第三百十話:涙の「いってきます」
「お父さん、お母さん。……ごめんなさい」
リビングに響いた私の声は、決意とは裏腹に、震えていた。両親の悲痛な表情が、私の心を容赦なく締め付ける。だが、もう迷っている時間はなかった。家の外から聞こえる空間の軋む音は、世界の崩壊が刻一刻と近づいていることを告げていた。
「私、行かなきゃならない。あっちの世界にも、私を待ってくれている人たちがいるから。私の、もう一つの家族が」
「莉奈……!そんな、危険すぎるわ!」母が、私の腕にすがりつく。「ここにいればいいのよ!お母さんが、お父さんが、あなたを守ってあげるから!」
「……母さん」私は、母の手を優しく握りしめた。その手の温かさが、あまりにも愛おしい。「ありがとう。でもね、私はもう、守られるだけの子供じゃないの。私には、守りたいものができた。あっちの世界で出会った、大切な人たち。そして、彼らが生きる、あの温かい食卓を」
私は立ち上がり、父に向き直った。父は、ただ黙って、その無骨な顔に深い苦悩の色を浮かべて、私を見つめていた。
「お父さん。心配かけて、ごめんね。でも、私、強くなったんだよ。一人じゃない。信頼できる仲間たちがいる。だから、大丈夫」
私は、最高の笑顔を作ろうとした。だが、涙が邪魔をして、うまく笑えているかは分からなかった。
「必ず、両方の世界を守ってみせる。だから……だから、これは『さよなら』じゃない。約束。必ず、また会いに来るから」
父は、何も言わずに、ただ黙って、私の頭をもう一度、強く、そして優しく撫でた。その手のひらから伝わる不器用な愛情が、何よりも雄弁に、彼の想いを伝えてくれた。
母は、嗚咽を漏らしながらも、私の背中を、そっと押してくれた。
「……いってらっしゃい、莉奈」彼女は、涙声で、しかし、母親としての強さを込めて言った。「……いつでも、あなたの帰りを、待っているから。温かいご飯を、用意して」
その言葉が、私の最後の迷いを断ち切った。
私は、一度だけ、深く、深く両親に頭を下げた。
「……いってきます!」
その一言に、全ての感謝と、決意と、未来への約束を込めて。
私は、二人に背を向けた。もう、振り返らない。
ケイレブ様が、無言で私の肩を支えてくれる。マヤが、涙をこらえながら、私の手を強く握ってくれる。
私たちは、揺らぐ空間の中を、あの不吉な光を放つ路地裏へと、最後の帰還のために、駆け出した。
玄関の扉が閉まる瞬間、背後から聞こえた母の「莉奈!」という叫び声が、私の胸に、甘く、そして痛く突き刺さった。
路地裏にたどり着くと、そこはすでに異様な光景と化していた。物置の扉があったはずの空間は、紫と黄金の光が渦巻く、不安定な時空の裂け目へと変貌していた。ゴウン、ゴウン、という低い唸り声と共に、裂け目は不規則に拡大と収縮を繰り返し、周囲の空間を歪ませている。
「リナ殿!」ケイレブ様が叫ぶ。「飛び込むぞ!」
私たちは、覚悟を決めて、その光の渦へと身を躍らせた。
故郷の冷たいアスファルトの感触が足裏から消え、代わりに異世界の、土と草の匂いが全身を包み込む。
だが、それは安堵の帰還ではなかった。
渦の向こう側、異世界の厨房に姿を現した私たちの目の前で、扉のあったはずの壁が、激しい光と共に、内側から崩壊し始めていたのだ。
二つの世界の境界線が、今、まさに消え去ろうとしていた。
私の、二つの故郷を守るための、最後の戦いが、静かに始まろうとしていた。




