第二百九十八話:ケイレブ、交番へ行く
マヤが魂のない美味しさに涙し、ゴークが孤独な満腹に静かに沈んだ夜が明けた。安宿の一室で、仲間たちがまだ昨日の食の冒険の余韻に浸っている中、ケイレブ様は一人、窓の外を静かに見下ろしていた。
彼の視線の先には、朝の通勤・通学ラッシュが始まろうとしていた。無数の鉄の竜(自動車)と、同じ方向へ黙々と歩く人々の群れ。誰もが、見えない「法」という名の糸に操られているかのように、整然と動いている。彼の故郷の、混沌として生命力に満ちた朝の市場とは、あまりにも対照的な光景だった。
(……これが、平和か)
彼の心に、昨日感じた無力感が再び蘇る。剣も、騎士の誇りも、この巨大な秩序の前では意味をなさない。ならば、この世界における「守る」とは、一体何を意味するのか。
彼は、その答えを探すように、一人で宿を出た。それは警邏と呼ぶにはあまりに心許ない、ただの散策だった。人々は、彼の、この世界ではあまりに物々しい佇まいに一瞬だけ視線を向けるが、すぐに興味を失い、自らの手の中にある光る板の世界へと戻っていく。誰も、他人に干渉しない。その無関心さが、彼にはひどく居心地の悪いものに感じられた。
公園のベンチに腰を下ろし、行き交う人々を観察していた、その時だった。
「―――うわあああん!」
甲高い、子供の泣き声が響き渡った。見ると、公園の入り口で、五歳くらいの小さな女の子が一人、母親とはぐれてしまったのか、その場に座り込んで大声で泣いていた。
その瞬間、ケイレブ様の身体が、本能で反応した。
弱き者の、助けを求める声。それは、彼の魂に刻み込まれた、騎士としての存在理由そのものだった。
彼は、すっくと立ち上がると、迷いなくその少女の元へと歩み寄った。だが、彼の善意は、意図しない形で周囲に警戒心を広げてしまった。体格が良く、異国の顔立ちをした大柄な男が、泣いている子供に無言で近づいていく。公園にいた母親たちが、さっと我が子を庇うように抱き寄せ、遠巻きに私たちを監視し始めた。
少女は、目の前に現れた大きな影に驚き、さらに激しく泣き出す。
「……案ずるな、小さき者よ」
ケイレブ様は、その場に片膝をつくと、王族に接するかのように、恭しく、しかし優しい声で語りかけた。もちろん、その言葉は少女には届かない。彼は懐を探り、何か子供をあやすための菓子でもないかと探すが、入っているのは砥石と、傷薬の小瓶だけだった。
どうしたものか、と彼が眉をひそめた、その時。
「どうしましたか?」
穏やかな、しかし有無を言わせぬ響きを持つ声がした。振り返ると、そこに立っていたのは、青い制服に身を包んだ、一人の若い男性だった。腰には、剣ではない、黒い不思議な形状の武具(拳銃)を提げている。日本の「警察官」だった。
警察官は、ケイレブ様の異様な出で立ちに一瞬だけ警戒の色を見せたが、すぐに状況を判断すると、少女の目線まで屈み、優しい声で話しかけた。
「ぼうや、どうしたんだい?お母さんは?」
彼の言葉には、魔法のような力があった。少女の泣き声が、少しずつ小さくなっていく。
ケイレブ様は、その光景を、ただ黙って見つめていた。自分があれほど苦労しても止められなかった涙を、この男は、たった一言で和らげている。これが、この世界の「力」の使い方なのか。
やがて、警察官が無線で連絡を取ると、数分も経たないうちに、血相を変えた若い母親が「すみません!ありがとうございます!」と叫びながら駆け寄ってきた。涙の再会。母親は、警察官と、そしてケイレブ様にも、何度も何度も頭を下げた。
その全てが解決した後、警察官はケイレブ様に向き直り、敬礼した。
「ご協力、ありがとうございました。あなたのような方がいてくださると、助かります」
彼は、ケイレブ様の服装にはあえて触れず、その行動だけを称賛した。そして、公園の隣にある、小さな建物――交番へと、彼を招き入れた。
「一杯、お茶でもいかがです?少し、冷えましたから」
交番の中は、狭く、雑然としていたが、不思議と安心感のある場所だった。警察官は、ケイレブ様に一杯の、温かい麦茶を差し出した。
ケイレブ様は、その素朴な器を、両手で受け取った。湯気と共に、香ばしい、優しい香りが立ち上る。
彼は、その温かい液体を、一口、口に含んだ。
それは、莉奈が作るスープのような、魂を揺さぶる感動はなかった。だが、冷えた体に、そして、少しだけ傷ついていた彼の騎士としての心に、じんわりと、染み渡る味がした。
彼は、悟った。
この世界を守っているのは、法という冷たいシステムだけではない。そのシステムを運用する、一人一人の人間の、名もなき誠実さと、この一杯の麦茶のような、ささやかな優しさなのだと。
剣を抜かずとも、人を守ることはできる。
力を見せつけずとも、人の心に寄り添うことはできる。
それは、彼がこれまで信じてきた騎士道とは、全く違う形の「強さ」だった。
「……感謝する」
ケイレブ様は、警察官に向かって、初めて、この世界で心の底からの敬意を込めて、そう呟いた。
警察官は、きょとんとした顔で、しかし、にっこりと微笑み返した。
二人の間には、言葉も、身分も、そして世界さえも超えた、確かな敬意と、かすかな友情のようなものが、確かに生まれていた。




