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古代文明の遺物「カップラーメン」を再現したら、聖女と間違われました  作者: 神楽坂ミコト


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第二百九十話:路地裏の湯気、再び

私の魂に再び温かい火が灯ってから、二年という歳月が流れた。

美食都市フィーリアは、その歴史上、最も健やかで、最も輝かしい黄金期を迎えていた。神々との戦いの記憶さえもが、吟遊詩人が歌う英雄譚となり、街に満ちているのは、多様な食文化が織りなす、豊かで平和な喧騒だけだった。


「へい、お待ち!特製醤油、チャーシュー増しだ!」


昼下がりの【ラーメン処 聖女の厨房】。湯気の向こうで、ゴークの変わらない威勢のいい声が響く。厨房では、弟子たちが互いに声を掛け合いながら、心地よいリズムで調理を続けていた。その光景を、私は大師匠グラン・マスターとして、そして一人の料理人として、深い幸福感と共に眺めていた。この、どこまでも騒々しくて温かい日常。それこそが、私が命を懸けて守り抜いた宝物だった。


その、完璧な日常に、最初の不協和音が混じったのは、ほんの偶然からだった。


広場の向かいにそびえ立つ黒い城、【美食殿 極】の最上階ラボ。そこでは、ジロと魁人かいとが、アトランティスから持ち帰った古代技術の解析に没頭していた。

「……理論上は可能なはずだ」ジロが、魔法水晶に映し出された複雑な術式を睨みつけ、呟く。「空間を固定化し、亜空間に安定した食料貯蔵庫を創り出す。時間の流れを遅延させれば、食材の鮮度を永久に保つこともできる」

「だが、あまりに繊細な魔力制御が要求される」魁人が、古代の文献と照らし合わせながら応じる。「一つのパラメータを誤れば、空間そのものが反発し、どこへ繋がるか分からないワームホールを形成する危険性が…」

「フン、お前の感傷的な予測は不要だ。必要なのは、完璧な計算だけだ」

ジロはそう言うと、術式の最後のパラメータを、自らの指で入力した。その瞬間、ラボの中央に設置された水晶の柱が、これまでになく激しい光を放ち、甲高い共振音を立て始めた。

「まずい!」魁人が叫ぶ。「魔力が暴走している!」

二人の天才の制御を振り切り、膨大な魔力の奔流は、窓を突き破って空へと放たれた。それは、街の地下を網の目のように走る生命線レイラインに乗り、一直線に、この街で最も温かい魔力が渦巻く場所――私の厨房へと、目に見えない光の矢となって突き刺さった。


その頃、私は昼の営業を終え、一人厨房の片付けをしていた。弟子たちも賄いを終え、それぞれの持ち場へと戻っていった後の、静かで、穏やかな時間。

その、静寂を破ったのは、厨房の奥にある物置の扉から聞こえた、奇妙な音だった。

ギィ、と古びた蝶番が軋むような、低い音。そして、ほんの一瞬、扉の隙間から、ありえない色の光が漏れたように見えた。

「……気のせい、かしら」

私は首を傾げたが、次の瞬間、全ての思考が停止した。

ふわり、と。

扉の隙間から、一つの匂いが、私の鼻腔をくすぐったのだ。


それは、この世界のどんな食材とも違う、あまりにも懐かしい匂いのカクテルだった。

雨が降った後の、熱せられたアスファルトの匂い。近所のラーメン屋から漂ってくる、豚骨醤油の香り。隣の家の庭に咲いていた、金木犀の甘い香り。そして、それら全てを包み込む、排気ガスと埃が混じった、都会の空気の匂い。


「……嘘」


私の心臓が、大きく跳ねた。手が震える。足が、勝手にそちらへ向かう。

物置の扉。それは、私がこの店を開いてから、一度も開けたことのない、ただの古い木の扉だったはずだ。だが、今、その扉からは、私がこの世界に転生して、心の最も深い場所に封印したはずの、故郷の匂いが、確かに漏れ出してきていた。


私は、まるで聖遺物に触れるかのように、震える手で、その冷たいドアノブに触れた。

そして、ゆっくりと、祈るように、扉を開けた。


そこにあるはずだったのは、小麦粉の袋や、乾燥したキノコが積まれた、薄暗い物置の光景ではなかった。

目の前に広がっていたのは、夜だった。

狭い路地裏。アスファルトの地面には水たまりができ、遠くのネオンサインの光を鈍く反射している。ゴウン、という地響きと共に、鉄のレールの上を走る箱の連なりが走り去っていく音が聞こえる。壁際には、青く光る自動販売機が、神殿の灯りのように静かに佇んでいた。


西暦二千二十年代、日本の首都圏。私が在籍した大学の図書館で「平成」と呼ばれていた時代が終わって、まだ間もない頃。私が「古代文明」と呼ぶ、故郷。


「あ……あ……」

声にならない声が、喉から漏れた。涙が、視界を滲ませる。

夢じゃない。幻でもない。扉の向こうの空気は、ひんやりとしていて、湿っていて、私の頬を確かに撫でた。背後を振り返れば、そこには、湯気の匂いが染みついた、見慣れた私の厨房がある。

扉が、繋がっている。

私の過去と、現在が。


私は、吸い寄せられるように、一歩、足を踏み出した。

革のブーツの裏が、アスファルトのざらついた感触を、確かに捉える。

私は、帰ってきたのだ。

失われたはずの、私の故郷に。


その、あまりにも奇跡的で、そして残酷な再会の瞬間に、背後の厨房で、一つの小さな音がしたことを、私はまだ知らなかった。

「……莉奈さん?」

心配そうに私の様子を見に来たミーシャが、扉の向こうに広がる信じられない光景と、そこに立つ私の背中を、ただ呆然と見つめていた。

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