16杯目 鏡越しの君を見るたび怖くなる
ミルティさんの背中が、扉の向こうへ消えていく。
誰も、動けなかった。
シモン・バーには、重たい沈黙だけが残っていた。
「……ウメワリィ?」
その静寂を破ったのは、しんゆーが私を呼ぶ声でした。
その声でようやく、私が無意識のうちに一歩前へ、シモン店長の方に向かっていたことに気が付いたのです。
「……なんですか、今の」
喉から出てしまったのは、震える声で。
ああ。
しんゆーの前で、こんな気持ちは出したくなかった。
「この子をお願いします、って」
だってこんなの可愛くない。
怒りに任せて、感情を垂れ流しにしてしまうなんてするべきじゃない。
好きな人の前で、みっともなく取り乱して。
そんな女の子には、なりたくなかった。
でも。
「ミルティさんは、貴女がいたから頑張れたんですよ、貴女が、貴女がいたから……!」
「……それは、分かっているつもりよ」
「分かっているのなら、なんで……!」
それでも、止められなかった。
「背中を押したって、逃げ出しただけじゃないですか……!」
「ウメワリィ」
しんゆーが、静かに私の名前を読んだ。
そっと眼前に手を置いて、止めようとしてくれているのがわかる。
優しい彼のことだ、きっとミルティさんの辛さも、シモン店長の辛さも両方理解して、身動きが取れなくなっているのだろう。
でも、それでも。
私は、私だけは。
彼女に、言わなくてはならない。
「止めないでください、しんゆー」
私はシモン店長を見据えた。
「今これを彼女に言えるのは、多分、私だけですから」
シモン店長の表情が、かすかに揺れる。
いつもの柔らかな笑みは、もうどこにもなかった。
「貴女の気持ちが、誰よりも、痛いほどに分かります」
そう、だって。
「6年。私も、大好きな人に近づくために、それだけかかりましたから」
口にするには短くて、過ごすには長すぎた時間。
十代の青春ってやつはとっても貴重なものらしくて。
それを投げうって、私はここに立っている。
それだけのものを支払わなければ、ここに立つことが出来なかった。
「私、戦ったりダンジョンを探検したり、本当に向いてないんですよ」
「ウメちゃんさん……」
「身体は小さい。魔力も、体力も、生まれつきそんなに良い方じゃない。不器用だし、根性もありません。痛いのも、怖いのだって嫌いです。確かに多少パソコンが得意だったり卑怯なことを考えるのは得意ですが、それだけです」
自分で言ってて笑いそうになる。
日頃の行いが悪いから、なんでも簡単に出来てしまう頭のおかしい奴だなんて思われることが多い私だけど、実際は小さなことでくよくよ悩んだり、大したことない事で傷付いてしまうひとりの人間なのだ。
「知ってますか? 望んだ我執顕現を手に入れる方法」
薄々察していたのか、きんぎょちゃんが息を吞む音が聞こえるが構わず続ける。
「一年間、欲しい能力のことだけを考え続けるんです。何をしていても。何を食べていても。眠る前も、起きた直後も、ずっと」
思い出す。
あの一年を。
頭の中を、たったひとつの願いで塗り潰していた時間を。
「そのあと、三日三晩、飲まず食わずでダンジョンへ潜る。絶対に勝てない敵の前へ、のこのこと向かう。そして、その能力がなければ死ぬしかない状況を作るんです」
私は笑った。
きっと、ひどい顔だった。
「そこで我執顕現が発現すれば、生きて帰れる。発現しなければ、そのまま死ぬ。案外シンプルでしょう?」
《穿て、蒼穹の檻》。
私が手に入れた力。
しんゆーの《叡智に乗りて歩むもの》に足りない、超火力と汎用性を補うための力。
結果だけ見れば、大成功だった。
あの程度のことで手に入るなら、安い労力だったと言える。
でも。
「正直に言います。何回も折れそうになりました」
恋する女の子って、ぜんぜん無敵じゃない。
「無理だって思いました。私は隣に立つ器じゃない。遠くから応援する側でいいんじゃないかって。ひとりのリスナーとして、画面の向こうからしんゆーを応援するだけでも、ちゃんと力になれるんじゃないかって」
