第二百八十話:湯気の消えた街
【ラーメン処 聖女の厨房】の扉が閉ざされてから、一週間が過ぎた。
街の心臓は、止まってしまったかのようだった。美食都市の朝は、いつもなら私の厨房から立ち上る、温かい湯気のベールに包まれて目覚めるはずだった。だが今、広場を撫でるのは、ただ冷たい風だけだ。他の店の厨房からは相変わらず煙が上がっている。パンは焼かれ、シチューは煮込まれている。だが、街全体が、どこか色褪せて見えた。
人々は、自分たちの日常から何が失われたのかを、じわじわと実感し始めていた。市場の喧騒はどこか空々しく、酒場で交わされる冒険者たちの自慢話にも、以前のような熱がない。食事は、ただ腹を満たすための作業へと逆戻りしつつあった。人々は、自分たちが求めていたのが単なる満腹感ではなく、莉奈が作る一杯の「物語」であり、それを分かち合う「時間」であったことに、その不在をもって初めて気づかされたのだ。
閉ざされた厨房では、弟子たちが途方に暮れていた。何度スープを炊いても、出来上がるのは魂のない抜け殻だけ。彼らは、自分たちがただのレシピの模倣者でしかなかったことを、痛いほど思い知らされていた。
「俺たちは、革命だの、侯爵だの、でけえ敵と戦ってきた。だが、たった一人の料理人の、疲れた心をどうすることもできねえのかよ!」
円卓会議の議場では、ドルフさんが荒れていた。ケイレブ様もまた、厳しい表情で窓の外、静まり返った私の店の方角をじっと見つめている。彼らは、街の指導者としてあらゆる手を尽くそうとしたが、私の心の扉は、固く閉ざされたままだった。剣も、政治も、この戦いではあまりに無力だった。
その頃、広場の向かいにそびえ立つ黒い城、【美食殿『極』】でも、静かな異変が起きていた。
ジロの創り出すラーメンは、相変わらず完璧だった。だが、彼の心には、何の喜びも湧いてこなかった。
(……つまらん)
彼は、厨房のガラス窓から、灯りの消えた【ラーメン処 聖女の厨房】を見やった。あの騒々しくて、非効率的で、感傷的な厨房。その存在が、無意識のうちに、彼の孤独な完璧さを際立たせるための、最高の舞台装置となっていたのだ。好敵手を失った王のように、彼の完璧な一杯は、その輝きを比べる対象を失い、どこか虚しく色褪せて見えた。
夜になり、街が静まり返る。
閉ざされた私の店の扉の前に、ぽつり、ぽつりと、人影が現れ始めた。
最初に現れたのは、小さな子供だった。彼は、母親に手を引かれ、昼間、道端で摘んだのであろう、一輪の小さな野の花を、そっと扉の前に置いた。
次に現れたのは、いかつい顔の冒険者だった。彼は、ぶっきらぼうに、しかしどこか照れくさそうに、森で採れたという不思議な形のキノコを、花の隣に置いた。
農夫が、不揃いな人参を。漁師が、小さな干し魚を。
それは、聖女への祈りの供物ではなかった。
ただ、「美味しいものを食べたら、元気が出るかもしれない」「これをスープに入れたら、またあの味が戻ってくるかもしれない」という、不器用で、温かい、友人への見舞いの品だった。
やがて、店の前には、街の人々の想いが詰まった、ささやかな食材の山ができていた。
その光景を、店の二階の窓から、ミーシャとゴークが、涙をこらえながら見下ろしていた。
街は、まだ死んでいない。
聖女に奇跡を求めるのではなく、一人の疲れた友人のために、今、自ら動き出そうとしていた。
その温かい光景を、部屋の暗がりから、私自身が、固く閉ざした心の隙間から、静かに見つめていることに、まだ誰も気づいてはいなかった。




