家康上洛(上) 目が覚めたら、自分が死ぬ四年前でした
この第1話から、短編を読んでいない方にもお楽しみいただけます。
短編「内科医が豊臣秀長に転生したので、酒を断って長生きします」の連載版です。
◇
夢の中で、俺は走っていた。
金色の屋敷の庭だった。夜明けの空の下、侍たちがぞろぞろと後ろについてくる。先頭を行く小柄な男が、振り返って笑った。
「小一郎、遅いぞ」
隣で、大男が足をかばいながら言う。
「殿、遅れておりますぞ」
塩は減らした。酒も断った。毎朝歩いた。なのに、胸の奥が、きゅっと縮んだ。足が止まり、地面が近づいてくる。誰かが、俺を呼んでいた。
一五八六年 初冬 摂津 大坂
「・・・殿。殿」
目を開けると、黒ずんだ梁が見えた。枕元で、若い侍が心配そうに俺をのぞき込んでいる。障子の向こうは、もう昼の明るさだった。
「ひどくうなされておいででした。お水をお持ちいたしましょうか」
「・・・白湯にしてくれ」
自分の口から出た声に、自分で驚いた。低くて、少しかすれた声だ。前の世の俺の声ではない。なのに、耳が聞き慣れている。
侍が下がると、俺は布団の上で両手を広げてみた。節くれだった、若くはない男の手だった。この手にも、見覚えがあった。夢の中で、毎朝この手で脛を押していた気がする。
俺の名前は、橘恭介。内科医だ。当直明けの外来で、椅子から立ち上がった拍子に、床が急に近づいてきた。そこまでは、はっきり覚えている。
それなのに、頭の奥から、知らないはずの記憶がにじみ出してくる。尾張の田んぼ。泥だらけの兄の背中。小一郎、小一郎と呼ぶ声。兄が槍を担いで村を出ていった朝。初めて自分の城をもらった日の、畳の匂い。大和、紀伊、和泉を預かり、兄の名代として、気の荒い大名たちのあいだを走り回ってきた日々。関白・羽柴秀吉のただひとりの弟、羽柴秀長が覚えていることが、勝手に、次から次へと流れ込んでくる。
侍が白湯を運んできた。今が何年かを訊くと、侍は妙な顔をしたが、年号と干支で答えてくれた。
頭の中で、西暦に直す。
1586年。
白湯を吹きそうになった。子どもの頃から、歴史の本ばかり読んで育った。この年が何の年かは、すぐに分かる。障子の隙間から入る風は、もう冬の冷たさだった。
夢の中の金色の屋敷は、聚楽第だった。俺はあの庭を知っている。夜明けに兄と歩き、高虎に遅いと言われた。塩を半分にした汁の味も、酒を断った宴の居心地の悪さも、まだ舌と腹に残っている。あの夢の中の兄は、生まれてくる子の話ばかりしていた。
今の聚楽第は、まだ建ってもいない。
「・・・ただの夢だ」
声に出して言ってから、布団の中で脛を親指で押してみた。夢の中で、毎朝そうしていたように。押した跡が、すぐには戻らない。夢の中であれだけ歩いて浅くした跡が、また残っている。ただ、夢の中の最初の朝ほど深くはなかった。
それに、夢の中の俺が目を覚ましたのは、聚楽第が建ったあとだった。今は、それより二年ほど前になる。
「振り出し。いや、振り出しより前か」
文机に帳面があった。夢の中でも、この帳面に同じ年表を書いた気がする。思い出せるかぎりを書きつけようとして、俺は筆を持ったまま固まった。夢の中で覚えたはずの筆の運びを、手がまるで覚えていない。結局、前の世の字で書くことにした。この時代の者には読めない。それでいい。一行目を書くまでに、墨が三度、紙に垂れた。
1591年、冬。秀長、病死。
筆が止まった。夢の中で、聚楽第の庭に倒れた朝も、この冬だった。指を折って、残りを数えた。四年と、少し。前より、二年ほど長い。
塩を減らし、酒を断ち、毎朝歩いた。それでも倒れた。
「あれだけやっても、足りなかったのか」
つぶやいたところで、障子が開いた。
「殿、お目覚めで。何が、足りませぬので」
「・・・こちらの話だ」
大柄な男が入ってきた。日に焼けた顔に、刀傷がいくつも走っている。藤堂高虎。秀長の家臣だ。部屋を横切るとき、高虎は右足を少しかばった。
俺は、その足から目が離せなくなった。夢の中の大男も、たしか、こんなふうに足をかばっていた。
「殿、いかがなされました。それがしの足に、何か」
「・・・いや。高虎、その足の親指。夜中に、急に痛むことはないか」