それはきっと、間違いではない。
応援には意味がある。
コメントにも、再生数にも、投げられる魔力にも、ちゃんと価値がある。
しんゆーだって、それに救われた。
でも。
それでも。
「それをやったら、あの人は独りになるんです」
声が震えた。
みっともない。
それでも、言う。
「しんゆーは優しいから。真面目だから。独りでも走りますよ。誰にも心配をかけない顔をして、痛くないふりをして、怖くないふりをして、自分ひとりが苦しめばいいって顔で、どこまでも走っていくんです」
きっと、そういう未来もあった。
しんゆーがどこかで萎れてしまうまで配信を続ける。
私は画面越しにそれを眺める。
ふたりとも、そこそこの場所で、そこそこの妥協と一緒に、そこそこの生活を手に入れる。
そんな未来。
そんなもの。
「そんなの、嫌だった」
嫌だったのだ。
どうしようもなく。
「しんゆーに、支えてくれる人がいるって気づかせるには、隣に立つ必要があった。画面の向こうじゃ駄目だった。ちゃんと隣で、泥をかぶって、血を流して、一緒に笑う必要があったんです」
好きだから。
どうしようもなく、好きになってしまったから。
「私が役に立たなくても、弱くても、みっともなくても、泥まみれでも、吐いても、泣いても、あの人の隣にしがみついてやるって決めたんです。あの人を独りにしないって、決めたんです」
だから。
「シモンさん」
私は、まっすぐ彼女を見る。
「貴女は、最後の最後で折れたんです」
その言葉は、刃物みたいだった。
彼女を傷つけると分かっていて。
それでも、投げつけた。
「一緒に走れない自分を許せなくて。ミルティさんの隣に立てない自分を許せなくて。だから『背中を押す』って言葉で、自分を許そうとしたんです」
「……っ」
「分かりますよ。分かります。分かるからこそ、許せないんです」
だって。
「貴女を許したら」
息が詰まる。
「いつか私も、自分を許してしまう」
シモン店長の瞳が、大きく揺れた。
「しんゆーを置いていくことを。しんゆーのためだって言いながら、あの人の隣から逃げることを。私は頑張った。私は仕方なかった。そうやって、自分に言い訳することを」
奥歯を噛みしめる。
こんな未来は、見たくなかった。
「そんな未来、見せないでくださいよ」
情けない声だった。
「怖いんですよ」
言ってしまった。
「貴女を見てると、怖いんです。私もいつか、同じことをするんじゃないかって。しんゆーの隣に立つのが苦しくなって、あの人の背中を見るのがつらくなって、私はもうここでいいって笑って、手を離すんじゃないかって」
沈黙が落ちた。
シモン・バーの照明が、やけに滲んで見える。
「……じゃあ」
シモン店長が、かすれた声を出した。
「私は、どうすればよかったの」
その声は、あまりにも弱かった。
「私はもう、ミルティと同じ速度では走れない。あの子の隣に立てない。だったら……どうすればよかったのよ」
それは、大人になってしまった少女の、悲痛な叫びだった。
だから、私は答える。
同じ夢を見て。
同じ弱さを抱えて。
それでも未だに子供でいようとする、私が。
「ちゃんと、ミルティさんの目を見て謝るべきだったんです」
シモン店長が、押し黙る。
「ダサいところも、汚いところも、逃げたところも、羨ましかったところも、苦しかったところも、全部さらけ出して。貴女と一緒に走れなくてごめんって、ちゃんと言うべきだった」
綺麗な答えなんて知らない。
正しい答えなんて、分からない。
それでも。
「ミルティさんが本当に欲しかったのは、頂点に立つ栄光なんかじゃない」
あの人が本当に欲しかったものは。
「貴女だったんです、シモン店長」
まっすぐすぎる言葉は、凶器だった。
それでも、振り下ろす。
「貴女は、ミルティさんにとって自分がどれだけ大事な人だったのか、認める必要があったんです」
