5-6
アテナ様が即座に反応してナイフを弾き落とした次の瞬間には、その言葉だけを残してヘルメスの姿は場から消失していた。
――ソフィとともに。
目の前からソフィが消えて、僕の世界の色も消える。宿の残骸に囲まれて地面に転がったまま、僕は呆然と何もない空間を見つめていた。
アテナ様もしばらくその場で立ち尽くし、やがて大きな舌打ちと共に槍の柄を思い切り地面に叩きつけた。普通であればただの八つ当たりで済むそれですら、神の一撃。凄まじい轟音と共に一帯が震動し大きな地震が引き起こされる。
僕は地面に転がされたまま、ソフィの居た痕跡を探すかのようにじっと空間を眺め続けることしかできなかった。
アテナ様はもう一度悪態を吐いてから、僕の手足の拘束具を槍の柄で軽く叩く。ただそれだけで、拘束された時と同様に僕の両手足の縛めはあっさりと解かれてしまった。
四肢を木片と埃にまみれた地面に投げ出して、折れるほどに歯を食いしばり、自身の爪に裂かれて白く握り込まれた拳に鮮やかな赤が彩られる。手足首の傷口からは、いまだどくどくと血が溢れ出した。
胸の奥で燻る怒り。しかしその原因たるヘルメスはここにはおらず、やり場のない怒りが胸中に渦巻く。
そしてやり場のないものというのは往々にして、一番近くにあるものに向けて放出されるものだ。僕は立ち上が――ぶん殴られた。
何か行動を起こすより早く、苛立ちのこもった瞳を向けた瞬間に、容赦なく、グーで、正面から、ぶん殴られた。
「誰のおかげで生きていられたと思っているの。お門違いも甚だしいわ。八つ当たりなんて最低よ」
言いながら、殴り倒された僕をさらに足蹴にするアテナ様。多分、これは八つ当たりだ。
僕はそれ以上の抵抗などできるはずもなく、ぐったりと項垂れたまま動けない。傷の痛みなど、今は気にするに値しなかった。
視線だけで辺りを見回せば、崩壊した宿屋を中心として大きな輪を作るように人々が取り囲んでいた。
アテナ様はぐるりと周囲を見回し、槍の柄を地面に突きたてる。今度は地震が起こったりはしない。ただ、神の威厳が強風となって放射状に広がり、誰もが身を震わせた。
「我が名はアテナ。知と戦の神よ。知らない者がいるとは言わせないわ」
叫んでいるわけではないのにどこまでも届くような、涼風のように澄み切った声でアテナ様が呼びかける。その声にざわめきが広がるが、猜疑の声は聞こえてこない。
先程までの戦いを見ていたのなら疑う余地はなく、その上たった一言でそれを信じ込ませるだけの風格が今のアテナ様にはあった。
「とりあえず、この破壊については詫びさせてもらうわ。直接の助力はできないけれど、宿屋の店主、そしてこの土地に少しばかり私の加護を与えましょう」
アテナ様が謝るのは、あくまで自分が直接関わった損害のみ。周囲の人々による騒ぎを含めて、間接的な被害は飽くまでお前らのせいだということなのだろう。不遜、というよりは多分価値観の違いだ。
「誰か‥‥いえ、そこの貴女に聞くわ。小さくてもいいから、この町に神殿はあるかしら」
大勢が声を上げる、もしくは誰も声を上げない状況を防ぐため指名すると、その少女は大袈裟なくらいビクリと全身を震わせていた。
「あっ、えと、えっと、‥‥い、いいえ、ここには神様が来られたことなどなく、そのような場所はありません‥‥。も、申し訳ありませんっ!」
少女は可哀想になるくらいビクビクと震えながら深々と頭を下げる。だがアテナ様は気にした様子もなく、つかつかと少女の前に歩み寄る。
「それならば仕方ないわね。それじゃあ、私に食事と今夜の宿を提供なさい。広い個室を所望するわ」
やや上の空の様子でアテナ様に見惚れていた少女。その白く繊細な手が頬に触れるとハッと目を見開いて、神に奉仕することを許された栄誉に瞳を輝かせた。




