6-14
「いったいいつから――通話していないと錯覚していた?」
「――――!?」
――瞬間、ぞわりと全身の毛が逆立つのを感じた。
冥府に迷い込んでしまったのかと思うほど、重く濃厚な瘴気のような風が僕の全身を絡めとる。出所を探って顔を上げると、僕らが入ってきた神殿の入り口前の空間に、ソフィが閉じ込められていたように空間と次元の狭間とでも言うべき穴がぽっかりと口を開けていた。
様々な負の感情が体の内側から僕を縛り付け、まるで身動きが取れなくなってしまう。全身から冷たい汗が噴き出して、ワケも分からず全身が震える。
ゼウスに対して感じていた緊張や恐怖とはまるで違う、遺伝子の奥底に刻み付けられているような、本能的な畏れ。ソレには決して逆らってはならないと、皮膚全体で感じているかのように全身が委縮する。
ゼウスが子供向けのギャグ漫画みたいに鼻水を垂らしながらアワアワと震えている。アルテミス様がよろよろと柱の隅に隠れているのが視界の隅に映っていた。
――したり、と空間から伸びた細く長い脚が白い床を踏んだ。場の緊張など意に介さぬように、それは厳かに神殿内へと姿を現す。
現れたのは、1人の女性。背は決して高くはなく、衣服から覗く手足は細く他の神々と同様に透き通るように肌は白い。長い茶色の髪をひとつに括って背中に流しており、緩やかに閉じられた桜色の唇に、光を吸い込んだような漆黒の瞳。
造形だけを見ればその人は荘厳で美しく、街を歩けばアテナ様同様に誰もが振り向くような美しすぎる容姿をしていた。
けれど、その纏っている雰囲気は明らかに異常だった。何をしているわけでもないのに、大気が黒く澱むような重苦しい空気を孕んでいる。ソフィが全身を強張らせて僕に抱き着いてくるが、今ばかりは幸せを噛みしめていられる余裕は無い。
女性は真っすぐに、他の一切に目をくれることなくゼウスを目指し、近すぎるくらい目の前に立つとそっとその頬を柔らかく包み込んだ。
「探したわ、ゼウス。なかなか帰ってきてくれないから、寂しかったのよ? 会いたかった」
「は、ははは‥‥わ、ワシモダヨー」
ゼウスが脂汗をダラダラと流しながら、張り付いたような笑みを浮かべている。女性はそのままゼウスの胸に顔を埋めて寄り添った。
とても甘い関係に見えるのに、なぜだかそんな甘さを一切感じとることができない。
「ねえ、ところでゼウス。さっきからなんだか――とっても不快な臭いがするわ」
カッ!と瞳が見開かれたかと思うと、視線が真っ直ぐにこちらを、ソフィを捉えた。ソフィがビクリと身を震わせ、女性が静かに歩み寄る。
女性はソフィに顔を近づけ、すん、と鼻を鳴らした。
「半分だけ、ゼウスの匂いが混じっているわ。だけどもう半分は、汚らわしいヒトの臭いがするの。どうしてかしら。とってもとっても、イヤな気分」
間近で見る彼女の瞳は、内に宿る光の色がやけに薄いような気がした。じっとソフィを見つめるその感情を全くといっていいほど感じ取ることが出来ず、全身が硬直して指先を動かすことすら叶わない。
やがて女性はグルリと唐突に首を回すと、再び瞳でゼウスを捕えた。主神たるゼウスが僕と同様、身を硬直させて動けないでいるようだった。
「ねえ、ゼウス。これは誰? どうしてゼウスの匂いが混じっているの? 私、こんなの産んだ覚えはないわよ? どうしてヒトの臭いがするの? ねえゼウス、私になにか隠し事がある? ねえゼウス、どうして眼を見てくれないの? ゼウス? いったい何がどうしてこうなっているのか全部教えて? 誰かに何か酷いことされたの? さっき電話で聞こえたけど、浮気ってなに? 私の聞き間違い? そうよね? 早くあなたの声を聴かせてゼウス? ねえ、ゼウス? どうしたのゼウス? ゼウス? ねえ?」
女性がゼウスににじり寄りながら、凄まじい圧力でひと言ごとにゼウスを追い詰めてゆく。僕とソフィは彼女の瞳から逃れた途端、大量の冷や汗を溢れさせていた。
ふと、アテナ様の手元に転がるスマゴに視線が向く。そこには「ヘラさん」という履歴が表示されていた。
「そ、ヘラさん。あの人が、ゼウスの正妻だよ」
いつの間にか、アルテミス様が僕らの隣に立っていた。まだ少し苦しそうに弓を支えにして立っているが、動ける程度には回復したらしい。
「性格は見ての通り超ド級のヤンデレ。ゼウスと愛し合ってるって信じて疑ってなくて、ゼウスの浮気性がそもそも理解できてないみたい」
「あ、あの、アポロン様の神託って‥‥」
「あたしは直接聞いてないけど、まあ、ゼウスの対抗手段で親しき者って言ったらヘラさん以外思い当たる神なんていないっしょ」
なるほど、神託の意味が分からなかったのは僕の理解力不足ではなく、単なる勉強不足だったようだ。
「ねえゼウス、アレはあなたの子供?」
「‥‥はい、そうです」
「人の子との子供?」
「‥‥はい、そうです」
「どうして? どうしてそんな子供が生まれるの?」
「‥‥‥‥」
「無理やり? ずる賢い人間にハメられたの? ゼウスの意志じゃないわよね?」
「‥‥ハイ、ソウデス」
うわ。アイツ最低かよ。どう考えても嘘じゃねえかよ。
その答えを聞くと、ヘラさんは途端に明るい笑顔を浮かべてゼウスの首に抱き着いた。
「良かった、やっぱりそうなのね! ねえ、ゼウスは私が好きよね?」
「あ、ああ、モチロンさ‥‥」
「私だけが好きよね? 私さえいれば後は何もいらないわよね?」
「あ、ああ、モチロンさ‥‥」
「じゃ、産ませた女を殺しに行きましょう!」
無垢な少女のような笑みを浮かべて、ヘラさんはちょっと買い物行こうくらいのノリでそんなことを言うのだった。
言い方があまりにも自然で、僕は一瞬その言葉の内容を理解できなかった。
驚いて隣を見ると、アルテミス様は「平常運転乙」みたいな顔をしている。
「その前に、アレも殺しちゃいましょうか!」
そして再び唐突に、ニコニコと純真な笑顔を浮かべたヘラさんの白魚のような指が――ソフィを指した。




