02
「海斗が案内役だとは思わなかったな」
その声は、記憶の中と同じだった。少しだけ低くて、語尾が丸い。笑うと少し鼻に抜けるような、あの声。
見えなくてもわかる。澪は今、困ったように笑ってる。
「ねぇ、海斗。覚えてる? 中学の頃、二人で夜のこの砂浜に来たこと」
一年前までと同じように、澪が話し出す。
澪の言う、その日のことは俺も覚えてる。
夏休みの終わり、夜中に家から抜け出して、この浜辺で二人並んで花火に火をつけた。抜け出したのが親に見つかって、帰宅後二人並んで正座させられた。澪は俺の隣で、ずっと笑いを堪えていた。肩が小刻みに揺れていて、それを見て俺も笑いそうになって、でも笑ったら絶対に長くなると思って必死に堪えた。
「覚えてる」
「あの夜、私が泣いたの海斗しか知らないよね」
そうだ。花火が終わった後、澪は急に泣き出した。
理由を聞いても「夏休みが終わっちゃうから」と言い張って、でも泣き止むまでずっとそばにいた。
波の音だけが、二人の間を埋めていた。
「……うん」
姿は見えなくても、これは澪だ。
そう思った。……そう、思いたかった。
「あのとき泣いてたのはね」
声が続く。
「夏が終わるのが、嫌だったんじゃなくて」
波の音が、一瞬大きくなった。
「……いつか、海斗と一緒に花火ができなくなる日が来たらどうしよう、って……。あの時がすごく楽しかったら、起こってもいないことに不安になっちゃったんだ」
俺は黙って頷いた。先を促すように。
「怖かったんだよね。高校はきっと別々になるだろうし……。あの日のあの時間が、もう無くなるかもって思ったら……」
潮騒が、声に滲んだ。
首の後ろが冷えるのを感じた。怖かった、という言葉の温度が、少しだけ低い。怖い、ではなく、怖かった。過去形。まるで、もう怖くない場所から振り返るように。
でもーーそれは、死んだ人間なら当然かもしれない。
そう、思い直した。
「……澪は、今は怖くないの?」
聞いてから、しまったと思った。
案内役は問いかけてはいけない。引き込まれるから。でも澪は変わらず、答えてくれた。
「怖いとか、怖くないとか、ここからだとよく分からないんだ」
波が一つ。足の間を通り抜ける。
「でも海斗は来てくれるって、分かってたよ」
一年前と変わらないその声に、胸が痛くなった。
「私のために来てくれたんでしょ」
「……そうじゃないと言ったら、嘘になる」
「正直だね」
澪は、少し笑ったような気がした。鼻に抜けるような、あの笑い方。
見えなくて、やっぱり澪だ。
「あの日さ」
声が、静かになった。
「私がどこに行こうとしてたか、海斗は知らないよね」
「……知らない」
「教えてあげようか」
波の音が、また混ざった。
今度は、長かった。声と波の境目が分からなくなるくらい、長く。
「……澪」
「ごめん、ここにいるよ」
声が戻る。
でも少しだけ、遠い。
さっきまで布一枚の距離にあった気配が、半歩分、向こうに退いたような気がした。
「海斗ってさ、最初は一緒に来ようとしてくれたでしょ?」
足に感じる海水が、一段と冷えてきたような気がした。
「うん。でも俺は行かないって言った」
「うん」
「用があるから、って」
「うん」
「……けど本当は」
声が、波に溶けかける。
「本当は、なんとなく……気が重いっていうか……嫌な予感がして」
誰にも言ったことがなかった。
あの日、澪が一緒に出かけようと言ったとき、なんとなく、胸の底が重くなった。理由はなかった。ただの感覚。
だけど嫌な予感がするから行かないなんて言えるわけもなく、用があると当たり障りのないことを言っていた。
「知ってた」
澪の声が言った。
「え」
「海斗が何を感じたか、知ってたよ」
冷たいものが、背筋を走った。
それは、言っていない。誰にも、言っていない。あの日のことは、母さんにも、葬式で会った澪の両親にも、一度も話したことがない。
「どうして」
「ここからだと、見えるから」
波が、足を包んだ。
くるぶしまで。じわじわと、均等に。
「今も、過去も、未来も見えるの。だから海斗が後悔してるの、分かるよ。ずっとここで見てたから」
ここで見てた。
その言葉が、頭の中で反響する。
本物の澪なら、知るはずがない。でも、知っている。
あの日一緒に行かなかった俺の後悔を知っている。あの日の感覚を知っている。
それは俺以外で澪にしか分からないはずのことで、でも本来澪が知るはずのないことで。
「澪」
「うん」
「お前は本当に、澪なのか?」
沈黙。
波だけが、規則正しく返ってくる。
俺には確認する方法がない。
布を取れば分かる。顔を見れば、澪かどうか分かる。
でも布を取った瞬間、俺は″何か″を見る。見たら最後、此岸に戻れない。案内役が黄泉路に落ちれば、夜明け前に蓋ができない。俺の後ろに並ぶ生者たちが、全員道連れになる。
分かってる。
分かってて、それでも手が、動きそうになる。
「……澪」
返事はなかった。
でも気配は、まだそこにある。波の音に溶け込むように、ただそこにある。
それが余計に、怖かった。
本物の澪なら、こんな黙り方はしない。
でも本物でないならーーこれは誰で、どうしてこんなに、澪の匂いがするんだ。
潮と、日向と、少しだけ甘い。十八年間隣にいた人間の匂い。
夜明けまで、あとどれくらいだろうか。
足元の水が、また深くなった。




