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『そっか、ダメだったか』
目の前に姿はないけれど、四角い板越しにその声ははっきりと届けられていた。
とりあえずアルテミス様にも伝えておこうと、ラウィンを使って状況を説明し終えたところである。スマゴは机の上に置かれて、アテナ様も交えて会話できるよう大きな音で声が響いていた。
場所は、アテナ様が指名した少女のお宅。
部屋、ではない。貸し与えてくれたのは、家そのものだった。
彼女ら家族は町にもう一軒ある小さな宿に泊まっているらしい。当然と言っていいのかは分からないが少女の一家は喜んで家を提供してくれて、少女は神に見初められた子として崇められ、宿を無償で貸してもらっているそうだ。
誰も困っていないので何の問題もない、のだが、それでも何となく落ち着かない気分になるのは仕方のない事だろう。ただ、今の僕にはそんなことを気にしていられる余裕は無かった。
隣に座るアテナ様は遠慮などとは無縁に椅子に腰を下ろし、少女の持ってきてくれた食事をやはり遠慮なく口に運んでいる。
僕は食事も喉を通らず重い口調で事の次第を伝えると、アルテミス様の返答もどこかトーンが低いような気がした。
『まあ、ドンマイね。見て分かったと思うけどヘルメスってクソウザいからさ、あたしらン中でもわりと厄介者扱いされてんのよ。だからヘルメスの愚痴スレは盛り上がるし、あいつが何か言うとすぐ炎上するわ』
後半は何を言っているのか分からなかったが、とにかく神々の間でもヘルメスは嫌われ者のようだ。
『だからまあ、ひとつだけ言えることは、あいつが絡んできた時点で事態はかなりマンドクセーことになってるし、ソフィを取り戻すのは難しいってこと』
それを聞いて僕の視界は暗くなり、平衡感覚を失いかけて椅子から倒れそうになる。
と、通話口から『ラブリーマイシスター! スタゴラテとマウント〇ーニアの色んな味買って来たよ! 飲み比べしながらミスド食べよう!』とアポロン様の遠い声が聞こえてくる。
『えー、あたし白レーニア以外苦手なんだけど。青と緑は兄ちゃんが飲んでよ』
『大丈夫、それは外して期間限定の甘そうなヤツ買ってるよ』
『いえー、さすが兄ちゃん』
通話口から呑気な会話が聞こえて来て、大事な話をしている最中なのに、と思わず声を荒げそうになる。
だけど僕は協力を乞うている身。もどかしいのは確かだけど、怒るのはお門違い。そう思える程度には、僕も冷静さを取り戻しつつあった。
そして次に訪れるのは、電話の向こうと同じように、僕の隣にソフィが居ないという悲しみ。思わず涙がこぼれそうになるのを、血が滲むほど唇を噛みしめてどうにか堪えた。
『てか、今あたし手ぇ離せないから飲ませて』
『喜んでー。その後は俺が飲むよ。うーん、アルテミス味で美味い!』
『えー、味変わったら飲み比べらんないじゃん。次はあたしが後でいいよ』
『いやいや、そしたら兄ちゃん味が混ざって分かんなくなるよ』
『あ、そっか。じゃ、やっぱあたしが先に飲む。ん、飲ませて』
片手でスマゴを耳に当ててもう片手で別のスマゴでゲームをしているアルテミス様に、アポロン様が嬉しそうにコーヒーのストローを口元に運ぶ光景が目に浮かぶようだ。本当だったら僕も今頃、同じようなことをソフィと出来ていたはずなのに。
『で、誰と何の電話してんの?』
『あー、実はさー‥‥』
ようやく話が本題に戻り、アルテミス様が状況を説明してくれる。話が進むにつれ、アポロン様の打つ相槌のトーンが、明らかに下がってゆく。そして最後まで説明が終わるころにはもはや無言で、最後にメシャリと何かが潰れる音が響いた。
『‥‥あのクソガキ、生まれた時から嫌いだったが、まさか本当に越えちゃいけない一線を越えやがるとはな‥‥!』
