第三百七話:涙の「ただいま」
「……あの子が、昔よく台所で、見よう見まねで作ろうとして、いつも失敗していた、あの優しいスープの味がするわ……。でも、もっとずっと、力強くて……あなたが、向こうの世界で、たくさん頑張って、強くなった味がする……!」
母の、震える声。その言葉は、私がこの十数年間、心の最も深い場所に押し込めてきた、全ての感情の堰を、一瞬にして決壊させた。
「お母さん……っ!」
私は、椅子から転げ落ちるように母の足元に駆け寄り、そのエプロンにしがみついて、子供のように声を上げて泣いた。涙が、止まらなかった。帰りたかった。ずっと、ずっと、この温もりに帰りたかった。寂しかったこと、辛かったこと、それでも必死で前を向いてきたこと。言葉にならない想いが、嗚咽となって溢れ出す。
母は、そんな私を、ただ黙って、優しく抱きしめてくれた。その背中を撫でる手の、変わらない温かさ。父もまた、無言で私の隣に座り、その無骨な手で、私の頭を何度も、何度も撫でてくれた。壁にかかった古時計の音だけが、時が止まったかのようなリビングに響いていた。
その光景を、部屋の入り口で、マヤとケイレブ様は静かに見守っていた。マヤの大きな瞳からは、私と同じように涙がこぼれ落ちている。ケイレブ様は、その氷の仮面のような表情をわずかに和らげ、この異世界の、あまりにも普遍的な親子の再会に、静かな敬意を払っているかのようだった。
どれくらいの時間が経っただろうか。ようやく嗚咽がおさまった私に、父が、照れくさそうに、しかし心配そうな目で尋ねた。
「……莉奈。お前、今まで、どこで、何をしていたんだ。事故の後、どこを探しても見つからなくて……俺たちは、もう……」
その言葉に、私は顔を上げた。そして、涙で濡れた顔のまま、覚悟を決めて語り始めた。
自分が、事故の後、全く別の世界――魔法やモンスターが存在する異世界に転生していたこと。
そこで、前世の記憶を頼りにラーメンを作り、それが「奇跡」と呼ばれ、「聖女」と勘違いされてしまったこと。
たくさんの仲間たち――ゴークやミーシャ、ケイレブ様たち――と出会い、彼らと共に街を守り、戦ってきたこと。
そして、今も、その世界には私の帰りを待つ、大切な家族がいること。
あまりにも荒唐無稽な物語。父も母も、最初はただ呆然と、私の言葉を聞いていた。だが、彼らは、私の瞳の奥にある真実の色と、私の隣で静かに佇むマヤとケイレブ様の、この世の者とは思えぬ異質な、しかし確かな存在感を見て、否定することができなかった。
「……そうか」
やがて、父が深く、深く息をついた。「……大変、だったんだな」
彼は、それ以上何も聞かなかった。ただ、娘が生きていた。そして、自分の知らない世界で、たくさんの仲間たちに支えられ、懸命に生きてきた。その事実だけで、彼にとっては十分だったのかもしれない。
母は、再び私の手を握りしめ、涙ぐみながらも、優しく微笑んだ。
「……危ないことばかりしているのね、あなたは昔から。でも、いい仲間ができたのね。良かった……本当に、良かった……」
彼らは、娘の数奇な運命を、驚きと共に、しかし、深い愛情をもって受け入れてくれた。失われた娘が帰ってきた。その喜びの前では、世界の壁など、些細なことに過ぎなかったのかもしれない。
温かい、涙の再会。だが、その感動の余韻は、窓の外から差し込み始めた朝の光と、私のポケットの中で再び熱を帯び始めた通信石の不吉な光によって、無情にも断ち切られようとしていた。
扉を維持する謎の力は不安定になりつつあり、日本の当局も動き出している。
私が、二つの世界の狭間で下さなければならない、あまりにも残酷な選択の時が、刻一刻と迫っていた。




