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そうだ、オリュンポス行こう  作者: くらうでぃーれん
5.純潔と略奪と伝令の神
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5-4


 羽付き帽子がふわりと廊下を舞って、にやけ顔に一筋の冷や汗が伝う。少なくとも戦闘においてはアテナ様のほうが格上のようだ。


「どういうつもりかしら。あなたにその子をさらう理由があるようには思えないけど」

「オレはゼウスの旦那に頼まれただけだよ。いつものことさ」

「90日後と、期限を定めていたと聞いたけれど?」

「らしいね。けど、アテナを引き連れて近づいてるって話が耳に入ったから、早めに手を打っとくことにしたんだってさ」


 アテナ様は小さく舌打ちをこぼす。こちらが向こうの情報を得られるのなら、向こうもこちらの情報を得ていてもおかしくないということだ。


「意志もなく父の言うことばかり聞いて、楽しい?」

「もっちろん。旦那に味方してるとお得な特典が満載だからなぁ」


 どこまでも軽薄な口調のヘルメス。コイツは、人の気持ちなんて考えもせず‥‥!

 そこで、僕は気づく。いや、思い出す。ずっとアテナ様といたせいで、忘れてしまっていたこと。この世界の真理というべきこと。


 ――神というのは、理不尽な存在であることを。


「てかさー、オレって無駄な争いは好まないし、ここはオレの顔に免じて譲ってくれないかな?」

「私に免じるような顔をあなたが持っていたなんて初耳ね。あと、私は有意義な争いであれば大好きよ」

「冷たいぜー、アテナ。オレとお前の仲じゃんか」

「そうね、ならばなおさら譲るわけにはいかないわ」

「つーか、父親の我がままなんだからさー、少しは聞いてやったらどうよ」

「あの人の子供が全員我がままを聞いていたら、世界は父の思うがままになるわよ」

「あっはは、違いない。そこら中に子供たちが転がってるからなー」


 口調だけは和やかにも聞こえる剣呑な会話の応酬だが、犬猿の仲というほどの因縁は持ち合わせていないように思えた。仲の良い人たちのやり取りを知っているからこそ、この会話に含まれるわずかなぎこちなさを感じ取れる。


「‥‥マジさー、少しくらい隙を見せてくれる可愛げがあってもいいんだぜ」

「安心なさい。そんなもの無くとも、私は十分美しいわ」


 張り詰めた緊張感。一触即発の空気が充満するその空間に――予想外の闖入者が現れた。


「お客さん? いったいなにが――」


 ――音が弾ける。爆風、斬撃、空を裂く音、木材の砕ける音、衝突音、金属音。


 均衡が崩された、その一瞬。それらの音が同時に響いて僕の世界を覆い尽くす。

 瞼を下ろして、上げた次の瞬間には、目の前の光景は一変していた。


 先程までいたはずの宿屋の廊下は半壊し、壁は砕け床は割れ、天井は跡形もなく消し飛んでいる。多くのものが無くなった代わりに、一帯を木端が埋め尽くしていた。


「――宿屋の店主たる人の子よ。崇め、讃え、喜びむせび泣くといいでしょう」


 粉塵舞う廃屋と化した宿屋の廊下に、威圧的でありながらも柔らかく降り注ぐような威厳を孕んだ声が響く。


「今この瞬間より、この場は神々の戦場となった。この場に居合わせた貴方は僥倖、神の威光をその身に浴びている。祈ることを認めましょう、平伏すことを許しましょう。人の子たる矮小さを自覚し、神の偉大さを再認し、私の姿をその目に焼き付けなさい」


 一陣の風が吹き込み、その姿が露わとなった。


 黄金の鎧兜。鈍く夕日を照り返す槍。荘厳に聳え立つ壁のような盾。陶磁のような肌。蒼天を孕んだ宝玉のような瞳。そして七色に輝く清流のような髪――。


「我が名は戦と知の神、アテナ。人の子よ、今より貴方を我が信徒としてあげましょう。我が神殿に巡礼し、貴方の持ち得る最上の供物を捧げる栄誉を与えてあげましょう」


 そこに居るのは僕と共に旅をしてくれていたアテナ様ではなく、まさに彼女自身が名乗った通りの、戦の神の偉容であった。


 彼女の言葉は、驚くほどに不遜であった。けれどそれを傲慢だと言うことなど出来ないほどに、彼女の立ち姿は壮絶なほどの威厳を放っていた。


 立ち尽くしていた店主はその場に崩れ落ちるように膝をつく。唐突な惨事にも彼は恐れることなく、畏れを抱く。彼は固く手を組んで歓喜の涙を流しながら、眼前の女神に祈りを捧げ始めた。


 その店主の反応を、大袈裟だとは思わない。アテナ様を知らなければ、かつてのように敬虔な信徒であったなら、きっと僕も同じように感謝の祈りを捧げていたことだろう。


 宿を破壊し、理由も述べず威圧的に平伏させる。あまりにも理不尽なはずのその態度に、完全なる被害者であるはずの店主はなぜか感謝を捧げている。そして傍目にさえ、それがごく当たり前のことであるように感じさせてしまう。

 それが神という存在であり、正しくそれを行使し得るのが、アテナという女神なのだ。


「はっはっは、カッコイーじゃん、アテナサマ。それだけ神威を振りまきながら、一瞬たりともオレから視線を外さない辺り、ちょー痺れるぜ」


 ヘルメスの挑発に、アテナ様は無言で応答する。その表情には怒りの色は薄く、そして余裕の色もまた薄く感じられた。


「敬虔な信徒たる人の子よ。深く祈りを捧げるその様は賞賛に値する。だが今は、疾くこの場から立ち去りなさい。無用な屍を築くことは、私の本意ではないの」


 遠回しにここにいれば死ぬだろうと告げるも、店主は動かない。彼女のために死ねるのならそれでも良いとすら言い出しそうな様子だった。


 しかし、アテナ様は涼しい顔のまま小さく息を吐き――


「これ以上は言わないわよ‥‥――とっとと失せろ!」


 一転。大気を震わせるほどの怒気と共にほんの一瞬だけ店主を睨みつけ、聞いたことのないような叫びを放った。


 店主は腰を抜かして尻もちをつき、立ち上がることもままならず四つん這いのまま瓦礫の降り積もる階段を転がるように降りて行ってしまった。


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