第二百七十九話:閉ざされた厨房
私が厨房を去った翌朝、【ラーメン処 聖女の厨房】は、その歴史上、初めて静寂と共に夜明けを迎えた。
いつもなら、もうもうと立ち上る湯気の温かさと、鶏ガラと野菜が煮える優しい香りが、眠る街を優しく起こしていたはずだった。だが今、厨房に満ちているのは、火の消えた寸胴鍋が放つ、ひやりとした金属の匂いだけだった。
「……ダメだ」
一番弟子のケンは、寸胴鍋の前に立ち、夜通し格闘したスープを味見して、力なくレンゲを置いた。
レシピは完璧なはずだった。親方である私の手順を、一から十まで正確になぞった。だが、出来上がったのは、ただの味のするお湯。魂が、ない。あの、飲むだけで心が温かくなるような、親方のスープの面影はどこにもなかった。
「何が足りねえんだ……何が……!」
彼は、自分の不甲斐なさに、悔しそうに拳を握りしめた。
「おはようございます……」
ミーシャが、眠れなかったのか、目の下にうっすらと隈を作って厨房に降りてきた。彼女は、ケンの作った魂のないスープと、二階へと続く、固く閉ざされた私の部屋の扉を交互に見つめ、静かに、しかし経営者としての決断を下した。
「……ケンさん。今日は、店を閉めましょう」
「ミーシャさん!だけど、お客さんたちが……!」
「分かっています」ミーシャは、ケンの言葉を遮った。「ですが、今の私たちに、莉奈さんの代わりは務まりません。魂のない一杯をお出しすることは、かえって莉奈さんが築き上げてきたものを傷つけてしまう。今は……待ちましょう。彼女の心が、もう一度厨房に戻ってくる日を」
その日の昼前。【ラーメン処 聖女の厨房】の扉に、一枚の、小さな木の札が掛けられた。
ミーシャの、いつもは力強い、しかし今日だけはどこか祈るような筆跡で、こう書かれていた。
【店主都合により、しばらくの間、お休みさせていただきます】
その短い知らせは、美食都市の心臓が止まったことを告げる、静かな訃報のようだった。
街の心臓であった厨房の沈黙は、美食都市全体に動揺と、言いようのない寂しさを広げていく。いつもなら店の前にできているはずの長蛇の列はなく、人々はただ、閉ざされた扉を、信じられないといった様子で遠巻きに見つめているだけだった。
その頃、私は、部屋のベッドの上で、ただ天井の木目をぼんやりと見つめていた。
階下から聞こえてくるはずの、活気に満ちた喧騒が、ない。その静寂が、私の犯した罪の重さを、容赦なく突きつけてくるようだった。
ミーシャが、扉の外に食事を置いてくれる気配がしたが、起き上がる気力さえ湧かなかった。料理人失格の私が、食べる資格などない。私の世界は、色を失っていた。
その報せは、すぐに街の指導者たちの耳にも届いた。
円卓会議の席で報告を受けたドルフさんは、テーブルを拳で叩き割りそうなほどに激昂した。
「休業だと!?あいつ一人で、何を抱え込んでやがるんだ!」
「議長、落ち着いてください」ケイレブ様が、冷静に、しかしその声には深い憂いを込めて言った。「彼女は、聖女という重圧と、大師匠という責任の中で、ずっと一人で戦い続けてきた。我々が思っている以上に、その魂は疲弊しているのかもしれない」
そして、その噂は、広場の向かいにそびえ立つ黒い城、【美食殿『極』】にも届いていた。
昼の営業の合間、執事が恐る恐るその事実を報告すると、厨房で完璧な一杯を創り上げていたジロは、一瞥もくれることなく、冷たく言い放った。
「……感傷が、壊れただけだ。いずれ、そうなると思っていた」
彼は、完成した芸術品のようなラーメンを、満足げに見下ろした。
「温もりだの、絆だの、そんな曖昧なものに頼るから、脆くも崩れ去る。本物とは、揺るぎない理論と、完璧な技術の上にのみ存在するのだ」
彼の哲学は、揺るぎなかった。だが、その冷徹な瞳の奥で、彼の魂が、生まれて初めて「好敵手の不在」という名の、微かな寂しさを感じていることに、彼自身はまだ気づいていなかった。
夜になり、街が静まり返っても、私の厨房の扉は閉ざされたままだった。その扉の前には、ゴークが、まるで墓標を守る番人のように、腕を組んで静かに佇んでいた。
美食都市の、温かい湯気は、今、完全に消え失せていた。




