第二百九十三話:騎士と都市の掟(ルール)
【らーめん頑徹】のカウンターで、ゴークが生まれて初めて味わう「本物」のラーメンに雄叫びを上げ、マヤが化学の歌に耳を澄ませていた、その頃。
異世界の厨房では、私たちの不在を案じたミーシャとケイレブ様が、一つの決断を下していた。
「……これほどの時間が経っても、何の連絡もない。ただ事ではない」
ミーシャは、店の帳簿を閉ざすと、経営者としての冷静な判断を下した。「私たちが、状況を確認しに行く必要があります」
その言葉に、これまで黙って厨房の警護を続けていたケイレブ様が、静かに頷いた。彼の騎士としての本能もまた、主君である私の身に、未知の危険が迫っている可能性を告げていた。
二人は、残った弟子たちに留守を任せると、覚悟を決めて、あの奇妙な扉の向こう側―――私の故郷へと、その一歩を踏み出した。
チリン、と店のドアベルが鳴る。
ラーメンを味わっていた私たちの背後に現れたのは、息をのむほどに場違いな、二つの影だった。
一人は、眼鏡の奥の瞳を好奇心に輝かせ、手にした羊皮紙に猛烈な勢いで何かを書きつけている、ミーシャ。
もう一人は、抜き身ではないものの、いつでも剣を抜けるように柄に手をかけ、路地裏の物陰から店内に至るまで、全ての人間を潜在的な脅威として分析している、氷壁の騎士ケイレブ様。
「莉奈さん!ご無事でしたか!」
「……リナ殿。ここは、一体」
二人の登場に、店主の源さんが「なんだぁ、お前さんら」と訝しげな顔をする。私は慌てて席を立ち、二人を手招きして事情を説明した。
ミーシャは、私の話を聞きながらも、日本の貨幣経済や、飲食店というビジネスモデルの完成度に「素晴らしい!なんと効率的なシステムでしょう!」と感動し、メモの手が止まらない。
だが、ケイレブ様は違った。彼の緊張は、このラーメン屋という狭い空間に入ってから、むしろ高まっていた。彼の視線は、源さんが麺を茹でるために使う、炎の上がらない調理器具(IHコンロ)や、客が使う、見たこともないほど薄く、均一な作りの器(陶磁器)に向けられている。
「……リナ殿。この世界の者たちは、皆、これほどの高度な魔法具を、日常的に使っているというのか」
「ええと、これは魔法じゃなくて、科学、というか……」
私の拙い説明は、彼の理解を超えていた。
店を出て、駅前の大通りへと向かう。その瞬間、ケイレブ様の緊張は、ついに頂点に達した。
夕暮れの帰宅ラッシュ。何千、何万という人々が、無秩序なようでいて、一定の法則に従って行き交う。ヘッドライトの光の川が、轟音と共に足元を流れ去っていく。
「……何だ、これは」
ケイレブ様の喉から、絞り出すような声が漏れた。
「戦か?あるいは、大規模な避難か?これほどの数の民が、一度に移動するなど……」
彼は、無意識のうちに、私とマヤを庇うように背後に立ち、その全身から、氷のような闘気を放ち始めていた。そのただならぬ気配に、行き交う人々が「なんだ、あの人……」と、奇妙なものを見る目で私たちを遠巻きにし始めた。
「ケイレブ様、落ち着いてください!」私が慌てて彼の腕を掴む。「これは、戦いではありません。この世界の、日常です!」
「日常、だと……?」
ケイレブ様は、信じられないというように、その光景を見つめた。彼の、騎士として培われてきた常識が、目の前の現実によって、音を立てて崩れていく。
「見てください。彼らは、誰も鎧をまとっていない。武器も持っていない。あまりにも、無防備だ。これでは、一度魔物の襲撃を受ければ、一瞬で……」
彼の瞳には、この平和な光景が、あまりにも脆く、危険な砂上の楼閣のように映っていた。
「いいえ、ケイレブ様」
その言葉を発したのは、ミーシャだった。彼女は、横断歩道の先にある、赤と青の光を放つ信号機を指さした。
「見てください。あの色の光一つで、あれほど巨大な鉄の竜の群れが、一斉に停止します。誰かが剣で威嚇するでもなく、命令するでもなく。ただ、そこに『ルール』があるというだけで、この巨大な都市は、完璧な秩序を保っているのです」
「ルール……掟、か」
ケイレブ様は、その言葉を反芻した。
「ええ。この世界を守っているのは、個人の武力ではありません。誰もが従う、絶対的な『法』という名の、見えないシステムなのです」
ミーシャの言葉は、ケイレブ様の心に、一つの大きな問いを投げかけた。
自分が命を懸けて守ってきた、騎士としての誇り。王への忠誠。その全てが、この世界では、たった一つの色の光が持つ強制力に、及ばないというのだろうか。
自分が信じてきた「力」とは、一体何だったのか。
その時だった。
スケートボードに乗った若者が、猛スピードで私たちのすぐ横をすり抜けていった。
「危ねっ!」
その瞬間、ケイレブ様の身体が、反応した。彼の動きは、疾風のようだった。だが、彼が抜き放とうとした腰の剣は、そこにはない。空を切った彼の手が、虚しく宙を彷徨う。
若者は、悪びれもせずに、雑踏の中へと消えていった。
残されたのは、絶対的な守護者であるはずの自分が、この世界ではあまりにも無力であるという、残酷な事実だけだった。
「……俺は」
ケイレブ様は、自分の空っぽの手のひらを見つめ、呆然と呟いた。
その背中に、東京の無数のビル群の明かりが、まるで勝ち誇るかのように、きらめき始めていた。
私は、彼の、騎士としてのプライドが、初めて深く傷ついた音を、確かに聞いた気がした。




