第22話:職場の公認と、静かな波紋
夏の強い陽射しがアスファルトを白く焼き、オフィスビルの窓ガラスは反射した光で眩しく輝いていた。冷房の効いたフロアでは、俺と九条部長の連携によるプロジェクトが、かつてないほどの順調な滑り出しを見せていた。
「……以上が修正案よ。佐藤係長、このまま進めてちょうだい」
「承知いたしました、部長」
一糸乱れぬやり取り。俺たちの間には、言葉を重ねずとも共有される「誠実な合理性」が流れている。周囲の社員たちも、今や俺たちを社内最強のビジネスパートナーとして認め、羨望の眼差しを送るようになっていた。
だが、その平穏を破ったのは、同僚の加藤だった。
彼は書類を片手に俺のデスクに近づくと、ニヤニヤとした笑みを浮かべ、部長席に座る怜奈さんにも聞こえるような声で話し始めた。
「いやあ、佐藤さん。最近、他部署の女子たちの間で佐藤さんの噂、凄いことになってますよ。『誠実で仕事ができて、その上家事も完璧な超優良物件がいる』って。結婚したい男ナンバーワン候補らしいっすよ」
「よせよ、加藤さん。大袈裟だ」
「大袈裟じゃないですよ。今日も『佐藤さんを紹介してほしい』って、隣の課の若手から頼まれちゃいまして。……独占は禁止っすよ、部長」
加藤が、茶目っ気たっぷりに怜奈さんの方を振り向く。
「そろそろ、佐藤さんを若手女子たちに開放してあげてくださいよ。あんなに素敵なリソースを自分たちだけで独占するなんて、非効率じゃないですか?w」
冗談めかした、加藤なりの「ボケ」。
だがその瞬間、怜奈さんが資料を捲る指先が、ぴたりと止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、眼鏡の奥の鋭い瞳を加藤に向けた。顔には完璧な「鉄仮面」が張り付いていたが、俺には分かった。彼女が手に持っていた万年筆を、指が白くなるほど強く握りしめていることに。
「……リリース? 貴方の言うことは、いつも非論理的ね、加藤君」
体温を一切感じさせない、氷のような声。
「彼は私の部下よ。そのリソース配分を決定するのは私であり、外野が口を出すことではないわ。……今の言葉が冗談だと言うのなら、その無駄な言葉を費やす時間で、明日の会議資料を完璧に仕上げてきなさい」
「ひっ、はい! 申し訳ありません!」
加藤は、冗談が通じないほどの「本気」の気迫に押され、慌てて自分の席へと逃げ戻った。
周囲の社員たちが「やっぱり部長は厳しいな」と苦笑いしている中、怜奈さんは再び手元の資料に目を落とした。
だが、その瞳は一行も文字を追っていないようだった。
俺が視線を送ると、彼女は一瞬だけ俺を見上げ、すぐに視線を逸らした。その横顔は、夏の光に照らされているというのに、どこか寒々とした、けれど烈しい独占欲に燃えているように見えた。
俺たちの「対等な共同生活」という秘密。
それが、職場の何気ない冷やかしによって、彼女の中にある「部長」という仮面を、内側から激しく揺さぶり始めていた。
◇
夕食を終えた後のリビングは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
怜奈さんはソファに深く背を預け、手元のワイングラスを小さく揺らしている。いつもなら、テレビの経済ニュースを眺めながら何かしらの合理的な批評を口にする彼女が、今日は一度も口を開かない。
ただ、その横顔には、消しきれない不機嫌な色が影を落としていた。
俺はキッチンから冷たい水を用意し、テーブルを挟んで対面に座った。
「……怜奈さん。加藤さんの冗談、まだ気にされていますか?」
俺が不器用に問いかけると、怜奈さんはピクリと眉を動かし、顔を背けたままグラスを煽った。
「気にしているわけではないわ。ただ、他人の人生を『リリース』だなんて言葉で勝手に配分しようとする、あの非論理的な態度が不愉快だっただけよ」
「それだけ……ですか?」
重苦しい沈黙が、二人の間に流れる。
彼女は何度か唇を動かし、迷うように視線を泳がせた。やがて、絞り出すような声が、夜の空気に溶け出した。
「……貴方の誠実さが、他の誰かに向かうのが不快なだけよ。……合理的な理由なんてないわ。私でも、制御できないの」
眼鏡の奥の瞳が、僅かに潤んでいるように見えた。
四十二歳のキャリアウーマンが、かつて孤独を守るために捨てたはずの「感情」という不確かなものに、今、激しく翻弄されている。その不器用な独占欲が、俺の胸を締め付けた。
俺は静かに椅子から立ち上がった。
対面に座っているだけでは届かない。言葉だけでは、彼女の不安という空白を埋めることはできない。
俺はテーブルを回り込み、怜奈さんが座るソファの、すぐ隣に腰を下ろした。
クッションが沈み込み、彼女の肩と俺の腕が、薄い衣類を隔てて微かに触れ合う。
「……佐藤君?」
驚いて顔を上げた彼女の肩に、俺はそっと自分の肩を寄せた。
「加藤さんには言えませんでしたが……俺の誠実さは、もうここにしかありません。……あの雨の夜に拾ってもらってから、俺の居場所は、貴女の隣だけだと決めているんです。誰かに渡したり、渡されたりするようなものではありません」
至近距離で交わされる視線。
彼女の纏う、いつものシトラスの香りが、いつもより濃く熱を持って伝わってくる。
怜奈さんは一瞬、息を呑んだように硬直したが、やがて憑き物が落ちたようにふっと力を抜き、俺の肩に、自らの頭をそっと預けてきた。
「……貴方は、本当にずるい男ね」
赤面を隠すように、俺の腕のあたりに顔を埋める彼女。
「私の計算を狂わせておいて、そんな真っ直ぐな言葉を投げてくるなんて。……責任、取ってもらうわよ」
「……ええ。喜んで、怜奈さん」
対等な同居人になってから、初めて縮まった物理的な距離。
職場の視線という嵐の後に訪れたのは、これまでのどんな契約よりも強固で、そして温かな、二人だけの静謐な時間だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
誠実すぎて全てを失った佐藤と、孤独を合理性で隠していた怜奈。
二人の再生の物語を、これからも見守っていただければ幸いです。
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