第二百七十六話:届かない奇跡
マヤに「スープが笑っていません」と告げられてから数日。私の心に棘のように刺さった言葉は、日々の喧騒の中で意識しないようにしていても、ふとした瞬間にちりりと痛んだ。厨房は変わらず活気に満ち、客たちの「うまい!」という声も聞こえる。だが、私の耳には、その声がどこか遠い世界で鳴っている響きのように、現実感を失っていた。
その日、店の前に一台の、王家の紋章を掲げた豪奢な馬車が止まった時、厨房に緊張が走った。店に現れたのは、見るからに身分の高そうな、しかし心労で深くやつれた壮年の貴族だった。彼は、円卓会議のドルフさんを通して、私に個人的な依頼があるのだと、深く頭を下げた。
「大師匠……いや、聖女様。どうか、我が息子を救っていただきたい」
話を聞けば、彼の悩みは病や呪いではなかった。一人息子のアルマン様が、原因不明の食わず嫌いとなり、日に日に衰弱しているというのだ。王宮の料理長が腕を振るったご馳走も、サルーテリアの医師が処方した栄養食も、全て「美味しくない」と言って一口しか食べないのだと。貴族は、最後の望みを託し、どんな頑なな心も解きほぐすという私の「奇跡の一杯」を求めて、この美食都市までやってきたのだった。
「……わかりました。私に、お任せください」
その依頼は、私の沈みかけた心に、最後の火を灯してくれた。そうだ、私は料理人だ。悩める誰かのために、一杯を作る。それこそが、私の原点のはずだ。私はその夜、久しぶりに厨房に一人籠り、持てる技術と知識の全てを、その一杯に注ぎ込んだ。
アルマン様は、まだ十歳にも満たない、ガラス細工のように繊細な少年だった。彼の味覚を無理にこじ開けるのではなく、優しく誘い出すような、そんな一杯を。
スープは、雲雀鶏をベースにしたどこまでも澄んだ黄金色のコンソメ。麺は、雪解水で育てた小麦を使い、絹のように滑らかな食感に。トッピングは、少年の好きな甘い果実をソースにした柔らかな鶏肉のチャーシューと、野菜を星や月の形に飾り切りしたもの。
それは、芸術品だった。子供を笑顔にするための、私の魂の全てを込めた、完璧な一杯。
翌日、貴族の滞在する宿舎の一室。私は、その一杯を、アルマン様の前にそっと差し出した。
「さあ、お食べなさい。きっと、好きになるはずだから」
父親である貴族も、固唾をのんで見守っている。
アルマン様は、その美しい見た目に一瞬だけ目を輝かせた。そして、レンゲでスープを一口、おずおずと口に運んだ。
長い、長い沈黙。
やがて、彼は小さなスプーンをカチャン、と音を立てて器に置くと、無表情のまま、静かに首を横に振った。
「……美味しくない」
その一言は、私の心臓を、冷たい手で鷲掴みにするかのようだった。
「こ、こらアルマン!聖女様の前で、何という無礼な!」
貴族が慌てて息子を叱りつける。だが、私はそれを手で制した。
「……どうして、そう思うのかしら。教えてくれる?」
私の問いに、少年は、私の目をまっすぐに見つめ返した。その瞳には、子供特有の、残酷なまでの正直さが宿っていた。
「だって、このスープ、どこか遠くで鳴ってる、綺麗な音楽みたいな味がする。僕のこと、全然見てくれてない。ただ、『これを食べれば喜ぶだろう』って、勝手に決めつけてる、つまらない大人の味がするから」
私は、言葉を失った。
技術の粋を尽くした一杯は、彼の魂に、一ミリも届いていなかったのだ。
貴族は、私の評判を傷つけまいと、必死で取り繕ってくれた。「いやはや、素晴らしいお味でした!息子も、きっと長旅で疲れているのでしょう。大師匠、感謝いたします!」と。彼はそう言って、気まずそうに私を部屋から送り出した。
帰り道、雨が降り始めていた。冷たい雨粒が、私の頬を濡らす。
私は、人を笑顔にしたかった。たった一人の子供さえも、笑顔にできなかった。それどころか、私の独りよがりな善意は、彼の心を傷つけてしまったのかもしれない。
厨房に戻ると、心配そうに待っていたミーシャとゴークが駆け寄ってきた。
「莉奈さん、どうでしたか!?」
私は、何も答えられなかった。ただ、濡れた顔のまま、か細い声で、一言だけ呟いた。
「……ごめん。私、もう、美味しいが、分からないかもしれない……」
その日、私の厨房から、初めて、温かい湯気と共に「喜び」の香りが、完全に消え失せた。




