第二百八十九話:私たちの賄い飯
ジロが嵐のように去った後、【ラーメン処 聖女の厨房】には、一瞬の静寂、そしてすぐに爆発するような歓声が満ちた。
「うおおおおっ!親方が、戻ってきた!」
ゴークの地響きのような歓声が合図だった。ミーシャが泣きながら私の腕に飛びつき、ケンやアヤたちも「おかえりなさい、大師匠!」と、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、私を取り囲んだ。
「ただいま」
私は、仲間たちの温かい歓迎に、心からの笑顔で応えた。
そうだ。私は、帰ってきたのだ。この、騒々しくて、温かい、私の戦場へ。
私は、仲間たちの輪からそっと抜け出すと、自分が去ったあの日から、火が消えたままだった巨大な寸胴鍋の前に立った。そして、その冷たい金属の肌に、そっと手を触れた。
「ごめんね。寂しい思いをさせたわね」
私は、鍋に語りかけた。そして、振り返り、弟子たちに、大師匠としての、最初の命令を下した。
「みんな!聞いて!」
私の、力強い声に、全員の背筋が伸びる。
「私たちは、奇跡のラーメンを作るんじゃない。聖女のスープでもない。今から、この厨房で、私たちのための、最高の『賄い飯』を作るわよ!」
「賄い飯……ですか?」
ケンの問いに、私は力強く頷いた。
「そう。ルークが作ってくれた、あの不格好で優しい一杯。ジロさんが叩きつけてくれた、あの挑戦的な一杯。そして、みんなが私のために流してくれた、しょっぱい涙の味。その全てへの、私からの『ありがとう』を、この一杯に込めるの」
私の瞳に宿る、揺るぎない決意を見て、弟子たちの目に、再び厨房の活気が戻った。
私は、厨房の中央に立つと、両手をパンと打ち鳴らした。
「さあ、始めましょう!世界一、騒々しくて、温かい反撃を!」
その声は、もう迷子の声ではなかった。
厨房という名のオーケストラを指揮する、マエストロの声。
調理は、祝祭のように始まった。
私が寸胴鍋の前に立つと、ケンが完璧なタイミングで鶏ガラを運び、アヤが歌うように野菜を刻んでいく。ゴークは薪を割り、ミーシャは食材の在庫を笑顔で確認している。ルークは、マヤに教わりながら、一生懸命にネギを刻んでいた。その手つきはまだ危なっかしいが、その顔には「誰かのために」という純粋な喜びが輝いていた。
厨房は、音で満ちていた。包丁がまな板を叩くリズミカルな音、野菜が鉄鍋で炒められる心地よい音、そして、弟子たちの、他愛ない冗談と笑い声。それは、ジロが嫌った、どこまでも非効率で、人間臭い音楽だった。
数時間後。一杯の、ラーメンが完成した。
それは、奇跡の食材を使ったものではない。この厨房にいつもある、ありふれた食材だけで作った、ごく普通の醤油ラーメン。
だが、その一杯から立ち上る湯気は、これまでで最も温かく、そして優しい香りを放っていた。
その日の夜。店の営業はしなかった。代わりに、厨房のテーブルを全て繋げ、一つの長い食卓が作られた。
そこには、私の全ての仲間たちが座っていた。ドルフさんも、ケイレブ様も、ジロからの連絡を受けて駆けつけた魁人も。そして、弟子たち、ミーシャ、ゴーク、マヤ、ルーク。
その長い食卓の中央に、湯気の立つラーメンのどんぶりが、人数分、並べられていく。
「「「いただきます!」」」
全員の声が、厨房に響き渡る。
人々は、夢中で麺をすすった。
「うめえええっ!これだよ、これ!親方の、いつもの味だ!」
ゴークが、涙を流しながら叫ぶ。
ミーシャは、ただ黙って、その温かいスープを味わいながら、幸せそうに微笑んでいた。
ルークは、初めて食べる「みんなと一緒のご飯」の味に、目を丸くして、そして、子供のように笑った。
その光景を、私は、自分の席から、愛おしそうに見つめていた。
そうだ。私が本当に創りたかったのは、世界を救う奇跡のラーメンなんかじゃない。
ただ、この、どこにでもある、騒々しくて、温かい食卓だったんだ。
その頃、広場の向かいにある【美食殿『極』】の最上階。ジロは、ガラス窓から、私の厨房に灯る温かい明かりと、そこから漏れ聞こえてくる賑やかな笑い声を、一人、静かに見つめていた。
「フン、騒々しい奴らだ」
彼はそう呟いたが、その口元には、好敵手の復活を祝うかのような、微かな笑みが浮かんでいた。
私の魂の鎮魂歌は、終わったのだ。
そして、私の、私たちの物語は、またここから始まる。
この、一杯のラーメンと、それを分かち合う笑顔がある限り、どこまでも。