聴いただけでぞくりと背筋が震えるほど、アポロン様の声からは憤怒が滲み出ていた。つい先ほどアテナ様がブチ切れていた時と同様、神にはそれぞれ決して踏み込んではならない領域が存在するのだ。
そして、アポロン様の一線が何なのかは、僕であれば簡単に理解できる。
『兄妹仲を無理矢理引き裂くなんざ、ぜってぇにやっちゃいけないことだ! それをあいつは、こうも簡単に‥‥! 兄妹ってのがどれほど尊いかってことを脳ミソに直接刻み付けてやる!』
『ちょ‥‥兄ちゃん、キレすぎだってば!』
『‥‥‥‥っ!』
この逡巡、今アポロン様は間違いなく、引き留めてくれるアルテミス超可愛い、って思っているに違いない。
だがなんと、アポロン様の怒りは妹の可愛さをも上回ってしまったようだった。
『ごめんよアルテミス。今のアルテミスは俺史上最大級に可愛いけど、俺はやっぱりヘルメスを許せない‥‥!』
それまで黙々と食事を続けていたアテナ様だったが、そこでようやく手を止めると机の上のスマゴを鋭く睨みつけた。
「アポロン。正直なところ、私も今はあなたと同じ気持ちよ。今すぐにでもヘルメスの脳天をかち割ってやりたいわ。けれど、ヘルメス相手に無策で勝てると思っているのかしら」
『分かってるさそんなこと! だけど黙ってなんかいられるか!』
「当たり前でしょう、私だって黙る気なんて毛頭ないわ。だからこそ、やるのなら完膚なきまでに、二度と喋ることも出来ないくらいに叩き潰してやりましょう」
あ、冷静なようで、アテナ様も相当キレている。
そして多分、それらのやり取りに対して同調以外のものを示せない、僕も同じく。
『それで、人の子、お前はどうするつもりだ! 少しでも弱気なこと言ってみろ、逆さ吊りにして皮膚を全部剥いでやるからな!』
アポロン様の怒りの矛先が唐突に僕へと向けられた。その剣幕に一瞬気圧されそうになるも、僕とて黙っていられるほど心穏やかではない。
「取り返す以外に、選択肢なんてあるはずがありません」
はっきりと答えてから、僕は机の上のスマゴを見、アテナ様を真っすぐに見据える。
そして、深く頭を下げた。
「だから、どうか僕に力を貸してください」
ソフィを守って欲しいと頼み、しかしその約束は果たされなかった。だけど僕は契約不履行の文句を言うことなど出来るはずがなく、何もかも任せてしまっている以上僕は常に下の立場にあることを自覚している。
何より彼らは神であり、僕はソフィのように神の血を引いてすらいない単なる人間だ。どれだけ状況が変わろうとも、僕が常に下位であることだけは変わらない。
それはあまりにも理不尽なことだけど、それこそが世の在り方であり、世界の本質だと僕は知っている。
それでも今の僕には、それを嘆いているような暇なんて無い。
今の僕に出来ることは、もう一度神に助力を願い出ることだけだ。
僕の懇願に返って来るのは、重い沈黙。アテナ様とスマゴの通話口からわずかな息遣いが聞こえるだけで、返答の声はない。
やがて、最初に口を開いたのは、アポロン様だった。
『なあ、人の子。俺は言ったよな、自分の妹は自分で守れって。それでもなお、お前は俺たちに頼るのか?』
アポロン様の声は、ひどく不機嫌なものだった。
不安を越えて恐怖に近い感情を抱きながらも、僕は僕の想いを、偽ることなくはっきりと伝えた。
「はい、確かに聞きましたし、その通りだと思います。だけど僕の力では神様にはとても敵いません。だから僕は――手段を選んでなんかいられないんです。ソフィを助ける。その目的さえ達成されるならば、過程なんてどうでもいいです。誰に何を言われようと、僕はソフィが側にいれくれるならそれだけで十分ですから」
再び、沈黙が落ちる。通話口からは怒りの余韻のような、わずかなアポロン様の息遣いが聞こえてくるだけ。時折紛れ込んでくる女の子の可愛らしい声は多分、アルテミス様のゲームの音だ。
