九州征伐前夜(上) 兄が陣羽織を脱いだら、誰が戦に出るのか
◇
翌朝、まだ暗いうちに目が覚めた。
夢の中の俺は、毎朝この刻限に起きていた。その癖だけは、夢から持ってきてしまったらしい。布団の中で脛を押す。跡は、昨日の朝と変わらない。一晩で変わるはずもなかった。
障子を開けると、庭は霜で白かった。草履をつっかけて、そのまま歩き出した。池のまわりを一周したところで、宿直の侍が、刀の柄に手をかけて駆けてきた。
「と、殿。いかがなされました。物の怪にでも」
「歩いているだけだ」
「歩かれるのでしたら、せめて提灯をお持ちくだされ。池のふちが凍っております。殿が池に落ちられては、それがしの腹がいくつあっても足りませぬ」
侍は、夜明け前の庭を歩く主君というものを、どう扱っていいのか分からない顔をしていた。夢の中で、まったく同じ顔を見た覚えがある。あのときは、次の朝に十人、その次の朝に二十人が、槍を持ってついてきた。
「ついてこなくていいぞ。屋敷の中で、俺を斬りに来る者はおらん」
「は。いえ、しかし」
侍は結局、三歩うしろをついてきた。二周目に入ると、廊下の角から、もう一人増えた。右足をかばいながら歩く大男だ。
「殿。夜明け前に庭を回っておられると、宿直が肝をつぶしております」
「高虎こそ、なぜ起きている」
「足の親指が痛みまして。殿に言い当てられてから、どうにも気になって眠れませぬ。昨夜の膳の鯛も、半分残しました」
「それなら、なおさら歩け。ただし、ゆっくりだ」
三人で池を回っていると、向こうの棟の縁側に、丸い人影が座っているのが見えた。家康だった。綿入れを着込み、湯気の立つ湯呑みを両手で包んでいる。
「羽柴殿も、早起きでござるな」
「徳川殿こそ。昨夜は、あまり眠れなかったのではありませぬか。目が赤うございます。白湯が冷めたら、言いつけてくだされ。すぐに替えを持たせます」
「お見通しでござるな。年を取ると、朝が早うなりましてな。それに、今日は眠れる日ではござらぬ」
家康は湯呑みを縁側に置くと、草履を履いて庭へ下りてきた。そのまま、当たり前のように俺の隣に並んだ。宿直の侍と高虎が顔を見合わせて、さらに一歩下がった。
しばらく、霜を踏む音だけが続いた。家康は、歩くのが速かった。鷹狩で野山を歩き回ってきた足だ。俺のほうが、先に息が上がった。脛のむくみの重さが、そのまま足に来る。
家康が、ちらりと俺の足もとを見た。
「羽柴殿。足が、重そうでござるな」
「むくんでおります。朝はとくに」
「むくみには、小豆を煮て食すがよいと申しますぞ。拙者は、浜松でも岡崎でも、小豆を切らしたことがござらぬ」
内科医の頭が、勝手に考えた。小豆には、体から水を出す働きがあると言われている。まんざら外れでもない。この男の養生は、半分は当たっている。
「羽柴殿。一つ、お尋ねしたい」
「何なりと。昨夜の借りもございます」
「今日の対面で、拙者は殿下に頭を下げる。それは昨夜お約束した。されど、ただ頭を下げただけでは、殿下の望みには足りぬような気がいたす。居並ぶ大名衆が、なるほどと膝を打つような下げ方が、何かござらぬか」
足が止まりそうになった。
その答えを、俺は知っている。歴史の本に、逸話として書いてあった。対面の席で、家康は兄の着ていた陣羽織を所望する。殿下にはもう二度と、陣羽織を着て戦に出ていただくようなことはさせませぬ。そう言って、居並ぶ大名たちの前で兄の顔を立てた。
言うべきかどうか、俺は迷った。
昨夜、俺は兄の酒を断った。家康は、それを見て俺をかばった。歴史の本のどこにも、そんな話は書いていない。年表は、もう少しずつずれはじめている。ここで俺が黙っていたら、家康はただ頭を下げて終わるかもしれない。陣羽織の一件がなければ、大名たちは家康の臣従を、負けた男の挨拶としか見ないかもしれない。それでは、兄の怖さは何も消えない。
帳面の年表には、消したい行がいくつもある。秀長の死。利休の切腹。兄の子の死。だが、消してはいけない行もある。家康が兄に頭を下げ、豊臣の下に入る。この一行が崩れたら、消したい行に手をつける前に、天下がまた二つに割れる。
「兄は、今日、陣羽織を着て出てまいります。戦のときに鎧の上に羽織る、あれです。兄は、自分がまだ戦場に立つ大将だということを、皆に見せたがります」
家康の細い目が、さらに細くなった。しばらく黙って歩いてから、ぽつりと言った。
「・・・さぞ、見事な錦でござろうな」
それ以上は、何も言わなかった。言わなくても、この男には分かったらしい。池をもう一周したところで、家康は縁側の湯呑みを取りに戻っていった。
