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内科医が豊臣秀長に転生して長生きを目指したのに、史実どおりに死んだので二度目は本気で生き延びます ~俺が死ぬと豊臣家が滅ぶ~  作者: 島村 巡


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2/7

家康上洛(下) 天下人の兄に、酒をすすめられた

 ◇


 障子が、勢いよく開いた。


「おう、徳川殿。よう来られた、よう来られた」


 入ってきたのは、小柄な男だった。供は、わずか数人。皺の多い猿のような顔に、人懐こい笑みを満面に浮かべている。関白、羽柴秀吉。俺の兄だ。


 家康の家臣たちが、一斉に腰を浮かせた。刀に手をかけかけた者までいる。明日、大坂城で会うはずの相手が、前触れもなく、夜中に宿所へ乗り込んできた。家康だけは、落ちた印籠を拾い上げ、ゆっくりと懐に戻してから、両手をついた。その手が、ほんの少し震えていたのを、俺は見ていた。


「関白殿下には、わざわざのお運び、恐れ入り奉る」


「堅いのう。今宵は、わしと徳川殿の内々の顔合わせじゃ。小一郎、酒じゃ、酒」


 兄は家康の隣にどかりと座り込み、まるで昔なじみのように肩を叩いた。廊下の向こうで、台所の者たちが走り回る音がする。膳がもう一つ足りない。上座に座を一つ空けなければならない。兄の供の者たちにも、湯と飯を出さなければならない。慌てて運ばれてきた膳は、鯛の向きが逆だった。誰も、それを直す暇がなかった。


 兄は、俺の前の盃に気がついた。


「なんじゃ小一郎、これは白湯ではないか。徳川殿をもてなす席で、亭主が白湯とは何事じゃ。ほれ、わしが注いでやる」


 兄が徳利を傾けてくる。俺は、反射的に盃を手で覆っていた。広間が、しんとなった。


 覆ってから、しまった、と思った。秀長の記憶が、頭の奥で騒いでいる。小一郎は、兄の酒を人前で断ったことがない。夢の中の俺は、断った。聚楽第の宴で、兄の子が無事に生まれるまで酒を断つと願を掛けたことにして、逃げた。だが、その手は使えない。茶々は、まだ身ごもってもいない。


 兄の目が、すっと細くなった。


「・・・小一郎」


 広間の隅で、高虎が膝立ちになり、じりじりとこちらへにじり寄ってきていた。殿の代わりに、それがしが頂戴いたす。今にもそう言い出しそうな顔だった。あの男の足の親指が夜中に痛むことを、俺は今朝、知ったばかりだ。


 そのとき、横から、のんびりした声がした。


「殿下。羽柴殿は、先ほど拙者の薬を飲まれたばかりでござる。旅の疲れによく効く薬でしてな。ただ、酒と合わせると、腹の中で喧嘩をいたす。今宵ばかりは、白湯でなければなりませぬ」


 家康だった。もちろん、俺は薬など飲んでいない。家康は細い目で、ちらりとこちらを見た。何も言うな、という目だった。高虎が、浮かせた膝をそろそろと下ろした。


 兄は、しばらく家康と俺を見比べていた。それから、ぷっと吹き出した。


「徳川殿の薬か。そりゃあ、ありがたいものを飲んだのう、小一郎。徳川殿は薬の名人と聞いておる。わしにもひとつ、くだされ」


「殿下は、ご酒を召されておりますゆえ、また日を改めて」


「なんじゃ、つまらん」


 兄は口をとがらせると、俺の盃をひょいと取り上げ、白湯をひと口すすった。顔じゅうの皺が、真ん中に寄った。


「まずい。味がせん。小一郎、おぬし、こんなものを毎日飲んでおるのか」


「今日からでございます。兄者も、朝に一杯やってみなされ。酒の翌朝の腹が、ずいぶん違います」


「わしの腹は、酒で動いておるのじゃ」


 兄は盃を俺に突き返すと、家康のほうへ身を乗り出した。


「徳川殿。こやつは昔から、こうなのじゃ。わしが右と言えば、黙ってついてくる。そのくせ、たまに妙なところで頑固になる。尾張の田んぼで、わしが近道しようと言うたら、畦が崩れるから回り道じゃと、一刻も言い張った」


「その近道で、兄者は田んぼに落ちたではありませぬか。泥まみれで帰って、母者に叱られたのは、なぜかそれがしのほうでした」


「落ちとらん。あれは、わざと入ったのじゃ」


 秀長の記憶が、勝手に口を動かしていた。家康の家臣のひとりが、こらえきれずに吹き出し、あわてて咳でごまかした。兄が笑い、広間の空気が、やっと緩んだ。


 俺は白湯の盃を両手で持ったまま、家康に小さく頭を下げた。家康は、知らん顔で漬物をかじっていた。会って数刻の男に、借りができてしまった。


 兄は、上機嫌で酒を飲んだ。家康の家臣にまで盃を回し、尾張の田舎の話をして、ひとりで大笑いした。俺は、その横顔を見ていた。よく笑う。よくしゃべる。だが、盃を持つ指先が、ときどき細かく震えている。額には、酒のせいだけではない汗が浮いていた。こめかみの血の管も、うっすらと浮いている。夢の中の兄も、同じところに、同じ管を浮かせていた。あのときは、もっと太かった。今は、まだ細い。


