第二百七十八話:壊れた音色
カラン、と。
私が手から落としたお玉の、無機質な音が、活気に満ちていたはずの厨房に、冷たい楔を打ち込んだ。
全ての音が、止まった。麺を茹でる湯の音も、野菜を刻む包丁のリズムも、客席からの賑やかな声も。まるで、オーケストラの指揮者がタクトを落としたかのように、世界からハーモニーが消え失せた。
「……大師匠?」
一番弟子のケンが、恐る恐る私の名を呼ぶ。だが、私は振り返ることができなかった。床に転がった、愛用のお玉。それは、もはや私の腕の延長などではなかった。私の魂を縛り付ける、鉛のように重い枷。その冷たい輝きが、私の無力さを嘲笑っているように見えた。
「……ごめんなさい」
私は、か細い声でそれだけを呟くと、ゆっくりと踵を返した。弟子たちの戸惑いの視線、客席から注がれる心配そうな眼差し。その全てが、私の背中に突き刺さる。一歩、また一歩と、自分が創り上げたはずの、しかし今はもう自分の居場所ではないかのように感じられる厨房を、後にする。
店の二階にある自室へ続く階段を、ふらつく足取りで登る。背後で、ケンが「親方!」と叫ぶ声と、ミーシャがそれを制する声が、遠くに聞こえた気がした。
部屋の扉を閉めた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。涙さえ、出なかった。心があまりに疲れ果てて、感情という名の水が、一滴も残っていなかったのだ。
私は、ベッドに倒れ込むと、ただ天井の木目をぼんやりと見つめた。
(作れない……もう、私には……)
料理人として、奇跡の聖女として、常に最高の「答え」を求められてきた。革命の時も、神々と戦った時も、私は一杯のラーメンで、その答えを示してきた。
だが、今の私には、何もない。
心の寸胴鍋は、空っぽだった。
その夜、店の営業はどうにか弟子たちが終えてくれたようだった。階下から、いつもよりずっと静かな片付けの音が聞こえてくる。
コンコン、と控えめなノックの音。
「……莉奈さん」
ミーシャの声だった。
「何も、召し上がっていないでしょう?せめて、これだけでも……」
扉の前に、お粥の入ったお盆が置かれる気配がした。彼女の優しさが、今はひどく痛かった。
私は、ベッドから起き上がることができなかった。
目を閉じれば、少年アルマンの、あの真っ直ぐな瞳が蘇る。
『つまらない大人の味がする』
そうだ。私は、いつの間にか「聖女」という役割を演じる、つまらない大人になってしまったのかもしれない。人々の期待に応えるためだけに、魂のない、完璧なだけのスープを作ろうとしていたのかもしれない。
その罪悪感が、私から料理をする喜びを、完全に奪い去ってしまった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
階下の物音が完全に消え、街が深い眠りについた頃。
私の部屋の扉が、再び、かすかな音を立てた。ミーシャだろうか。だが、今度の気配は違った。もっと静かで、そしてどこか、この世のものとは思えないほど純粋な気配。
月明かりの中、そこに立っていたのは、ルークだった。
その手には、彼が厨房で使っていたのであろう、一枚の布巾が握られていた。
「……リナ」
彼は、何も言わなかった。ただ、部屋に入ると、私が昼間、涙の代わりにこぼしてしまったのであろう、床のスープの染みに気づいた。そして、その前に静かに膝をつくと、持っていた布巾で、一言も発さずに、その染みを丁寧に、丁寧に拭き取り始めたのだ。
それは、慰めの言葉ではなかった。励ましの言葉でもなかった。
ただ、寄り添うという、無言の行為。
神であった頃の記憶を失い、人間としての感情さえまだおぼつかない彼が、今の私にできる、たった一つの、そして最高の優しさだった。
その、あまりにも純粋な行為を前にして、私の、乾ききっていたはずの瞳から、一筋、熱いものがこぼれ落ちた。
「……ごめんね、ルーク」
私の、その嗚咽に混じった一言。
それが、私の心が奏でた、最初の、壊れた音色だった。
長い、長い沈黙の夜が、始まろうとしていた。




