第二百九十二話:円とギルダー、そして最初の「本物」
「親方。俺、決めやした」
コンビニエンスストアという名の神殿。その中で、ゴークは子供が玩具をねだるような、しかし、飢えた獣のように真剣な眼差しで、ホットケースの中で黄金色に輝くフライドチキンを指し示していた。
「あの黄金の供物を、一口だけでいい。食べてみてえでげす」
その魂からの叫びに、私は頭を抱えた。無理だ。絶対に無理だ。
「ゴークさん、気持ちは分かるけど、ここでは私たちの世界の通貨は使えないの」
「つうか?金貨じゃダメなんでげすか?この金貨一枚で、俺たちの街じゃ家が建っちまう」
ゴークが懐から取り出した、ずっしりと重い金貨。だが、コンビニのアルバイト店員が不思議そうにこちらを見ているだけで、それが何の価値もなさないことは明らかだった。
「この世界の『円』というお金じゃないと、物は買えないの。物々交換も、ここでは野蛮な行為だと思われちゃうから」
「な、なんて面倒な世界でげすか!」
腹の虫をぐぅぐぅと鳴らし、絶望に打ちひしがれるゴーク。その隣で、マヤが色とりどりのパッケージが並ぶお菓子の棚を、悲しそうな目で見つめている。「虹と、子供の笑い声の味がする」と言っていた、あの甘いパンを食べられないことが、彼女の心をしょんぼりとさせていた。
このままでは、二人を餓死させてしまうかもしれない。
(……仕方ない)
私は、覚悟を決めた。この世界で、私が頼れる最後の金庫。それは、私がこの世界に来る前に、ひっそりと隠しておいた、あの場所にしかなかった。
「二人とも、ついてきて。お金、取りに行くから」
私たちが向かったのは、コンビニから歩いて十分ほどの場所にある、見慣れた二階建ての一軒家だった。私の、前世の家。
「ここが……大師匠の……?」
マヤが、小さな声で呟く。
「ああ……」
表札には、私の旧姓である「斎藤」の文字が、少しだけ色褪せて掲げられている。胸が、きゅっと締め付けられた。私は、仲間たちに「ここで待っていて」と告げると、裏庭へと回り込んだ。
幸い、家の中には誰もいないようだった。両親は、共働きだったから、この時間はまだ帰宅していないのだろう。私は、子供の頃によくやったように、庭の隅にある大きな植木鉢をどかす。その下に隠しておいた、鍵の入った小さな缶。錆び付いた鍵で勝手口を開け、私は十数年ぶりに、我が家の、懐かしい匂いを吸い込んだ。
全てが、あの日のままだった。少しだけ埃っぽいけれど、母の好きだった芳香剤の匂い、父が吸っていたタバコの微かな残り香。私は、涙がこみ上げるのを必死でこらえ、自分の部屋だった二階の子供部屋へと駆け上がった。
机の引き出しの、一番奥。そこに隠しておいた、クマの形をしたブリキの貯金箱。
ガチャガチャと音を立てて、中から出てきたのは、何枚かの千円札と、たくさんの百円玉、五百円玉。私の、なけなしのへそくり。その、あまりにもささやかな財産が、今の私にとっては、世界を救う秘宝にも思えた。
「……よし」
私は、お札と小銭をポケットに詰め込むと、後ろ髪を引かれる思いで、再び家の鍵を閉めた。
「お待たせ!」
仲間たちの元へ戻った私は、その足で、学生時代によく通った、駅前の小さなラーメン屋へと向かった。店の名は【らーめん頑徹】。頑固な老店主が一人で切り盛りする、カウンターだけの、古びた店。
「いらっしゃい」
店主の源さん(げんさん)は、私を一瞥したが、もちろん思い出すはずもない。ただの、見慣れない客が三人来た、というだけだ。
私たちはカウンター席に座り、一番基本の「醤油らーめん」を三つ注文した。やがて、湯気の立つどんぶりが、私たちの前に置かれる。
その瞬間、ゴークとマヤは、息をのんだ。
漆黒の器に、琥珀色に澄んだスープ。その表面には、黄金色の鶏油がキラキラと輝いている。寸分の乱れもなく折り畳まれた細麺の上には、完璧なピンク色に仕上げられたチャーシュー、深く色づいた味玉、そして青々としたネギが、完璧なバランスで配置されていた。
それは、私が作る、不格-好で温かい一杯とは全く違う。ジロのそれに近い、計算され尽くした、一つの完成された「作品」だった。
「う……おおおおおおおおっ!!」
スープを一口すするなり、ゴークが、店中に響き渡る雄叫びを上げた。源さんが、ぎょっとしてこちらを睨みつける。
「なんだ、この味は!俺が今まで食ってきたどのスープとも違う!舌の上で、味が爆発しやがる!力が……力がみなぎるようだ!」
彼は、ずるるるっと、これまで聞いたこともないような盛大な音を立てて麺をすすると、天を仰いで叫んだ。「これだ!これこそが、俺が求めていた、ラーメンの完成形だ!」
一方、マヤは、静かだった。
彼女は、目を閉じて、そのスープを、魂で味わうように、ゆっくりと、ゆっくりと口に含んだ。そして、長い沈黙の後、小さく、しかしはっきりと、こう呟いた。
「……美味しい、です」
彼女は、私に向き直り、続けた。その瞳には、畏敬と、そしてほんの少しの戸惑いが浮かんでいた。
「でも、大師匠。このスープ……鶏さんの声が、聞こえません。その代わりに、とても賢くて、計算高い、知らない人の声が、たくさん歌っています。とても美しい歌です。でも、なんだか、少しだけ……寂しい味がします」
その言葉に、私はハッとした。そして、自分の一杯を口に運ぶ。
美味しい。間違いなく、私が再現しようとしてきた、あの故郷の味だ。だが、マヤの言う通りだった。このスープの旨味は、鶏ガラや野菜といった、自然の素材の声だけではない。グルタミン酸ナトリウム――化学的に精製された「旨味」が、その味の骨格を、完璧に、そして少しだけ無機質に支えている。
それは、ジロが目指した完璧さとも、私が目指した温かさとも違う、効率と、再現性と、そして商業的な成功のために最適化された、もう一つの「答え」。
私がこの世界で、ゼロから必死に再構築してきた一杯。その「本物」が、今、ここにあった。
私は、その完璧な一杯を前に、自分のラーメンとは何か、という、新しい、そしてあまりにも大きな問いを、突きつけられていた。




