第二百九十七話:マヤの涙、ゴークの笑顔
テレビが映し出した「もう一人の私」の残像は、仲間たちの間に奇妙な興奮と、私に対する新たな尊敬(あるいは誤解)を残した。翌朝、安宿の一室は、さながら異世界からの観光客のための作戦司令室と化していた。
「よし、野郎ども!」ギルドから合流したドルフさんが、不慣れな手つきでインスタントコーヒーをかき混ぜながら言った。「せっかく来たんだ。この古代文明とやらを、とことん味わい尽くそうじゃねえか!」
彼の提案で、私たちはグループに分かれて、この未知の世界を調査――という名の探索に出ることになった。ケイレブ様とミーシャは「法」と「経済」のシステムを学ぶため都心へ。ジロと魁人は、この世界の科学技術の心臓部を探るべく、学術地区へと向かった。
そして、最も純粋な探求心を持つ二人が、私の班に残った。
「大師匠!私は、この世界の全ての『美味しい』を味わってみたいです!」
マヤの瞳は、未知の味への期待にキラキラと輝いている。
「親方!俺は、腹がはち切れるほどの『ご馳走』に挑戦してみたいでげす!」
ゴークの腹の虫が、力強い返事をした。
こうして、私とマヤ、そしてゴークの三人は、食の聖地巡礼へと旅立った。
まず私たちが向かったのは、巨大な百貨店の地下にある、広大な食料品売り場、通称「デパ地下」だった。その光景に、マヤは小さな悲鳴を上げた。
「すごい……!宝石箱みたいです……!」
ガラスケースの中には、芸術品のように美しいケーキや、色とりどりの惣菜が、完璧な照明の下で輝いている。マヤは、一切れのショートケーキを前に、目を閉じてうっとりとその香りを吸い込んだ。
「……幸せな味がします。お姫様の、午後の夢の味がします……」
次に訪れたのは、カウンターだけの小さな寿司屋だった。白衣をまとった職人が、無駄のない所作で小さな米の塊の上に、薄く切った生の魚を乗せていく。
「な、生の魚でげすか!?腹を壊しやすぜ!」
ゴークの心配をよそに、マヤは出された一貫の鮪の握りを、おずおずと口に運んだ。
そして、その瞳から、ぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……マヤ!?」
「だ、大丈夫です……」彼女は、泣きながら、最高の笑顔で言った。「このお魚さん、歌っています……!冷たい海を旅してきた物語と、この職人さんの『美味しくなあれ』っていう、とても静かで、優しい歌が聞こえます……!」
彼女の舌は、素材の鮮度だけでなく、それに関わる人々の魂の音色までも、確かに味わっていた。
一方、ゴークが向かったのは、郊外にある焼肉食べ放題の店だった。
「好きなだけ、肉を食べていい……だと……?」
システムの意味を理解した瞬間、彼の巨体は歓喜に打ち震えた。それは、彼にとって、神々との約束の地そのものだった。
店員が恐怖に引きつるのも構わず、ゴークの戦いは始まった。カルビ、ロース、ハラミ。あらゆる部位の肉が、彼の前で焼かれ、そして聖なる供物のように、その胃袋へと収められていく。
「うおおおおおっ!これだ!これこそが、人生だァァッ!」
彼は、満腹という、最も根源的で、純粋な幸福に、その魂の全てを委ねていた。
その日の夕方。安宿に戻った私たちは、それぞれの戦果を広げていた。
マヤは、デパ地下で買った美しい和菓子を、一つ一つ名残惜しそうに味わっている。
「このお菓子は、秋の夕暮れの味がします。こっちは、春の小川のせせらぎの味……」
だが、私がコンビニで買ってきた、工場で作られた袋詰めのクリームパンを一口食べた途端、彼女の顔が曇った。
「……大師匠。このパン……泣いています」
「え?」
「たくさんの機械の音と、『早く、早く』っていう急いでいる大人の声がします。小麦さんが、少しだけ寂しそうです」
マヤの舌は、人工的な甘味料や保存料の奥にある、魂のない製造工程の「味」を、正確に感じ取ってしまっていた。
その時、腹をパンパンに膨らませたゴークが、世界一幸せな顔で部屋に戻ってきた。
「親方!俺は、勝ったでげす!あの店の全ての肉を、食い尽くしてやったでげすよ!」
彼は、満足げにベッドに倒れ込み、すぐに大きないびきをかき始めた。
夜が更け、街が眠りにつく頃。
私は、眠れずに、部屋の窓から東京の夜景を眺めていた。その隣に、いつの間にか目を覚ましたゴークが、静かに立っていた。
「どうしたの、ゴークさん。まだお腹いっぱい?」
「へい。もう、指一本動かせやせん」
彼はそう言って笑ったが、その表情は、昼間の興奮が嘘のように、どこか静かだった。彼は、窓の外に広がる無数の光の点を、ぼんやりと見つめている。
「親方」
やがて、彼はぽつりと呟いた。
「今日の肉は、人生で一番美味かった。それは、間違いねえでげす。でも……」
彼は、自分の巨大な腹を、そっと撫でた。
「不思議なもんでげすな。腹はいっぺえなのに、なんだか、心の真ん中が、すうすうする。一人で食うご馳走ってのは、どんなに美味くても、ただの肉の味がするだけでげすな」
彼の、あまりにも素朴な、しかし真理を突いた一言。
私は、言葉を失った。
マヤは、魂のない「美味しさ」に涙した。ゴークは、魂のない「満腹」に、寂しさを覚えた。
二人は、この聖地巡礼で、食の、そして人生の、最も大切な何かを、それぞれの魂で見つけ出していた。
私は、彼らの師として、胸が熱くなるのを感じながら、ただ静かに、故郷の夜景を見つめ続けるのだった。




