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彼女の名は――アテナ。
主神であるゼウスと並ぶ十二神の一人とされる、戦と知恵を司る女神。
彼女こそが僕らがこの地を訪れた最大の目的なのだが、まさかこんなにも早く、向こうから顔を見せてくれるとは思いもしなかった。心の準備など全く整っておらす、要するに情けない話ではあるが、僕は彼女の放つ威光に竦み上がってしまっていた。
「――わたしもまだ半信半疑でありたいですが、恐らくはあなたの妹にあたる者です、といえば理解してもらえますか」
そんな僕とは対照的に、隣に立つソフィは力強さすら孕んだ声で答え、顔を覆うフードを取って真の神たる彼女に劣らぬ美貌を晒して見せる。
女神アテナはソフィをじっと見つめ、ふぅと呆れたようなため息を漏らした。
「ええ、おおよその事情は把握したわ。あなたにとってはどうだか知らないけれど、驚くようなことではないから」
ゼウスは神だろうが人間だろうが関係なく、少しでも気に入った女性には手を出して回っていたと神話でも語られている。彼女の反応を見る限り、どうやらそれは正しい伝承であるようだ。
また、ソフィが神との相の子であるという確証がさらに深まったともいえる。
「なるほどね、あなたを見ると妙に親しみを感じたのはそういうわけ」
「わたしも、この神殿を見て何か懐かしいような、落ち着く雰囲気を感じていました」
動くことも、口を開くことさえできない僕は、神を前にして対等に話をしているソフィが急に遠い存在のように思えてきてしまった。
――気づけば、僕はソフィの小さな体を抱きしめていた。
驚いた顔で僕を振り返るソフィ。いつものような緩んだ表情ではなくどこか張り詰めたような僕を見て、ソフィは柔らかな笑顔を浮かべて僕の手に触れた。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。わたしはなにがあっても、お兄ちゃんの妹だから」
ガチガチに強張っていた身体が、ソフィのたった一言で融解するように弛緩した。僕はもう一度、ソフィの身体を強く抱きしめる。
戦の女神はその様子を見ながら、すっと瞳を細くした。
「なるほどね。人の子、あなたがその子を育ててくれたというワケかしら」
「少しだけ、語弊があります。ソフィは、僕と一緒に生きてくれたんです」
僕の口から紡がれた言葉は、先ほどまでの緊張が嘘のように落ち着いていた。
「そう、大切にされているのね」
アテナ様は戦の神の名に似つかわしくなく、柔らかな微笑みを浮かべた。先日押しかけて来た変態クソオヤジとは大違いだ。
「それで、あの、アテナ様は、クソおやz‥‥クソゼウs‥‥ええっと、ゼウス、っさまの、娘さんということで間違いないですか?」
しょーもない質問のようではあるが、お願いしようとしているのはそのゼウスに関することだ。打ち倒すべき相手が父であるかどうかは、わりと大切なことではないだろうか。
「ええ、そうね。ただ私たちは人間でいうところの親子関係とは色々と違うから、あなたが思っているような関係ではないかもしれないけれど」
やはり、そういうことらしい。だからといって助力を願うのを辞退するわけにはいかないが、少々頼みづらくなったかもしれない。
しかし普通の親子関係でないというのは、なにか複雑な家庭事情があるのだろうか。ていうかそもそも神に家庭とかあるんだろうか。ていうか神の時点で超複雑な気がする。
「その、失礼かもしれませんが、アテナ様はどうやって産まれて来られたのですか?」
僕の質問にはアテナ様はぱちぱちと瞳を瞬かせて、ああ、と何かを納得するように頷いた。
「それはあれね、ヒトの言うところの下ネタというヤツかしら」
「全然違いますけど!?」
しかもヒトの言うところのってなんだ。神の下ネタはもっと高度なのか。めっちゃ気になるような、心の底からどうでもいいような。
「ええと、出生の秘密とかそういう系の何かはあるのですか?」
