第18話:失われた食卓の記憶
週明けの月曜日。オフィスのフロアには、滞りのない業務の音が心地よく響いていた。
間宮が去り、俺が地道に整えてきた仕事の基盤は、今や営業二課の新しい日常として定着している。周囲の社員たちの顔からも、かつての殺伐とした疲弊の色は消え、穏やかな活気が戻りつつあった。
そんな中、九条部長――怜奈さんは、相変わらず「氷の部長」としての仮面を微塵も崩さずにいた。
次々に持ち込まれる決裁書類を、彼女は一分の隙もない速度で処理していく。けれど、ふとした合間。彼女が窓の外、まだ高い位置にある太陽を眺めて、何かを追想するように目を細める瞬間を、俺は見逃さなかった。
その日の定時。
デスクを片付け、帰宅の準備をしていた俺の背後で、凛とした声が響いた。
「……佐藤係長。今日は少し付き合いなさい」
振り返ると、鞄を手にした怜奈さんが立っていた。周囲の社員たちに聞こえる、いつもの事務的なトーンだ。
「夕食の買い出しですか? 確か、昨日買い込んだ分で献立は決まっていましたが」
「いいえ。今日は料理の必要はないわ。……私の『かつての日常』に、少しだけ付き合ってもらいたいの」
俺が困惑する間も無く、彼女はそのまま背中を向けて歩き出した。
俺は慌てて彼女の後に続いた。向かった先は、駅前にある、眩しすぎるほどの白い光を放つコンビニエンスストアだった。
自動ドアが開き、聞き慣れた入店音が鳴る。
怜奈さんは迷いのない手つきで買い物カゴを手に取ると、総菜コーナーへと一直線に向かった。
「部長、一体何を……」
「黙って見ていなさい。これも一種の、フィールドワークのようなものよ」
彼女は、茶色い揚げ物の詰め合わせ、底が深いコンビニ弁当、そしてカップ麺。さらに、スナック菓子や、少し度数の高い缶のアルコールを、次々とカゴに放り込んでいく。
それは、俺が整えてきた「健康的で彩りのある食卓」とは、あまりにもかけ離れた、無機質なラインナップだった。
「……部長。体に障りますよ。こんなものを夜遅くに……」
「たまには身体に悪いものを摂取するのも、合理的なリフレッシュよ。……それにね、佐藤君。これは、貴方がこの家に来るまでの私の、本当の姿だったのよ」
レジで会計を済ませる彼女の横顔には、自嘲のような、どこか懐かしむような色が浮かんでいた。
ビニール袋が擦れるカサカサという乾いた音が、やけに大きく響く。
俺の手にある袋の重みは、彼女が一人で戦い、一人で耐えてきた、十年以上の「孤独な空白」の重みそのもののように感じられた。
「さあ、帰りましょう。……今日は、私の『かつての食卓』を共有してもらうわよ」
帰宅したマンションのリビングは、いつも通り清潔に整えられていた。
けれど、今夜のキッチンには包丁がまな板を叩く小気味よい音も、立ち上る出汁の香りもない。代わりに響いたのは、プラスチックのフィルムを剥がす乾いた音と、電子レンジの無機質な駆動音だけだった。
怜奈さんは、加熱が終わったことを告げる機械的な通知音と共に、湯気の上がる弁当容器をテーブルに並べた。
「……さあ、できたわ。今日のディナーよ」
彼女はどこか照れくさそうに、けれど自嘲的な笑みを浮かべて、缶ビールのプルトップを引き抜いた。
「……部長。本当に、今日はこれでよろしいんですか?」
俺が戸惑いながら椅子に座ると、彼女は自分の分のパックに割り箸を突き立て、静かに頷いた。
「ええ。貴方が来る前はね、これが私の『普通』だったのよ。仕事でリソースを使い果たして、思考停止状態でコンビニに寄り、温めるだけで食べられるものを口に放り込む。……そこに、味や季節感なんて入り込む余地はなかったわ」
俺たちは、プラスチックの容器に入った味の濃い総菜を、二人でつつきながら乾杯した。
便利で、効率的で、けれど酷く味気ない。
怜奈さんは一口揚げ物を口に運ぶと、「ふふっ」と小さく声を漏らした。
「……おいしいわ。おいしいけれど……やっぱり、いつもの貴方の料理の方が、ずっと美味しいわね」
「……当たり前ですよ。これは保存を前提に作られたものですから。……たとえば、その餃子も、少しフライパンで焼き直すだけで、ずっと美味しくなりますよ。皮の食感も戻りますし」
俺が思わず誠実な助言を口にすると、彼女は箸を止め、少しだけ遠くを見るような目をした。
「……そう。フライパンで焼く、なんていう一手間すら……私は、そんなこともしないで、ずっと一人でこれを食べていたのね。……ただ胃の中に流し込むだけの、色のない食事を」
彼女の言葉に、胸の奥がチリりと痛んだ。
怜奈さんにとっての「かつての日常」は、誰にも邪魔されない自由であると同時に、自分のための時間を一分一秒すら割けないほどに、孤独で、削り取られたものだったのだ。
「……佐藤君。貴方は、私が捨てていたものを全部拾い上げてくれたのね。……自分でも忘れていたような、小さな楽しみまで」
「……俺は、ただ自分がやりたいことをしているだけですよ。怜奈さんの生活を整えることが、今の俺の生き甲斐ですから」
彼女は、少しだけ顔を赤くして視線をそらした。
「……非効率な生き甲斐ね。でも、困ったわ。一度この味気なさを共有してしまったら、もう一人でコンビニに寄る気すら起きなくなりそうだわ」
「それでいいんです。……もう、一人でこれを食べる日は来ませんよ。俺がここにいる限り、電子レンジの音だけで夕食が終わるなんてことはさせませんから」
俺の言葉に、怜奈さんは「……そう。なら、覚悟しておくわ」と、今度は自嘲ではなく、確かな幸福を含んだ微笑みを見せた。
プラスチックの容器が並ぶ食卓。
それは、過去の孤独を確認するための儀式であり、同時に、これからの二人の生活がどれほど温かいものになるかを、改めて確信する夜になった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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