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「これ以上は言わないわよ‥‥――とっとと失せろ!」
一転。大気を震わせるほどの怒気と共にほんの一瞬だけ店主を睨みつけ、聞いたことのないような叫びを放った。
店主は腰を抜かして尻もちをつき、立ち上がることもままならず四つん這いのまま瓦礫の降り積もる階段を転がるように降りて行ってしまった。
凄まじい剣幕に、僕も怒りで冷静さを失っていなかったら恐怖にすくみ上っていたことだろう。今なお、冥府の水を流し込まれたように腹の底が冷え切り、他の感情全てを押しのけて恐怖が手足を震えさせている。
「へぇー、人の子を気遣ってあげるなんて、アテナ様ってば優しいじゃーん」
「ええ、無為に人の子の命を奪うのはあまり好きではないの」
「あっそー。オレは都合のいい信徒さえ生きてりゃどーでもいいや」
「それに、ニコもソフィも命は奪わせないと約束したの。仮にも十二神の一柱であるヘルメスと、余計な荷物を抱えて戦う余裕はないわ」
言って、アテナ様が槍を振るう。すでに半壊している廊下は大部屋2つ分ほどを抱えた広さにまで拡張されており、戦闘への支障は生み出さない。もっとも、アテナ様には戦場の広さなど関係なさそうだが。
アテナ様の槍の速度は神速というに相応しいが、ヘルメスの回避もまた神速。攻守の逆転が起こることはなくとも、圧倒的不利を感じさせることもなかった。
ソフィが戦闘の真っただ中に巻き込まれていることには激しいストレスを禁じ得ない。しかしアテナ様が簡単にソフィを巻き添えにするほど短慮でないことは知っているし、ヘルメスも連れ帰る使命がある以上、傷つけるわけにはいかないのだろう。
アテナ様が槍を振るう度、宿屋は原型を失って風通しを良くしてゆく。
細かな攻撃が続く中、大振りに降ろされた槍が床を粉砕する。ヘルメスは飛び退ってこれを避け、自身の足場をも犠牲にする豪快な攻撃を放った本人も、崩れる前に床を蹴り壁の残骸を中継して折れずに残った柱のひとつの上に立ち上がる。
夕日を受けて美しい髪がたなびき、羽織ったマントが夕暮れの風にひらめいた。
肌を夕日色に染めて虹色に髪の毛を輝かせながら、同列の神であるはずのヘルメスを睥睨する。ヘルメスはソフィを抱えたまま、アテナ様に視線を拘束されてしまったように斜め上を見上げたまま動きを止めていた。
「そろそろ、降参したらどうかしら」
「いやいや、するわけねーじゃん」
「知ってるわ。言ってみたかっただけよ」
軽口を叩くアテナ様は余裕そうに見えて、恐らく慎重に機を窺っているのだろう。ヘルメス同様、アテナ様も視線は正面に固定されたままだ。
注意深く、ヘルメスはずり落ちそうになるソフィを抱え直す。その際にヤツの手がソフィの肌に触れて、僕の怒りは再び沸騰を始めた。
「ソフィに触るな! ソフィは僕だけのものだ!」
思わず叫んだ僕に、ヘルメスはちらりとだけ視線を向け――ニイッと胸糞悪くなるような笑みを浮かべた。
「ほぉー、ほーほー、こいつはそんくらい大切な女なワケね。なるほどなるほど。いやさー、そういうシチュって、けっこう燃えない?」
ヘルメスはソフィの顔を無理矢理起こして、下卑た笑みをこちらに向けたまま――ソフィに顔を近づける。
ざわりと、血液が逆流するように全身がざわめいた。
「お前も男なら分かるっしょ。NTRってさ、ヤられるのはクッソ腹立つけど、ヤるのは最ッ高に興奮するんだよねー」
「やああああああああああああああめえええええええええええろおおおおおおおおおおおお!」
視界が真っ赤に染まる。脈動するように全身を震わせて、手首と足首の皮膚が裂け、肉が弾け、あっという間に手足が血に染まる。だけどそんなことどうでもいい。むしろ好都合だ。今すぐソフィの下に駆けつけられるなら、手足なんて千切れてしまえばいい。生きてソフィと共にいられるのなら、それ以外は何もいらない。
怒りと焦りで皮膚が粟立ち、骨が軋んで神経が断裂を繰り返す。頑丈な人体が今だけはもどかしい。頼むから早く、早く折れて千切れてくれ。肉も骨も、邪魔なだけだ。
ミシミシと僕の身体と精神が悲鳴を上げる音を聞きながら、それでもなお拘束を解くことはかなわず、ヘルメスの舌がソフィの肌に――夕闇を切り裂く白刃が煌いた。