高虎が、ぎょっとした顔で立ち止まった。
「なぜ、それを」
「付け根が赤いだろう。歩き方で分かる。酒と、脂の多いものは、しばらく控えろ。放っておくと、何度でもぶり返すぞ」
「・・・殿は、いつから医者になられたので」
「今朝からだ」
高虎は、主君の顔をしばらく見つめていたが、やがて、気味が悪そうに足を引っ込めた。
「左様で。では、そろそろお支度を。今宵は、徳川殿がお泊まりになりますゆえ」
「・・・は」
高虎は、主君が寝ぼけていると思ったらしい。噛んで含めるように言った。
「徳川殿が、ついに上洛なさいます。関白殿下のお指図で、宿所はこの屋敷。昨日、殿ご自身が、膳の品書きを三度も書き直しておられたではございませぬか」
思い出した。いや、俺より先に、秀長の頭が思い出していた。小牧・長久手で兄と戦った家康は、いつまでたっても頭を下げに来なかった。兄は妹を嫁がせ、ついには母まで岡崎へ送った。そこまでされて、ようやく腰を上げた男が、今夜ここに泊まる。
歴史の本では、たった一行の出来事だ。その一行のど真ん中に、俺はいる。
台所をのぞくと、料理番が鯛を山のように並べて、塩をひと掴みずつ振っていた。
「待て。その塩、半分にしろ」
「は。半分、でございますか。徳川様のお膳を」
「・・・いや、いい。今日はいい。忘れてくれ」
料理番は、主君の顔をまじまじと見た。俺は咳払いをして、台所を出た。危ない。初対面の大名の膳を勝手に減塩したら、それこそ戦になる。
廊下に出ると、高虎が腕を組んで待っていた。
「殿。台所で、何をなさっておいでで」
「塩の量を、見ていた」
「塩の量」
「天下の大事だ」
高虎は、何か言いかけてやめた。
◇
徳川家康が着いたのは、日が暮れてからだった。
丸い体つきの男だった。目が細く、何を考えているのか顔からは読めない。家臣たちの顔は、どれも硬かった。主君を敵地に送り出す顔だ。無理もない。ここで兄の気が変われば、家康は生きて国へ帰れない。
膳を前にしても、家康はほとんど箸をつけなかった。酒も、唇を湿らせる程度だ。俺はというと、自分の盃に、こっそり白湯を入れさせていた。家康の細い目が、それを見つけた。
「羽柴殿は、白湯を召されるか」
「腹にやさしいので」
広間の空気が、少し変わった。家康が、ほんのわずかに身を乗り出していた。
「・・・実は、拙者も、酒より白湯のほうが好みでござってな」
家康は懐から印籠を取り出した。蓋を開けると、ふわりと薬草の匂いがした。
「これは、拙者が自ら調合した薬でござる。旅の疲れには、これがいちばん」
「ご自分で、調合を」
「薬研は、いつも持ち歩いております」
家康の家臣たちが、あ、という顔をした。また始まった、という顔だった。
そこから先は、止まらなかった。麦飯がよいか、白米がよいか。塩は控えるべきか。冷えは足から来るか、腹から来るか。家康は鷹狩でよく歩くのが長生きの秘訣だと言い、俺は朝に歩くのがいいと言い返した。家康が生姜を推し、俺は出汁を推した。給仕の小姓が、二人の膳のあいだで、銚子を持ったまま行き場をなくしていた。
「羽柴殿。塩を減らすと、汁が物足りなくはござらぬか」
「昆布と干し椎茸で、出汁を濃くするのです」
「なんと」
家康が、初めて本気の顔になった。
広間の隅では、高虎と徳川の家臣が顔を見合わせていた。今宵は天下の行く末を決める夜のはずだった。それが、主君どうしで汁の塩加減の話をしている。
「殿が、徳川殿と養生の話で意気投合しておられる・・・」
高虎の小声のぼやきに、徳川の家臣が、深くうなずいていた。
俺は、家康の顔色を見ていた。内科医の癖で、つい見てしまう。顔色は悪くない。目の濁りもない。腹は少し出ているが、この時代なら上出来だろう。この男は、兄より、秀長より、ずっと長く生きる。
白湯をすすりながら、妙な悔しさがこみ上げてきた。
門のほうが、にわかに騒がしくなった。廊下を駆けてくる足音。障子の外で、取次の侍が、裏返った声を上げた。
「申し上げます。関白殿下、お成りにございます」
広間が凍りついた。家康の手から、印籠がころりと落ちた。
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