第十七章 終局
フリーデの足音が背後で止まった。次の瞬間、彼は勢いよく振り返り、血走った目で毒々しい言葉を吐き捨てた。
「全部お前のせいだ……!」
「お前があの半リッチにちょっかいを出さなければ、あの猟魂者だって俺たちと最後まで敵対する必要なんてなかったんだ!」
言い終えた途端、死んだように静まり返った空気が凍りついたかのようだった。ウェルズはすぐさま奥歯を噛みしめた。苦い水のように後悔が込み上げてくる。こんな無力な激昂が何の足しにもならないことは分かっていた。それ以上に、本当に八つ裂きにされるべきなのは油断した自分自身だということも、痛いほど分かっていた。
「……」フリーデは静かにその場に佇み、目を伏せた。
彼に対するいつもの態度からすれば、とうに言い返しているところだ。だが今は、一言も返せなかった。ひとつの生きた命が、たった今二人の目の前で消えたのだ。その重さは、どんな皮肉も寄せつけなかった。
「やっぱり俺が……無能すぎたんだ」
ウェルズは低く唸るように吐き出した。取り乱したその姿は、いつもの余裕をすっかり剥ぎ取っていた。彼は拳を振り上げ、自分のこめかみに思いきり叩きつけた。
ごつっと鈍い音が響く。激痛が絶望の濃い霧をかろうじて切り裂き、わずかな理性を引き戻した。
「魂を収められる水晶を燭聖に渡して、完全復活術(レイズ・デッド)(トゥルー・リザレクション)を放ってもらう……いや、違う!猟魂者の鎌は戮魂の力を持つんだ!俺はこの水晶の使い方すら知らない。他にどうやって彼女を救えばいい?」
頭の中が真っ白になり、何ひとつ手が浮かばない。
生まれて初めて、泣きたいという衝動に駆られた。だが歯を食いしばった。フリーデの前で涙を見せることだけは、絶対にしたくなかった。
「彼女を教廷の属国へ連れて帰ろう。月の潮汐の中で死んだ人は、放っておけばすぐにゾンビになってしまう」フリーデが単刀直入に沈黙を破った。息絶えたサンドラを前に、痛ましさと悲しみがないまぜになる。結局はその感情を長いため息ひとつに変えて、常識的な提案を口にするしかなかった。
「書頁を焼いて、戦略次元門を開こう」ウェルズは腹を決めた。
「本当にいいの?書に記された戦法転換と運命転嫁は、どちらもまだあなた自身には放てなくて、この書に代わりに放ってもらうしかない五階魔法よ。残っている白紙の一頁も一緒に燃える。灰になったら、また使えるようになるまでずいぶんかかる」
「じゃあどうしろって言うんだ?徒歩で教廷の属国まで運んでいたら、着く頃にはとっくにワイト・チャンピオンになってる。ここには死体を浄化できる司祭もいないんだぞ」ウェルズは灰色にくすんだ空を仰いでため息をつき、口の端に寂しげな苦笑を浮かべた。
悲しみが極まると、人は本当に笑いたくなってしまうことがある。ウェルズは今、それを身に染みて知った。
紛れもなく、とてつもなく贅沢な浪費だった。
もちろん、ウェルズにも分かっている。死者は生き返らないし、逝った者はもう生きている者の損得とは関わりがない。あくまで理屈で考えるなら、この数頁を残しておくほうがずっと賢い選択だ。だが彼は、理屈に自分を縛らせたことなど一度もなかった。ただ本心に従い、胸を張れる清々しさを買いたい――それだけだった。
フリーデは少年の意地を見抜いていたから、異を唱えはしなかった。
生前は金のためなら手段を選ばなかった煉獄騎士でも、死ねば安らかに眠る資格はある。
だが、サンドラの遺体を教廷の属国へ運ぼうと決めた、まさにその時、異変が起きた。
サンドラの体が、烈日にさらされた残雪のように溶け始めたのだ。崩れた血肉は、どんよりとした気配を放つ紫黒色の軟泥となって溜まった。
「まともな亡骸すら残せないっていうのか?」
それを見るなり、ウェルズの指先に火球術の光が灯った。彼の知識に照らせば、月の潮汐で死んだ遺体にこんな異変が起きるのは、決して良い兆しではない。友として、サンドラの亡骸が冒瀆されることだけは断じて許せなかった。