問い直すと「ああ、そういうこと」と生真面目に頷くものだから、何とも反応しづらい。
そしてアテナ様はその生真面目な表情を保ったまま、僕の問いに答えた。
「――父の頭割ったら出て来た」
「あの、すいません、何言ってるかちょっと分かんないです。ゴッドジョークですか?」
少々と言わず、僕の理解の範疇を越えていた。神様なんだから、天から降って来るとか水中から湧き上がるとか、特殊な産まれ方をしていても驚きはしないと思ったが。
「何を言っているか分からないと思うけれど、ありのまま起こったことを話しているわ。父が母を食べたと思ったら、叩き割った頭から私が出て来た。冗談だとか嘘だとかそんなチャチなものではないけれど、恐ろしいものの片鱗を味わう必要はないわよ」
なんてことだ、より一層意味が分からなくなった。僕は何か目に見えない存在の攻撃を受けているのだろうか。よく考えたら今も時が止まっているし、アテナ様が立ち去る時に「時は動き出す」とか言い出さないことを祈るのみだ。
しかし、それを聞いて一つだけ納得できることがあった。
「つまり、ゼウス様は頭を割った時の影響で脳味噌がお腐りになってしまわれたんですね」
「そうね、だいたい合ってる」
やはりそうだったか。あのクソっぷりは他に説明のしようがないもんね。
「それで?」
軽口は叩けど、いつまでも無駄話に興じるタイプの人、もとい神ではないらしい。すぐに笑みを消して真顔に戻ると、ソフィを見て会話の軌道を修正した。
「あなた‥‥ソフィという名を貰っているのだったかしら。ソフィ、わざわざ人の子と共にここへ来たということは、私に用があるのでしょう?」
ソフィがちらりとこちらを見上げ、僕が説明係を引き受ける。
「実はその、腐れ脳ミソ様のことで相談、いえ、お願いがあって参りました」
「そう、聞くだけ聞いてみましょう」
アテナ様はひどく落ち着いた様子で頷いた。ゼウスと違って、しっかりと民の声に耳を向けてくれる神だという印象を抱く。
しかし僕は知っている。神というのは我がままで理不尽だということを。何に対してどう思い、どこで態度を一変させてくるか分からない以上、簡単に警戒を解くべきではない。もっとも、警戒しているからといって何が出来るのかという話だが。
「先日、ゼウス様が突然ソフィを連れ戻すと言ってやって来ました。その時はなぜか急に帰ってしまったのですが、再び迎えに来ると言っていました。けれど僕は納得できません。ソフィは僕の家族です。あの人には、ソフィは渡せません」
「それで、私にどうして欲しいの?」
遠回しな言い方は許さず、アテナ様は鋭く問いを重ねる。
「僕らを、助けてください」
「どうやって?」
「再び来るであろうゼウス様を、追い返すのに手を貸してください」
戦の神、アテナ。彼女ならば相手が主神であろうと、勝利する術を持っているのではないか。それが、僕とソフィが村の教会で神について調べ、見出した希望だった。
「そう、人の子、あなたの願いは分かったわ。では、あなたは私に何を差し出すのかしら」
アテナ様は笑みを浮かべることも、尊大な態度を取ることもなく、淡々とした口調で僕に尋ねる。
「まさか、祈りだけで私を使役するつもりではないでしょう。奇跡を望むならば、それに見合った対価を差し出しなさい。神は人間の便利な道具などではないことくらい、当然理解しているのでしょう?」
アテナ様の言葉尻がわずかに鋭くなった。ここで動揺の色を見せれば、ともすれば僕は殺されていたのかもしれない。
けれど、そのくらい僕にも分かっている。もし僕が今でも信心深い信徒のままであったなら、祈りという利も形も無いものを差し出すことを当然としていたかもしれない。だが信仰を失った今だからこそ、確かな価値のあるものを差し出さなければならないと理解している。
だから僕は、僕が知る限り最も価値のあるモノを提案する。
それは僕にとって、生きるうえで無くてはならないもののひとつ。
「僕の村の――小麦を」