内心ビクビクしながらも、僕は間違った返答をしたとは思っていなかった。
『‥‥なるほどな』
やがて聞こえてきたアポロン様の声は平坦で、怒っているのか褒めてくれているのかは判然としない。だけど僕には、どちらなのかの見当はついていた。
『意地とか見栄とか、そんなもんどうだっていいよな。可愛い妹の為なら、それ以外の全てを捨てられるよな。分かる、分かるぞ相棒。それでこそ、俺の認めた男だ! 同じ兄として俺は嬉しい!』
アポロン様ならそう言ってくれると信じていた。そう、僕らは同じ兄なのだから。
『まあ、あたしも今更手を引くなんて言うつもりは、最初っから無いけどさ』
ちうー、と気の抜ける吸引音を響かせながら、アルテミス様も引き続きの助力を承諾してくれた。
『中途半端にランカー目指して途中で諦めちゃうのが、一番悪い走り方だからねー』
理由らしきものを述べてくれるが、僕にはやはりよく分からない。
「私も諦める気なんてないわよ。というより、こんなところで手を引くなんてできるはずないじゃない。ニコが諦めたとしても、私は1人でヘルメスをボコしに行くわ」
やはりというべきか、アテナ様は今回の目的の未完遂、要するにヘルメスへの敗北に対してかなり不満を抱いている。
ともかく、僕はこれまで通り神の助力を得ることが出来るということだ。それはソフィを渡さないために、今は取り戻すためには不可欠な力であり、内心の安堵はかなりのものだった。
唯一の手段が神頼みだなんて自分でも情けなくなるが、言った通り今は手段など選んでいられない。神の力には敵わないことは痛いほどに理解出来ている。ゼウスどころかそのパシリであるヘルメスにすら手も足も出なかったのだから。
『とりま、あたしは今のまま情報収集を続けてあげる。ゼウスより、ソフィの居場所を先に探せばいいよね。フォロワーに特定班の友達がいるから、頼んでみるよ』
『って言っても、居場所はどうせオリュンポスだろ? だからとりあえず進路を変える必要はないんじゃないかな?』
『そうね、あたしもそう思う。ただオリュンポスもバカみたいに広いからさ。出来るだけ早めに詳しい場所特定しとくね』
アルテミス様らしい気の抜けた口調でありながら、その言葉はとても心強い。僕とて今はのんびりなどしていられる気分ではない。
「みなさん、本当にありがとうございます。悔しいけど、これは僕だけではどうしようもなかったので、手を貸してもらえなかったら今頃どうなっていたか分かりません」
『気にすんなよ人の子、同じ兄として当然のことさ』
僕の心からの感謝に、隣から嘲笑とまではいわないものの、多分に呆れを含んだ笑いが聞こえてきた。
「神に感謝の念を抱けること自体は褒めてあげる。けれど、あまり気負う必要はないわよ」
アテナ様は置かれたパンをひと口かじって、「もう少しふんわり感が欲しいわね」と呟く。
「私たちは、あなたのためになんて動いてないわ。理由はそれぞれ、だけどみんな自分のために動いているだけだから」
これが僕の緊張を解すために言ってくれているのなら、なかなか素敵な話だ。だけど残念ながらそうではなく、それが本音であり事実であること僕は知っている。
神様ってのは、辟易するほどに自分本位だ。
だけどそれは今の僕も同じ。使えるものは神でも使う。メリットとかデメリットとかそんなものはどうでもよくて、ソフィを取り戻すためならば僕は、どんな対価であろうと支払うつもりだった。
「それでも、ありがとうございます。無事帰ってこられたら、みなさんに最高のパンと腕によりをかけたパツァスをご馳走させていただきますね」
もちろんその対価は、僕とソフィの幸福を阻害しない範囲で、だけど。
「ナメたことを言わないで。フルコースでもてなしさない」
楽しそうな笑みを浮かべてはいるものの、多分冗談ではないその要求に僕も同じく笑顔をもって応えるのだった。
「お安い御用です」




