2-6
それは僕にとって、生きるうえで無くてはならないもののひとつ。
「僕の村の――小麦を」
アテナ様の目が、きょとんと丸く見開かれた。
「‥‥ふざけているのか、大馬鹿なのか、どちらかしら。あなたは今、戦の神の助勢を懇願しているのでしょう? あなたたちでは決して勝ち得ない戦いに、私を代わりに差し向けようとしているのでしょう? それならばせめて、人生なり命なりを差し出すとでも言っておくのが普通ではないかしら」
アテナ様の言葉はしごく正論だと思う。神の命が人と同じとは思わないが、言うなれば僕は今、命を懸けて主神と戦ってくれと頼んでいるのだから。
だけど――。
「僕が死んだら、ソフィが悲しみます。ソフィが生きている限り僕は死ぬわけにはいきません。僕はこれから先もずっとソフィと共に生きていきたいんです。だから、僕自身の命を差し出すことはできません」
今度は表情を平坦に保ったまま、アテナ様がじっと僕を見つめている。
‥‥わがままな言い分に怒ってしまった、だろうか。
「そ、それに、僕らの村の小麦は本当に美味しいんです。ウチの小麦を使ったパンは、きっとアテナ様に奉納されるどんなパンより美味しいに違いありません。だって僕の村には――ソフィの加護がありますから」
言い訳でも誇張でもない、偽らざる本音だ。
だって、ソフィの祈りが付与された作物が他の物よりも劣る理由なんて、僕には一つとして見つけることは出来ないのだから。
僕にとって、ウチの畑で採れる小麦で焼いたパンは世界一美味しいと断言できる。今まではなぜか美味しいと思っていたけど、理由も分かっている今なら間違いないと言い切れる。
僕の世界で一番可愛いソフィが祈りを捧げた小麦。それが僕にとってどれほどの価値を誇るかは説明する必要もないだろう。
アテナ様は目を細めて僕を睨みつけ――ふっと表情を軟化させて、堪えられないように笑いを零した。
戦場に身を置く神とは思えないような、柔らかく温かみのある笑い。そうやって発露する感情は、僕らと何ら変わらない、人間らしい感情のように見えた。
「あはは、人の子、あなた面白いわね。神を前にして別の神をそこまで崇められるだなんて、よほどの信仰心の持ち主か、そうでなければ大馬鹿ね」
言って、アテナ様はひらりと手を振って数歩こちらへ歩み寄った。
「いいわ、手を貸してあげましょう。そもそもあなたの命や人生を差し出されても、そんなもの私にとって何の価値もないもの」
なかなか傷つく発言だが、僕は肩の力が抜けていくのを感じていた。どうやら、思っていた以上に緊張していたらしい。
「けど、良いんですか‥‥? 仮にも父親をボコしてくださいと頼んでいるワケですが‥‥」
「ええ、別に構わないわよ。私も父のその行動には納得しかねるから。それに、それならソフィだって同じことでしょう?」
断られたら困るとはいえ、アテナ様はあっさりとそう答えてソフィを見る。
「‥‥言われてみればそうですね。でもわたしはあんなの父親って認めたくないですし、お兄ちゃんに酷いことする輩は砕け散れば良いと思ってます」
「同意見ね。あんな不埒な輩は原型が無くなるまでボコボコにしてやりましょう」
爽やかな笑顔でけっこう怖いことを言ってくれる。さすがは戦の神というべきなのか。
「まあそれに、少し退屈してたから暇つぶしにちょうどいいわ」
‥‥うーむ、確かに理知的な神ではあるが、奔放という点では全神共通なのかもしれない。
とはいえやはり、こうして近い目線で話をしていると、神というのは思いの外身近な存在のように思えてくる。
「ただ、あまり軽く考えないでもらえるかしら。当然、パンの1つや2つで満足はしないわよ」
「それはもちろん――」
「とりあえず、10年は奉納するつもりでいなさい」
ぴくりと、提示された数字に頬が引きつるのを感じた。
