条部長。本日の定例会議の資料、修正が完了しました。デスクに置いておきますので、後ほどご確認をお願いします」

「……佐藤係長? 修正箇所について、口頭での補足があるはずだけど」


 怜奈さんの声には、僅かな戸惑いが混じっていた。

 いつもなら、俺たちは数分間の短いやり取りの中で、言葉にせずとも互いの意図を汲み取る。けれど、今の俺にはそれができなかった。周囲から注がれる好奇と蔑みの視線が、針のように背中に突き刺さっている。


「申し訳ありません。別の急ぎの案件が入りましたので。失礼します」


 俺は彼女の瞳を見ることもなく、逃げるようにその場を去った。

 家では「怜奈さん」と呼び、彼女の不器用な隙を愛おしく感じている。けれどここでは、俺たちは部長と係長でなければならない。

 俺が彼女を守るためにできる唯一のことは、自分たちの間に、誰もが納得するほどの巨大で無機質な壁を築くことだ。


 しかし、俺が距離を置こうとすればするほど、彼女の表情は氷のように冷え切っていく。

 俺の作った不自然な壁が、かえって職場に漂う澱んだ噂を、より残酷な形へと加速させていること。その時の俺は、焦燥のあまり気づくことができなかった。


 逃げるようにその場を立ち去ろうとした俺の背中に、氷の柱が突き刺さるような鋭い声が飛んだ。


「立ち止まりなさい、佐藤係長」


 フロア中の視線が一点に集まる。タイピングの音も、電話の話し声も、潮が引くように消えていった。

 振り返ると、九条部長は腕を組み、微動だにせず俺を射抜いていた。その瞳には、今まで一度も見せたことのないような、深い静かな怒りが湛えられている。


「逃げるような歩き方は、私の部下として相応しくないわ。何か後ろめたいことでもあるのかしら?」

「……いえ、そのようなことは」

「なら、顔を上げなさい。……それから、周囲の皆も聞きなさい」


 怜奈さんは一歩、フロアの中央へと踏み出した。

 彼女は俺を指し示すのではなく、ただ事務的なトーンで、けれど驚くほど詳細な「事実」を読み上げ始めた。


「佐藤係長がこの数週間で処理した間宮君の放置案件は、計二十四件。そのすべてにおいて、先方からの満足度は以前を上回っているわ。さらに、彼が提案した物流コストの再計算によって、今期の経費は三パーセントの削減が見込まれている。……これらはすべて、客観的な数値に基づいた彼の『実力』よ」


 ざわついていたフロアが、今度こそ完全に静まり返った。

 噂を流していた者たちが、気まずそうに目を逸らす。



「私の評価が私情に見えるのなら、それは貴方たちが、彼の出した数字すら理解できないほど無能だということよ。……不満があるなら、明日までに彼以上の成果を私のデスクに持ってきなさい。それができないのなら、二度と私の部下を不当な言葉で侮辱しないで。……私に、その責任を問う力がないと思わないことね」



 圧倒的な正論。そして、上司としての絶対的な威厳。

 彼女は俺の「誠実な努力」を、汚らしい憶測から、力ずくで救い上げてくれたのだ。俺の目頭が、不意に熱くなる。


「……行きましょう、佐藤君。会議の補足は、私の部屋で聞くわ」


 ◇


 夜。九条部長のマンションのリビングは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 俺はキッチンで冷たい麦茶を用意し、ソファでワインを口にする怜奈さんの前に置いた。


「……ありがとうございました。部長。あそこまで言ってくださるなんて」

「勘違いしないで。……貴方の価値が不当に貶められることは、私の管理能力への侮辱だと言っただけよ」


 彼女はそう言って、窓の外の夜景に目を向けた。眼鏡を外し、少しだけ疲れたように目元を揉む。その姿は、先ほどフロアで全員を黙らせた「鉄の女」とは別人のように不器用で、脆い。


「それでも、嬉しかったです。俺は、貴女のキャリアに泥を塗るのが怖くて、あんな情けない態度を」

「……馬鹿ね」

 彼女は小さく呟き、ワイングラスをテーブルに置いた。

「外がどう言おうと、私の生活に必要なのは貴方だけよ。……佐藤君。貴方を失うことが、今の私にとって最大の損失なの。それを守るのは、私にとって最も合理的な選択だわ」


 彼女の不器用な、けれど退路を断った「覚悟」の言葉。

 俺は、彼女に相応しい男になりたいと、心の底から誓った。守られてばかりの家政夫ではなく、彼女という一人の女性の人生を、誠実に支え抜くパートナーに。


「……はい。俺も、もう逃げません、怜奈さん」


 外では夏の虫の声が聞こえ始めていた。

 職場の視線という嵐を越えて、俺たちの絆は、また一つ、揺るぎない基盤を固めていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。

二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。


もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、

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何卒、よろしくお願いいたします!


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