 やがて兄は盃を置き、家康の手を、両手で包むように握った。


「徳川殿。明日のことじゃが、大坂の城で、皆の前でわしに頭を下げてくだされ」


 家康の顔から、表情が消えた。兄は、握った手に力を込めた。


「わしはな、徳川殿。尾張の百姓の倅じゃ。いまは関白などと呼ばれておるが、腹の中では、誰もがそう思うておる。大名どもは、わしが怖いから従っておるだけよ。じゃが、小牧で、このわしと互角に戦うた徳川殿が頭を下げれば、話は違う。誰も、もう何も言えぬ。どうか、わしの顔を立ててくだされ」


 天下人が、昨日まで敵だった男に、頭を下げて頼んでいた。家康の家臣たちが、息をのんでいる。高虎までが、口を半開きにしていた。


 俺だけは、兄の手を見ていた。家康の手を握るその甲に、血の管が浮いている。震えは、さっきよりはっきりしていた。


 この言葉を、俺は前にも聞いている。夢の中の聚楽第で、門に落書を貼られた夜だった。兄は灯りを一つだけともした部屋で、天下を取っても、まだ笑われるのが怖いと言った。あれは、二年あまり先の話のはずだった。兄の怖さは、もうこの頃から腹の底にあったことになる。その怖さが、この先、兄に何をさせるのか。俺は、年表で知っている。


 家康は、長いこと黙っていた。それから、兄の手を、ゆっくりと握り返した。


「・・・承知いたした。明日は、殿下の御前で、誰よりも深く頭を下げてお目にかけましょう」


「おお、まことか」


 兄の顔が、くしゃくしゃになった。


「さすがは徳川殿じゃ。小一郎、聞いたか。今宵はめでたい。もう一杯じゃ」


「兄者。もう夜も更けております。明日の対面で殿下が赤い顔をしておられては、徳川殿の頭の下げがいがございませぬ」


「なんじゃ、今宵のおぬしは、ずいぶんと口うるさいのう」


 兄は文句を言いながらも、案外素直に腰を上げた。廊下に出たところで振り返り、俺の顔を、じっと見た。


「・・・小一郎。おぬし、少し顔がむくんでおるぞ。早う寝よ」


「兄者こそ。手が、震えておりました」


 兄は、一瞬だけ目を丸くした。それから自分の手を見て、ひらひらと振ってみせた。


「酒のせいじゃ。おぬしが白湯なんぞ飲んでおるから、調子が狂うたわ」


 それだけ言って、兄は笑いながら帰っていった。供の者たちが、提灯を揺らしながら、あわててそのあとを追った。


 ◇


 家臣たちが下がり、行灯の明かりの下に、俺と家康だけが残った。


「先ほどは、助かりました。徳川殿が口を開かれなければ、高虎が、それがしの代わりに盃を飲み干しておりました。あの男は、足の親指を痛めておるのです」


「ほう。親指」


「酒と、脂の多いものの食べすぎです。夜中に、風が当たっても痛むほどに腫れます」


 家康は、自分の足の指にちらりと目を落とした。それから、何事もなかったように言った。


「なんの。白湯の仲間を、見殺しにはできませぬ」


 家康は懐から、さっきの印籠を出して、俺の前に置いた。


「これは、まことに旅の疲れに効く薬でござる。酒とは、別に喧嘩などいたしませぬが」


 俺は、思わず笑った。家康も、少しだけ口の端を上げた。


「代わりと申しては何でござるが、羽柴殿。先ほどの、昆布と干し椎茸の出汁。分量を、書き付けにしていただけませぬか。明日、首が飛ぶやもしれませぬゆえ、今のうちに」


 冗談なのか本気なのか、細い目からは読み取れなかった。俺は文机から紙を取り、出汁の取り方を書いてやった。昆布はひと晩水につける。椎茸は日に干したものを使う。塩は、最後にひとつまみだけ。


 家康はそれを押しいただくように受け取り、一行ずつ声に出して読んだ。


 紙を四つにたたみながら、家康が言った。


「羽柴殿。関白殿下は、あのように、人の手を握って頼みごとをなさるお方か」


「昔から、そうです。尾張の村にいた頃から、兄は頼みごとをするとき、必ず相手の手を握りました。米を借りるときも、喧嘩の仲裁を頼むときも。うんと言うまで、その手を離さぬのです」


「それは、断れませぬな」


 家康は、たたんだ紙を懐にしまうと、自分の右手を開いて、しばらく見ていた。兄に握られていた手だ。


「天下人の手が、あれほど震えておるのを、初めて見ました」


 この男も、見ていた。


「されど、その手の横で、盃を覆う弟御がおられる」


 家康は、俺の目をまっすぐに見た。


「羽柴は、貴殿がおられるうちは、崩れますまいな」


 俺は、何も答えられなかった。


 家康は小さく頭を下げ、寝所へ下がっていった。

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