高虎が、うしろから小声で言った。
「殿。今のは、何の話でござる」
「白湯の仲間の話だ」
◇
大坂城の大広間は、人で埋まっていた。
上座に兄がいて、その下に大名たちが二列に並んでいる。誰もが、今日の対面を見に来ていた。小牧で兄と戦った男が、どんな顔で頭を下げるのか。どこまで下げるのか。末席のほうでは、扇の陰で何か言い合っている者たちまでいた。俺は兄に近い席に座らされ、膝の上で拳を握っていた。
兄は、派手な陣羽織を着ていた。錦の地に、金の糸。広間の明かりを、そこだけ集めたように光っている。
家康を待つあいだ、兄は何度も、陣羽織の紐を結び直していた。三度目に結び直したところで、前を向いたまま、俺にだけ聞こえる声で言った。
「小一郎。徳川殿は、ちゃんと頭を下げるかのう」
「昨夜、お約束なさいました」
「約束は、破るためにある。わしは、何度も破ってきた」
冗談のつもりらしかった。兄の指は、まだ紐をいじっていた。
俺は、そっと息を吐いた。少なくとも、ここまでは年表どおりだ。
家康が入ってきた。
広間が静まった。家康は、昨夜と同じ丸い体を、昨夜よりずっと小さく見せて、兄の前に進み出た。そして、深々と頭を下げた。額が畳につくほどだった。大名たちのあいだに、かすかなどよめきが走った。
「徳川家康にござる。これまでの無礼の数々、まことに申し訳なく存じまする」
兄は、上機嫌でうなずいた。ここで終われば、ただの臣従の挨拶だ。俺の拳に、また力が入った。
家康が、顔を上げた。
「殿下。一つ、お願いの儀がござる」
「なんじゃ。申してみよ」
「殿下のお召しの、その陣羽織。拙者に頂戴できませぬか」
広間の空気が、きしんだ。たった今頭を下げたばかりの男が、天下人の着ているものをねだった。兄の眉が、ぴくりと動いた。末席の扇が、ぴたりと止まった。
家康は、構わず続けた。
「これより先、殿下に陣羽織を着て戦場へ出ていただくようなことは、この家康がさせませぬ。戦は、拙者どもが引き受けまする。殿下には、もう陣羽織は要らぬはずでござる」
しばらく、誰も息をしなかった。
それから兄が、膝を叩いて立ち上がった。
「聞いたか、皆の者。徳川殿が、わしの陣羽織を脱がせると申したぞ」
兄は自分で陣羽織を脱ぐと、上座から下りて、家康の肩に掛けてやった。錦の陣羽織は、家康の丸い体には少し窮屈そうだった。大名たちが、一斉に平伏した。誰かが感に堪えぬような声を上げ、それが広間じゅうに広がっていった。
兄の顔は、昨夜と同じように、くしゃくしゃになっていた。家康の肩に置いた手は、もう震えていなかった。
上座へ戻る途中、兄は俺の前で足を止めた。大名たちが平伏したまま顔を上げないのをいいことに、小声で言った。
「小一郎。わしは今日で、陣羽織を脱いだ。九州の島津には、わしの代わりに誰ぞが陣羽織を着て行かねばならぬのう」
兄は、俺の顔を見て、にやりと笑った。それが誰のことかは、言われなくても分かった。
俺は、膝の上の拳をほどいた。手のひらに、爪の跡が四つ、赤く残っていた。
◇
その夜、大坂の屋敷で、俺は高虎に筆を持たせた。
俺の字は、前の世の字だ。この時代の者には読めない。家中に出す触れは、読める字で書いてもらうしかなかった。
夢の中の俺は、郡山で目を覚まして、家中に三つの決まりを出した。同じものを、今度はもっと早く出す。
『ひとつ、殿の膳の塩は半分とする。
ひとつ、殿に酒を勧めてはならぬ。
ひとつ、殿は夜明けに城内を歩く。』
高虎は、言われるままに書いた。三つ目で筆が一度止まりかけたが、何も言わなかった。少し考えて、俺は四つ目を足した。
『ひとつ、家臣も、望む者は殿とともに歩くべし。ただし、槍は置いてくること。』
今度こそ、高虎の筆が止まった。
「殿。この四つ目は、それがしのことでござるか」
「今朝の宿直のことだ。刀の柄に手をかけて駆けてきた」
高虎は、自分の腰のあたりに目を落とした。
「それがしも、脇差は差しておりました」
高虎は、書き終えた紙に息を吹きかけて墨を乾かしながら、ついでのように付け加えた。
「殿。この四か条を郡山で触れに出されたら、大坂じゅうの噂になりますぞ。塩を断ち、酒を断ち、夜明けに城をうろつく大将など、聞いたこともござらぬ。九州の大将にと殿下がお考えのお方が、気を病まれた、と」
「噂させておけ。病んでいるのは、足だけだ」
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