第三話 開かないはずの扉
ワイバーンは、まだ倒れていない。
「……しぶといな」
ネオは息を吐いた。何度叩き込んでも、削れるのはわずかずつだ。致命打には程遠い。このペースで続けた場合、終わりが見えない。
「これ、普通にやったら一時間コースだな」
軽く笑う。しかしその額にはじわりと汗が滲んでいた。ミスすれば即死。それは変わらない条件だ。
「お、おい……!」
後ろから声がする。さっきのプレイヤーだ。なぜかまだここにいる。
「逃げた方がいいんじゃ……!」
「逃げても追ってくるぞ、あれ。しかも今の状態だと、多分エリア外まで来る」
「え……?」
「完全にバグってる」
ワイバーンが再び突進してくる。ネオは横に転がって避ける。翼の風圧が毛並みをなでていった。
「ったく。倒すしかない、か」
だが――そのときだった。
ふと、違和感が走る。
「……ん?」
ネオの視線が、森の奥へ向く。そこだけ、空気の質感が違う。木々の隙間に、何もないはずの空間がある。しかしその空間だけが――わずかに歪んでいる。揺れている。まるで水面に小石を落としたような、微かな波紋。
「……あー」
ネオは目を細めた。「懐かしいな」
開発初期にテスト用で作られた隠しエリア。本来は外部からアクセスできない領域。あのバグが今も生きているとしたら、まだ残っているはずだ。
ワイバーンが迫る。しかしネオは、逆方向へ走り出した。
「おい!?どこ行くんだよ!」
「寄り道だ!」
ネオはそのまま、歪みの中へ飛び込んだ。
瞬間――視界が切り替わる。
「……ビンゴ」
そこは、小さな空間だった。
白い部屋と表現するしかない。何もない、色も質感もない空間。しかしその中央に――一つの扉があった。古びた、鉄の扉。重たく、閉ざされている。表面には錆が浮き、長い間誰も触れていないことを物語っていた。
「完全にデバッグ用だな」
ネオは近づく。背後で、ワイバーンの咆哮が響く。ここにも入ってこれるらしい。バグの連鎖だ。
「侵入制限も壊れてるか。ほんと終わってるな」
ネオは扉に手をかける。開かない。
「……まあ、そうだよな」
この扉は管理者専用だ。そして今のネオは、管理者ではない。
「さて」
ネオは少しだけ考えた。本来ならコマンドで開ける。だがそれは使えない。
「じゃあ、別のやり方だ」
ワイバーンが白い空間に侵入してくる。距離が縮まる。もう猶予はない。
ネオは扉を見つめた。
「『開ける』ってのは、何だ?」
鍵があるから、開かない。なら――鍵を、開ければいい。「閉じている」というその状態そのものを、ひっくり返せばいい。
その瞬間。視界の奥で、何かが「引っかかった」。見えないはずの領域。ロックされたコマンドの、ほんの端切れ。
「……そこか」
ネオは手を伸ばす。空中へ。何もない場所へ。だが――確かに「ある」。指先に触れる感覚がある。
「開け」
小さく、呟いた。
カチリ、と。音がした気がした。
次の瞬間。
```
【Master Authority Fragment Detected】
【権限:一部解放】
```
ネオの目が見開かれる。
「……は」
扉が、ゆっくりと開いた。軋む音が白い空間に響く。
「マジかよ」
その瞬間――ワイバーンが突っ込んでくる。ネオは振り返る。
「ちょうどいい」
開いた扉の向こうは――真っ暗な穴。奈落のような深さの、何もない暗闇。
「落ちとけ」
ネオはギリギリで横へよける。ワイバーンが制動できずそのまま突っ込み――落ちた。巨大な咆哮が遠ざかり、遠ざかり、やがて音が消えた。
静寂。
「……よし」
ネオは息を吐く。
そのとき。手の中に、何かが残っていることに気づく。いつの間にか、拳の中に収まっている。小さな光。鍵の形をしていた。
```
【マスター魔法:《マスターキー》取得】
あらゆる「ロック」を開閉する
```
ネオはそれを見つめた。手のひらの中で、鍵が静かな光を放っている。
「なるほどね」
口元がゆっくりと歪む。
「取り返せるってわけだ、マスター魔法を」
マスター魔法――それはマスター権限をゲーム内で行使するための、プレイヤーには使えない特殊な力だ。権限を剥奪されても、世界の中に散らばった「かけら」として残っている。
そのとき――ログが、また一行。
```
「それ、いいね」
```
ネオは空を見上げる。白い空間の「上」を。
「……見てるな」
そして、笑った。
「じゃあ次は、もっと派手にいくか」
黒猫は、扉の奥へと足を踏み入れる。壊れた世界の、さらに深くへ。