「あんまり長期間すぎると飽きそうだから、とりあえずそのくらいでいいわ。もちろん気分次第で延長はさせてもらうわよ」
あー、そうだよねー。僕らと違って何百年も生きてるんだから、10年なんてあっちゅーまだよねー。僕ら的には年貢1年分くらいの感覚なのかな。帰ったら必死に畑仕事しなくちゃ。
「けれど、無茶は言わないから安心しなさい。村の税や天災くらいは考慮してあげるわ」
「あ、ありがとうございます‥‥」
わりと真剣な悩みだっただけに、率直な感謝の言葉が漏れた。
私腹を肥やすことしか考えていない貴族や、キレイゴトを並べて利己的な結果をもたらそうとばかりしている教会。そんな人々と違って、アテナ様はどこまでも思慮深く、慈悲深い。
とても失礼だという自覚はあるが、マトモな神もいるんだ、なんて感想を抱いた。
世界の理不尽さゆえに、そして初見の神があのゼウスだったせいで、結局はアテナ様も自分のことしか考えてないのかな、なんてわずかな不信を抱えていた。
だけどこの神のことは、信じてもいいのかもしれない。
そう思える程度には、僕の中でアテナ様に対する〝信心〟と呼ぶべきものが芽生え始めていた。
「ところで人の子」
呼びかけられて、僕はやや苦い顔で挙手して意見具申。
「あの、アテナ様‥‥、その〝人の子〟っていうの、どうにかなりませんか」
アテナ様は不思議そうに小さく首を傾げた。
「なぜ? だって、あなたは人の子でしょう?」
「いやまあ、それはその通りなんですけど、何回も呼ばれてるとだんだんヒトノコってポ〇モンみたいに聞こえてきて落ち着かないっていうか‥‥」
「いいじゃない、きっと赤にしか出てこないレアポケ〇ンよ。緑しか持っていない子は通信ケーブルを振り回しながら垂涎するに違いないわ」
なぜか例えが妙に古い。イマドキの若い子には通信ケーブルなんて通じないぞ。ナウでヤングな若者は赤外線通信だ。
「だってあなたはずっとお兄ちゃんって呼ばれてるし、名前を知る手掛かりが無かったもの。だから分からないしめんどくさいし、そもそもどうでもいいわ」
わー、すっごく正直な人だ。全力で胸を抉られて膝をつきそうになるが、ソフィがきゅって手を握ってくれたから一瞬で立ち直った。
「えっと、僕はニコっていいます。良かったらそう呼んでください」
「なるほど、ソフィの兄ということだから‥‥ニコ兄ね」
「あっ、なんか危険な香りがするからその呼び方はダメだと思います」
僕は決してアイドルではないし、れっきとした♂である。実は男装女子でしたという裏設定も存在しない。後ろでソフィが「わたしのハートはお兄ちゃんにラブニコ‥‥」と呟いているのは、今だけは聞かなかったことにしておく。
「意味が分からないわ。自分で呼べと言って気に入らないなんて。ヒトノコとニコ兄、どちらで呼べばいいのかはっきりしなさい」
「えっ、どうしてポ〇モンかアイドルの二択なんですか。出来れば人間扱いして欲しいです」
「あら、まるでアイドルは人間じゃないかのような物言いね。そんなことを言っていたら、あなたの村でライバー一揆が起こるわよ」
「なんか分かんないけどゴメンナサイ! だから普通にお名前をお呼びいただけると光栄です!」
「まったく、我がままね。どうして人の子はこう我がままなのが多いのかしら」
なんだかとても理不尽に責められるが、今だけは必死に耐え忍ぶ。
「まあいいわ、ニコ。そしてソフィ。ゼウスへと至る道のり。いかなる戦いもあなたたちに勝利をもたらすことを約束しましょう」
空気を切り替えるように、アテナ様が力強く、そして自信に満ち溢れた声でそう宣言した。
その途端、失っていたはずのその気持ちがほんのわずか、再び灯されたような気がした。
――いったい、こんなことを思うのは何年ぶりだろう。
僕は自然と、胸の前で祈るように手を組んでいた。




