第三百八話:扉の異常
「……莉奈、無理はするんじゃないぞ」
父の、ぶっきらぼうだが、心配の色が隠せない声。
「いつでも、帰ってきていいのよ。ここが、あなたの家なんだから」
母の、涙で濡れた、温かい笑顔。
十数年ぶりの再会。異世界での過酷な日々を語り終えた私を、両親はただ黙って、深く、そして温かく受け入れてくれた。失われた時間はあまりにも長く、語り尽くせぬ想いは山ほどあったが、それでも、このリビングには、私が心の奥底で焦がれ続けていた、かけがえのない「家族」の空気が満ちていた。マヤもケイレブ様も、その温かい光景を、少し離れた場所から、静かに見守ってくれている。このまま、時間が止まってしまえばいいのに。そんな、叶わぬ願いが胸をよぎった、まさにその瞬間だった。
私のポケットの中で、異世界と繋がるための小さな通信石が、これまでとは比較にならないほどの、激しい熱を発したのだ。それは、もはや警告の光ではない。断末魔の悲鳴のような、絶望的な明滅だった。
「!」
石の異常な熱さに、私は思わず声を上げ、ポケットから取り出す。石は、まるで心臓のように激しく脈打ち、その表面には蜘蛛の巣のような亀裂が走り始めていた。
「莉奈さん!?」
「リナ殿!?」
異変に気づいたマヤとケイレブ様が駆け寄ってくる。
石からは、ノイズ混じりの、しかし、かつてないほど切迫した魁人の声が、途切れ途切れに響き渡っていた。
『―――リナ殿!まずい…!扉が…!日本の…干渉…!』
その声は、まるで嵐の中の叫びのようだった。
『…維持していた力が…暴走を…!次元の…壁が…!』
ジジジッ、と激しいノイズと共に、通信石の光が明滅する。
『…融合が…始まる…!このままでは…二つの世界の…物理法則が…崩壊…!世界が…終わる…!』
その、あまりにも衝撃的な言葉。リビングの温かい空気は、一瞬にして凍り付いた。父も母も、何が起きているのか理解できず、ただ呆然と、激しく明滅する石と、血の気の引いた私の顔を見つめている。
「魁人さん!?どういうこと!?」
私が石に向かって叫ぶが、返ってくるのはノイズだけ。通信は、完全に途絶えてしまったようだった。
だが、魁人の最後の言葉は、あまりにも明確な絶望を私たちに突きつけていた。
二つの世界の、融合。法則の、崩壊。
ジロが懸念していた最悪の事態。日本の当局が、あの扉に物理的な干渉――破壊か、あるいは解析のための強制的なエネルギー注入か――を試みた結果、扉を不可思議なバランスで維持していた未知の力が暴走を開始したのだ。
それは、もはや二つの世界を繋ぐ奇跡の扉ではない。世界の境界線を破壊し、異なる物理法則を無理やり混ぜ合わせ、全てを混沌へと還す、パンドラの箱。
ゴゴゴゴゴ……。
家の外から、地鳴りのような、低い振動が伝わってきた。それは、地震とは明らかに質の違う、空間そのものが軋むような、不気味な音だった。壁にかかった時計の針が、狂ったように高速で回転し始める。窓の外の景色が、陽炎のように揺らめき、隣の家の屋根が、一瞬だけ、粘土のように歪んで見えた。
「な、なんだ…!?」
父が、窓の外の異変に気づき、声を上げる。
「まさか……もう、始まっているというのか…!」
ケイレブ様が、腰にあるはずのない剣の柄を探るように、腰に手を当てた。彼の騎士としての本能が、世界の終わりを告げる、静かなる崩壊の始まりを、確かに感じ取っていた。
私は、窓の外を見つめた。路地裏の、あの場所。物置の扉があったはずの空間が、紫色と黄金色の、不安定な光の渦となって、激しく明滅しているのが見えた。
あの扉は、もはや、温かい故郷への道ではない。
二つの世界を飲み込み、破壊する、災厄の口そのものへと、変貌してしまっていたのだ。
私は、父と母の、不安そうな顔を見た。そして、私の帰りを待つ、異世界の仲間たちの顔を思い浮かべた。
感動の再会は、あまりにも短く。そして、私に突きつけられた選択は、あまりにも、残酷だった。