「待って……この色の泥の塊、どこかで見た気がする!」
フリーデはとっさに少年の手首を押さえた。その直後、腰に提げていたものが不意に不気味な紫黒の幽光を明滅させ、彼女の記憶を呼び覚ました。
慌てて外してみると、それは奇妙なガラス玉だった。中心では薄暗い紫黒の霧が渦を巻いている。地面の紫黒色の軟泥は見えない力に引かれるように、ゆっくりと蠢きながらガラス玉へ這い寄り、何の抵抗もなく中へ染み込んでいった。この小さな玉には空間魔法が刻まれているらしく、あたり一面の紫の泥をすっかり呑み込んでしまった。
驚愕してその光景を見つめるウェルズが何か手を打つより早く、少女が先に口を開いた。「遺体を壊すのは待って……!このガラス玉は知識集苑で見つけたものなの。この異変は月の潮汐とは関係ない!」
少女が掌にガラス玉を載せて見せると、ウェルズは思わず固まった。
月の潮汐とは関係ない?つまりサンドラの異変は、死地が遺体を穢したせいではなく、もうひとつの失われた上古の国――知識集苑と、何か謎めいた繋がりがあるということだ。
「お前の知っていることを全部、詳しく話せ」ウェルズは表情を険しくし、思わず息を荒くした。
そこでフリーデは、当時知識集苑で見つけたもの、王座を調べた経緯、王座の裏でこのガラス玉を手に入れた顛末を、余すところなく語った。
「月の潮汐のせいじゃないなら……死んだ後にこうなるってことは、彼女自身がよほど特殊な存在だったってことか!?」
その可能性が頭をよぎった瞬間、ウェルズの顔に抑えきれない狂喜の色が浮かんだ。サンドラはこの秘密を一度も明かさなかったし、本人でさえまるで気づいていなかったのかもしれないが。
「もしかしたら……まだ彼女を生き返らせられるかもしれない!」
「望みは薄いけど、可能性は確かにある。知識集苑に戻って調べ直して、『御衡者』の裏にいったい何が隠されているのか突き止めないと。次元界の外に墜ちて、欠片の半次元界の中にあるあの知識集苑には、間違いなくとんでもない秘密が眠ってる」
フリーデ自身にも解けない疑問がいくつもある。ウェルズと組んで再び乗り込み、調べ直すのは、間違いなく良い選択だった。
「だが、客を歓迎しないあの半次元界に入るには、少なくとも聖階の実力が要る」ウェルズは独りごちた。サンドラのためなら火の中水の中も厭わない。だが今、彼の脳裏にはもう一人の少女の姿が浮かんでいた。
「それに、質麗皇女にこの旅の顛末を報告しなきゃならない。この冒険で、彼女が何より知りたがっている答えはまだ見つかっていないからな。帝国の皇帝はなぜ終末救贖者と手を組んだのか――その答えだ」
「急がなくていい。サンドラがこれほど特異な現象を起こせるなら、魂はそう簡単には消えない」フリーデは目をくるりと動かし、冷静に分析した。「先に帝国へ行って、皇女の情報網で資料を集めてもいい。そのほうがかえって、彼女を救う方法を探しやすいと思う」
今の時点では、それが最も理にかなった判断だった。
帝国の質麗皇女は、ウェルズの知り合いの中で最も身分が高く、実質的な援助を最も期待できる相手でもあった。
「分かった。一刻でも早いほうがいい。すぐに帝国へ発つぞ」ウェルズは身をかがめ、サンドラが遺したものを丁寧に拾い集めた。
運ぶべき遺体がなくなった以上、書頁を焼く必要もない。『咫尺の書』は無傷のまま、彼の腰に掛かっていた。
「でも出発する前に、祭壇の封印を解き終えて、あの超凡転落機を探しに行かないと」フリーデが言った。
「なるべく早くな」
フリーデは祭壇の前に戻り、中断されていた一分間の作業を終えると、ドラコリッチの命匣をウェルズに手渡した。命匣が祭壇を離れた途端、広場の負エネルギーの竜巻は完全に静まった。彼女は一人で広場へ向かい、さっきまで竜巻が荒れ狂っていた場所に立った。冥界の門は、まだ広場の反対側に立っていた。押し広げていた竜巻が止むと、扉はひとりでに大半が閉じていた。隙間の闇は引き潮のように一掌ずつ退き、体ひとつ分の幅を残したところで止まった。そこで引っかかったまま、鎖が張り詰めるような軋みを上げている。