ヘルメスの動きが硬直し、ソフィの髪の毛が数本、宙を舞う。
この状況でヘルメスに襲いかかれるのが誰かなど、説明するまでもないだろう。
槍を突き出したアテナ様の瞳に宿るのは、守ると決めた者を救うための強い意思――などではなかった。
「そういう冗談が、私は大嫌いなことは知ってるわよね」
敢えて言うなら、苛立ち。いや、それどころではない――憤怒。
アテナ様のその様子を見て、ヘルメスは引きつった笑みを浮かべながら顔色を青くして慌てて身を引いた。
「ちょ、ちょっと待てよアテナ! オレはちょっと‥‥!」
「黙れ言い訳など必要ない! 今すぐぶっ殺してやるわ!」
アテナ様は凄まじい勢いで槍を振るい、一転して激しい攻勢へと移る。ヘルメスも上手く回避を続けるものの、その気迫に圧され気味の様子であった。すでに半壊していた宿屋が、瞬く間に原型を探す方が困難なほどに崩壊してゆく。
さすがの僕ですら、一瞬怒りを忘れそうになるほどの激情。いったい何が彼女をそこまで怒らせるのか。
そこには複雑な理由がある、ワケではなく。
その怒りの理由は、アテナ様の生き様のようなものだった。
「少女の純潔はなによりも尊いもの! 愛する者がいるのであれば、なおさらだ! それをそんな下らない理由で汚そうとするなど、殺しても殺したりないわ! 原型がなくなるまで切り刻んでやる!」
「だあっ! くっそ、これだからめんどくせェんだよ――この処女厨が!」
女神アテナは純潔を尊び処女であることを誇りとする、処女神だ。そんな彼女にとって、ヘルメスの今の言動は到底許せるようなものではなかったらしい。
もちろん〝ソフィの〟という条件は付くものの、それは僕とて同じ気持ち。今、これほど心強い味方は他に居ないだろう。
「だから待てって! 別に、オレはコイツにそこまでしようとしてたワケじゃ‥‥!」
「だからどうしたとりあえず死ね! この私と対峙している最中に目を背ける度胸を讃えて肉片にしてやるわ!」
聞く耳を持たないとはまさにこのこと。ヘルメスが何を言おうがアテナ様の動きは一瞬たりとも止まることはない。
「おい人の子! テメェも黙ってねえで何か言えよ!」
「うっさい黙れ死ね」
「くっそ、テメェも同類かよ‥‥!」
ヘルメスが回避する度にソフィの身体が激しく揺さぶられているのがひどく気がかりだ。ヘルメスが死ねば万事解決なのだから、早く死ねばいいのに。
「ったく、アテナをキレさせるとホントめんどくせぇな‥‥」
体を横に傾けて刺突と振り下ろす斬撃をかわし、身を沈め跳躍し横薙ぎの一閃を避け、袈裟斬りから身を引いて逃れる。
アテナ様の槍が次から次へとヘルメス周辺の空気を切り裂き、ヘルメスの表情からも徐々に余裕の色が抜け始めてゆく。
「チッ、ブチ切れても槍が乱れねぇってのがまた厄介だ‥‥」
「戦の女神をナメるなと、何度言わせるつもりだ!」
「えっ、まだ2回目くらいじゃね!?」
「知るか!」
無茶苦茶な言い分のアテナ様にヘルメスは苦々しく表情を歪める。いいぞもっとやれ。
繰り出される槍撃が、ついにヘルメスの頬をかする。ヘルメスは幾度目かの舌打ちを漏らし、少し焦り気味に周囲を見回した。
――不意に、倒れたままの僕と目が合う。
ヘルメスが、口元を笑みに歪めた。
嫌な予感がする。けど、動くことが出来ない以上、どうすることもできない。
アテナ様が槍を振るう。ヘルメスが避ける。しかし避け方が浅い。槍が肩をかすめる。ヘルメスが動く。ここに来て初めての反撃の動き。アテナ様は焦らない。冷静に相手の動きを見極める。ヘルメスの手にはナイフ。距離を空け過ぎず、半端な間合いからの投擲。
――それがただの反撃であれば、アテナ様はあっさりと防いでさらなる反撃を繰り出していただろう。だが、ヘルメスは正々堂々などという言葉とは無縁だった。
悪い予感は的中する。ヘルメスのナイフの標的はアテナ様ではなく――僕。
一対一の戦いに捉われていたアテナ様は、予想外の軌道にほんの一瞬動きを止めた。
そしてその一瞬は、ヘルメスにとっては十分すぎる隙だったようだ。
「はっはっは、やっぱアテナの数少ない弱点は、そのクソマジメな性格だぜ」
アテナ様が即座に反応してナイフを弾き落とした次の瞬間には、その言葉だけを残してヘルメスの姿は場から消失していた。
――ソフィとともに。




