表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
古代文明の遺物「カップラーメン」を再現したら、聖女と間違われました  作者: 神楽坂ミコト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

278/375

第二百七十七話:重くなるお玉

少年アルマンに「美味しくない」と告げられてから、私の厨房は変わってしまった。いや、厨房そのものは何も変わらない。変わってしまったのは、私の心だった。


厨房は、かつては喜びと創造に満ちた私の聖域だった。だが今、そこは果たすべき義務だけが積み上げられた、灰色の作業場にしか感じられなかった。鶏ガラを寸胴に入れる手は、ただの作業をこなす機械のように動き、野菜を刻む包丁の音には、かつてのような心地よいリズムがなかった。


「大師匠、スープの味見をお願いします」


マヤが、心配そうな瞳で私を見つめながら、小さな器を差し出す。私はそれを受け取り、スープを口に含んだ。……塩味、鶏の風味、野菜の甘み。頭では、味が構成されているのが分かる。だが、心が、美味しいと感じない。舌が、喜んでいない。


「……問題ないわ」


私は、無理に微笑んでそう答えることしかできなかった。マヤの悲しそうな顔を見ないように、私はすぐに火の番へと戻る。私の異変は、もはや誰の目にも明らかだった。一番弟子のケンや他の弟子たちは、何も言わずに私の仕事を必死にカバーしようとしてくれている。その優しさが、逆に私の心を重く締め付けた。


昼の営業が一段落した頃、厨房の裏口が勢いよく開き、ゴークが巨大な肉塊を誇らしげに掲げて飛び込んできた。

「大師匠!見てくれよ!市場で一番いいボアの肉が手に入ったんだ!俺が、あんたのために最高のステーキを焼いてやる!これを食って、元気出してくれよ!」


彼は、私の食が細くなっているのを、誰よりも心配してくれていたのだ。厨房の隅で、彼は分厚い鉄板を熱し、岩塩と香草だけでシンプルに、しかし完璧な火加減で肉を焼き上げていく。ジュウウウッという音と、立ち上る香ばしい匂い。それは、かつての私なら、それだけで心が躍ったはずの、生命力に満ちた香りだった。


「さあ、できたぜ!熱いうちに食ってくれ!」


ゴークが差し出した大皿には、表面はカリッと、中は美しいロゼ色に輝く、完璧なステーキが鎮座していた。その湯気は、彼の不器用な優しさそのものだった。

「……ありがとう、ゴークさん」

私は、感謝の気持ちで胸が一杯になった。だが、それとは裏腹に、私の身体は、そのご馳走を拒絶していた。ナイフとフォークを手に取ったものの、胃が鉛のように重く、一口食べることさえ、億劫に感じられた。

私は、かろうじて小さな肉片を切り分け、口に運んだ。美味しい、はずだった。だが、味がしない。ただ、肉の繊維を咀嚼しているという、事実があるだけ。


「……ごめん、ゴークさん。すごく、美味しいわ。でも、今は……あまりお腹が空いてなくて」


私のその一言に、ゴークの、熊のように大きな身体が、分かりやすくしゅんと萎んだ。彼の顔には、戸惑いと、そして深く傷ついたような色が浮かんでいる。「そ、そうか……。まあ、無理すんなよ」とだけ言って、彼は静かに厨房の隅へと戻っていった。


食への喜びそのものが、私の中から消え失せていた。

その事実は、私を料理人として、静かに殺していく。


夕方の営業が始まった。客足は、まだ戻らない。それでも、私のラーメンを信じて来てくれる常連たちが、テーブルを埋めてくれていた。

「親方!特製味噌、一丁!」

弟子からの注文の声が飛ぶ。

私は、いつものように寸胴鍋の前に立った。そして、スープをすくうための、長年使い込んできた愛用のお玉を、手に取った。


その、瞬間だった。


ずしり、と。

信じられないほどの重さが、私の腕にのしかかった。

物理的な重さではない。それは、魂の重さだった。このお玉には、あまりにも多くのものが詰まりすぎていた。聖女という期待、大師匠という責任、そして、「美味しい」と言ってもらわなければならないという、見えないプレッシャー。

かつては、私の腕の一部のように軽やかだったお玉が、今や、私の心を縛り付ける、鉛の枷となっていた。


手が、震える。スープを、すくえない。

「……大師匠?」

私の異変に、ケンが怪訝な声を上げる。

私は、お玉を握りしめたまま、動けなかった。客席から聞こえる、期待に満ちた声。弟子たちの、心配そうな視線。その全てが、私を責め立てているように感じられた。


カラン、と。

ついに、私の手から力が抜け、お玉は甲高い音を立てて床に落ちた。

厨房が、静まり返る。

私は、自分の手を見下ろした。それはもう、奇跡を生み出す魔法の手ではなかった。ただ、疲弊しきった、一人の無力な少女の手だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