03
「あの日のこと、ずっと考えてた」
声が出たのは、自分でも気づかないうちだった。
「一緒に行ってれば良かった」
波の音しか、耳に届かない。
「お前が死ななかったかもしれない」
言葉にしたのは、初めてだった。
誰かに言うつもりはなかった。墓の前でも、言えなかった。でも今、口から出ていた。布の向こうに向かって。
「うん」
澪の声が、静かに言った。
「変わってたかもしれないね」
その一言に、息を飲んだ。
俺は澪からの否定を、待っていたのかもしれない。そんなことない、とか、海斗のせいじゃない、とか。そういう言葉が来ると思っていた。澪なら、そう言うかと思っていた。
でも、澪は否定しなかった。
「変わってたかもしれない」と、ただ口にした。
それがーー優しい否定より、ずっと深く刺さる。
「海斗なら、助けられたかも」
波が、膝まで来ていた。
いつの間に。足首だったはずなのに。後退しようとして、足が動かなかった。砂に吸われているみたいに。
「……澪」
「私、本当は怖かったんだよね」
声が、少し揺れた。
初めて聞く揺れ方だった。記憶の中の澪は、怖いと言うとき決まって笑ってごまかした。でもこの声は、ごまかしていない。剥き出しで、怖かった、と言っている。
「一人で、怖かった」
「……」
「来てほしかった」
胸の奥で、何かが砕けた。
来てほしかった。
その言葉が、一年分の後悔に火をつけた。あの日の重さ。用がある、と送った自分。わかったとだけ来た画面。
「ごめん」
声が、掠れた。
「ごめん、澪」
「謝らなくていいよ」
澪の声は、穏やかだった。
責めない。怒らない。ただ、穏やかに。
「海斗、ずっと苦しかったでしょ」
それがーー何より一番、怖かった。
責められる方が良かった。怒鳴られる方が良かった。なぜ来なかった、と詰られる方が、まだ耐えられた。
でもこの声は、全部分かった上で、苦しかったね、と言う。
……だからこそ、離れられない。
「提灯」
誰かが、遠くで言った気がした。
振り返れない。案内役は振り返れない。でも気配で分かる——後ろが、此岸が、遠い。さっきまで感じていた生者たちの気配が、霞みはじめている。
提灯の灯りが、減っている。橙色の光が、一つ、また一つ。
砂浜が暗くなっていく。
「海斗」
澪の声が、近くなった。
「私のこと、好きだったよね」
「……ああ」
「今も?」
答えるな、と思った。……でも。
「今も」
「じゃあ」
波の音が、声に溶けた。
「会いに来てよ」
気がつけば、足が前に出ていた。
一歩。砂の感触が変わった。岩だ。波に濡れた、冷たい岩。洞窟の入り口。黄泉路の縁。
駄目だ。
頭の中で叫ぶ声がある。でも遠い。澪の声の方が、ずっと近い。
「来てほしかった」
もう一歩。
「怖かった」
もう一歩。
「助けてほしかった」
手が、動いていた。
澪がそれを望むなら……。そうすることで、また澪と一緒にいれるなら。
顔の布に、触れていた。
指先が布の端を掴んだ瞬間——
「駄目っ!!」
声が、変わった。
さっきまでと、全然違う声だった。穏やかじゃない。静かじゃない。剥き出しで、焦って、震えていてーー
それは、間違いなく澪の声だった。
「取らないで、海斗っ」
布を掴む手に、何かが触れた。
冷たい。体温がない。でも確かに、触れている。
「お願い、取らないで」
「……澪」
「駄目なの、見たら、海斗が」
声が、詰まった。
「海斗が来ちゃう、こっちに」
波が、引いていく。
さっきまで膝まであったのに、足首まで退いている。まるで息を吐くような速度で。
「お前は」
俺は布を掴んだまま、動けなかった。
「さっきまで、俺を引き込もうとしてたんじゃないのか」
沈黙。
波だけが、一つ、返ってきた。
「……うん」
声が、小さかった。
「してた」
「それでも」
「……私ね、海斗と一緒にバカみたいに笑ってる時が好きだった」
布を掴む手から、力が抜けていく。
「……でも今こっちに来たら、海斗の笑顔、見れなくなっちゃうんだよ」
布の向こうの澪の顔は見えない。
でもきっと……、俺が知っている、どこか困った顔をしているのだろう。
「海斗が私と一緒にいるために、そうしようとしてくれただけで十分だよ」
とても穏やかで、優しい、いつもの澪の声でそう言った。
「馬鹿だよ、お前は」
「うん」
「死んでからも、馬鹿だ」
「うん」
波の音が、戻ってきた。潮騒が、二人の間を満たしていく。
東の空が、ほんの少しだけ、白み始めていた。




