04
ーー死者が還ってくる、特別な一夜が終わろうとしている。
東の空が、ほんのり白み始めていた。
水平線の端も、ほんの少し滲んでいる。まだ夜だ。でも、もう長くない。
「……ねぇ、海斗」
澪の声が、ふと揺れた。
「うん」
「私、本当はまだ帰りたくない」
俺は息を止めた。
さっきまであれほど必死に「取らないで」と言っていた声が、今は「帰りたくない」と言っている。
矛盾している。矛盾しているのにーー分かってしまう。
そういう奴だった。澪は。
人を心配しながら、自分も寂しがる。突き放しながら、縋る。そのどちらも本当で、どちらも澪だった。
「……俺も」
声にしてから、気づいた。
一年間、誰にも言えなかった言葉が、こんなにあっさり出た。
「……ただ一緒にいるだけで良かったんだけどな」
波が静かに返ってきた。
手がまた動きそうになる。でも布の端に触れた指が、覚えている。さっきの感触を。冷たくて、体温のない、でも確かに触れてきた感触を。
見たい。
顔が見たい。
一年前の夏に止まったままの顔を、もう一度、ちゃんと目に焼き付けたい。
でもーー
俺が布を取れば、彼岸の蓋が開け放たれたまま、死者が溢れ出てくる。
「……澪」
「うん」
「お前が本当に澪かどうか、俺には分からない」
「うん」
「今夜ずっと、分からなかった」
「うん」
否定しない。肯定もしない。ただ、聞いている。
「それでも」
俺は右手を強く握りしめた。
「顔は、見ない」
波が一つ。足元から引いていく。
「見たら今度はお前が、後悔しそうだから」
沈黙の中に、何かが揺れた気がした。笑ったのかもしれない。泣いたのかもしれない。布の向こうは、最後まで分からないままだ。
空が、白くなっていくのが布越しでもわかる。
水平線の滲みが、少しずつ広がっていく。橙になる前の、青でも黒でもない色。
「海斗」
声が、遠くなり始めていた。
「なに」
「……ずっと、笑っていてね。いつか海斗がしわくちゃなおじいちゃんになった時、楽しかったこといっぱい、教えてもらうからね」
胸が、痛かった。
そう言えるのはーーその言葉を最後に選んだのは、やっぱり澪なんじゃないかと思った。思いたかった。
「……ああ」
それだけ、返した。
気配が、薄くなっていく。波に溶けるように。潮騒に混ざるように。じわじわ、じわじわと。
消えていく。
その瞬間、風が来た。
潮の匂いじゃない。
澪が好んで髪につけていた、あの甘い匂い。
一瞬だけ、確かにそこにあってーー
次の波が来たとき、もう、なかった。
来年の送り火の夜が来たとしても、きっともう、澪は還って来ないんだろう。なぜかそんな気がした。
今日が、本当に最後なのだと。
俺は洞窟の入り口に向かって、一歩踏み出した。黄泉路の水が、くるぶしの辺りまできていた。
手を伸ばして、見えない蓋に触れる。
案内役だけが感じられる、此岸と彼岸の境。薄い膜のような、布のようなーー
それを、静かに、閉じた。
東の空が、橙に染まり始める。
俺はしばらく、洞窟の前に立っていた。布を、まだ顔につけたまま。
外すのが怖かったわけじゃない。
ただ、まだ少しだけ。あの甘い匂いが、残っている気がして外せずにいた。




