第三百九話:二つの世界の選択
ゴゴゴゴゴ……!
家全体が、まるで巨大な獣の呻き声のように、不気味な振動を続けている。壁にかかった時計の針は狂ったように回り、窓の外の景色は陽炎のように歪み、現実と悪夢の境界線が曖昧になっていく。父も母も、何が起きているのか理解できず、ただ不安げに私の顔を見つめていた。
「莉奈さん…!」
マヤが、私の服の裾を強く掴む。彼女の神の舌は、空間そのものが悲鳴を上げている「味」を感じ取っているのだろう。ケイレブ様は、無意識のうちに私と両親の前に立ち、存在しないはずの剣の柄を探るように、腰に手を当てていた。
その時、私の手の中にある通信石が、最後の力を振り絞るかのように、再びかすかな光を灯した。ノイズ混じりの、しかし必死な魁人の声が響く。
『…リナ殿…!聞こえるか…!?扉の暴走が…加速している…!』
「魁人さん!どうすればいいの!?」
『…方法は…一つしかない…!扉を、破壊する…!だが、干渉はこの世界(日本)からでは不可能だ…!暴走のエネルギーが強すぎる…!破壊は…内側、我々の世界からしか…!』
魁人の言葉は、あまりにも残酷な宣告だった。
世界の融合を止め、二つの世界を救う唯一の方法。それは、私が今すぐ異世界へ戻り、あの物置の扉を、内側から完全に破壊すること。
それは、私がこの故郷へ還る道を、自らの手で永遠に断ち切ることを意味していた。
通信石の光が、ふっと消える。後に残されたのは、重く、そして絶望的な沈黙だけだった。
「……莉奈」父が、震える声で私の名を呼んだ。「…今のは、一体……お前、また、どこかへ行ってしまうのか…?」
母もまた、私の腕を掴み、涙ながらに首を横に振った。「嫌よ…!やっと、やっと会えたのに…!もうどこにも行かないで…!」
両親の、あまりにも当然な、そして心からの懇願。その言葉が、私の心を締め付ける。
目の前にある、失われたはずの温かい日常。父の不器用な優しさ。母の温もり。私が、この十数年間、ずっと夢に見続けてきた光景。
それを、自らの手で、再び手放さなければならないというのか。今度は、もう二度と戻れないと知りながら。
「……リナ殿」
ケイレブ様の、静かな声がした。彼は、私の肩に、そっと手を置いた。その手は、氷壁の騎士らしく冷たいはずなのに、不思議と温かかった。
「決断の時は、常に過酷です。ですが、あなたは一人ではない。我々が、います」
彼の言葉は、私を責めるものでも、急かすものでもなかった。ただ、どんな選択をしようとも、傍にいるという、揺るぎない忠誠心だけが、そこにあった。
私は、両親の顔を見た。涙で濡れた、私を愛おしむ顔。
そして、マヤとケイレブ様の顔を見た。私を信じ、私の帰りを待つ、もう一つの家族の顔。
二つの故郷。二つの家族。
どちらか一つを選ぶなど、できるはずがない。
だが、選ばなければ、両方の世界が、終わってしまう。
私は、ゆっくりと立ち上がった。そして、父と母の前に、深く、深く頭を下げた。
「お父さん、お母さん。……ごめんなさい」
涙が、再び溢れ出した。だが、今度は嗚咽ではなかった。
「私、行かなきゃならない。あっちの世界にも、私を待ってくれている人たちがいるから。私の、もう一つの家族が」
「莉奈……!」
「でも、約束する」私は、顔を上げた。涙で濡れた顔のまま、最高の笑顔を作ってみせた。「必ず、両方の世界を守ってみせる。だから……だから、これは『さよなら』じゃない」
それは、あまりにも気丈で、そしてあまりにも哀しい決意表明だった。
父は、何も言わずに、ただ黙って、私の頭をもう一度、強く撫でた。
母は、嗚咽を漏らしながらも、私の背中を、そっと押してくれた。
「……いってらっしゃい、莉奈。……いつでも、あなたの帰りを、待っているから」
その言葉を胸に、私は、二人に背を向けた。
ケイレブ様とマヤと共に、揺らぐ空間の中を、あの路地裏へと、最後の帰還のために、駆け出した。
私の、二つの世界を巡る物語は、今、最も過酷な選択と共に、新しい章の扉を、叩こうとしていた。