シモン店長の顔が、くしゃりと歪む。
後悔が、雫となって瞳から零れ落ちた。
「そんなの……分かってるわ」
とても小さな声だった。
「分かってるのよ、そんなこと……」
彼女はカウンターに手をついて、俯いた。
「でも、私じゃもう駄目なのよ……私じゃ、あの子を飛ばせないのよ……」
「飛ばせなくてもいいじゃないですか」
即座に言った。
「駄目だった時に一緒に笑って、お酒でも飲んで、また明日から別のことを頑張ろうって笑い合うべきで、貴女の大好きだったお酒はそのためにあるんじゃないんですか」
シモン店長が、ゆっくり顔を上げる。
「シモンさん。貴女、ミルティさんのことをお姫様か何かだと思ってませんか?」
「……」
「違いますよ。あの人、普通に面倒くさい女ですよ」
シモン店長が、泣きそうな顔のまま、わずかに目を丸くした。
「強くて、綺麗で、かっこよくて。でも、めちゃくちゃ面倒くさい。拗ねるし、嫉妬するし、傷つくし、捨てられたら泣くし、好きな人に手を離されたら普通に壊れる、ただの女の子ですよ」
だから。
「勝手に、綺麗な場所へ送り出そうとしないでください」
私は、言う。
「あの人は、貴女と喧嘩したかったんです。貴女に怒りたかったんです。貴女と一緒に、ぐちゃぐちゃになりたかったんです」
シモン店長は、声を出さずに泣いていた。
それを見て、少しだけ胸が痛む。
言いすぎたかもしれない。
でも、言わなければならなかった。
たぶん、私が言わなければならなかった。
「……行きますよ」
私は、しんゆーの方を見る。
「ミルティさんを止めに」
「ああ」
しんゆーは、短く頷いた。
その顔は、もう迷っていなかった。
私は最後に、もう一度だけシモン店長を見る。
「シモンさん」
「……なに?」
「ミルティさんが戻ってきたら」
ほんの少しだけ、声を柔らかくする。
「ちゃんと、怒られてください」
シモン店長は、泣きながら笑った。
「……痛いのは、嫌なんだけどなぁ」
「知りません。自業自得です」
「ふふ……そうね」
それは、いつものシモン店長の笑い方に、ほんの少しだけ似ていた。
私たちは、バーの扉へ向かう。
外には、アレナダンジョンへ続く夜が広がっている。
怖い。
ミルティさんが怖い。
だって配信者ランキング10位で、近接最強で、意味わからないくらい強くて、勝てる気なんて微塵もしない。
未来の自分が怖い。
嫌なことから逃げ出して、目と耳をつぶってしまうんじゃないかと思うと胃に重いものが落ちる。
しんゆーの隣に立ち続けられるのか、今でも怖い。
恋する女の子は無敵なんかじゃなくて、ちっぽけな勇気だけを握りしめて立っているだけだから。
でも。
怖いからって、手を離していい理由にはならない。
「行きましょう、しんゆー」
私は笑う。
いつものように。
たぶん少しだけ、無理をして。
「逃げようとしている面倒くさい友達を、ぶん殴って連れ戻しに」
◆
それから、わずかな時が経って。
「行っちゃいましたね、兄さんたち」
カウンターに肘をついて、スマホを見つめながら、ぽつりと呟く。
配信画面の向こうには、暗いダンジョンを進む兄の背中と、ぴょこぴょこと跳ねるピンクの髪。
「ええ……少し、羨ましいわ」
グラスを磨きながら、シモンさんが小さく笑った。
今ここにいるのは、追いかけることを選ばなかった者たち。
「絶対に目を逸らさないでくださいね」
「……」
黙ったまま、シモンさんはカウンターの下で手を組む。爪が食い込むほどに強く握られたその拳を、気が付かなかったふりをする。
「それが、送り出した人の責任ですから」
氷が溶ける音だけが静かに響いた。
シモンさんはグラスに水を注ぎながら、かすかに笑う。
「ええ。責任……ね。せめて、ちゃんと見届けないと」
そのまま2人は何も言わず、画面を見つめ続けた。
兄と友の歩みを、信じているから。
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