近づいてみて、フリーデはようやく何が引っかかっているのかを見て取った。門枠を、見覚えのある符紋がぐるりと囲んでいる。『咫尺の書』の手になるもの――遥か昔にアラリックが残したものだ。この門をこじ開けたのはほかならぬこの書であり、門はそれを覚えていたのだ。
掌を門扉に当てる。隙間から寒気が溢れ出し、腕を伝って肩まで這い上がってきた。門の向こうで何かが外へ押している。ひとつではない。数えきれないものが、ひしめき合って塊になっている。「戻れ」と彼女は言った。空間安定の鎖が掌から垂れ、一本、また一本と門扉に絡みつく。水夫が帆を巻き上げるように、彼女はそれを締め上げた。隙間は一本の線になり、やがて糸ほどになった。最後のひと筋の寒気が断ち切られたとき、門の向こうで何かが扉にぶつかった。くぐもった音がひとつ。それきり、何も聞こえなくなった。
門は消えなかった。以前と変わらず広場に立っている。ただ、閉じているだけだ。彼女にはよく分かっていた。これをこじ開けたのは聖階で、閉じられたのは命匣がなくなったからだ。自分がしたのは、数百年ものあいだ閉じたがっていた門を、最後まで押し切ってやったことにすぎない。この地に新たな死者が流れ込むことは、もうない、と彼女は思った。すでにいる者たちを狩り尽くすには、まだ数百年かかるだろうが。彼女は踵を返し、廃墟の中で精緻を極めた魔法の奇械を見つけた。超凡転落機だ。
それは金属の蓋を外した巨大な懐中時計のようで、内部の無数の細かく精密極まる歯車と法陣の構造を、余すところなく晒していた。
「なんて信じられない道具……世界の法則を変えるほどの奇械なんて、少なくとも巓峰の聖階の職人でなければ作れない。いつか奇械の領域の聖階の強者を見つけられたら、機能の一部を修復して、六階の反魔法力場を生み出せる制御可能な装備に作り変えられるかもしれない」
次元界のエネルギー転落を招いた元凶を回収すると、フリーデは急いでウェルズのもとへ戻った。
少年はもう、悲しみをしまい込んだように見えた。少なくとも顔には出ていない。ここで立ち止まって嘆いているわけにはいかない――そうすれば、サンドラは本当に復活の望みを失ってしまう。ウェルズにはそれが分かっていた。
「行こう。全速力で禦死長城に戻るぞ」
ほのかに灯る燭のランタンを提げ、ウェルズとフリーデは身を翻して望月城を後にした。
「負エネルギーの渦が閉じた以上、ここもすぐに他の不死者の領主どもに切り分けられるだろうな。今回は運よく出くわさなかったが、ここは聖階の怨念の魂や骨竜、リッチが棲みつく死地だ」
ウェルズは最後に一度だけ振り返り、禁地に葬られた死の都市を見やった。望月城の惨状は、ひとつの事実を容赦なく突きつけている。秘密結社の陰謀は、たやすく一国を覆しうるのだ。
空間魔法で速度を上げ、二人はひたすら駆け抜けた。望月城から離れるにつれ、あたりに満ちていた圧迫感も次第に和らいでいく。帰り道では運よく他の不死者の領主の縄張りで襲われることもなく、月の潮汐へ踏み込んだときの数倍の速さで、無事に禦死長城まで撤退した。
教廷の精兵が厳重に守り、巍然とそびえる巨大な城壁を再び見上げると、ウェルズの胸に万感が込み上げた。
「開けろ!俺は生者だ、中へ入れてくれ!」
分厚い城門の前に立つと、彼は拡音魔法で声を張り上げた。
城壁の上からの反応は早かった。守備兵がすぐさま「不死探知」の法術を彼にかけ、続いて司祭の放つ正エネルギーが燦然たる白光となって降り注ぐ。清らかな光がウェルズの手足に流れ込み、久しく忘れていた温もりが広がった。
正エネルギーを吸収でき、何の異常もないと確認されると、重い城門が機械の軋む轟音とともにゆっくりと開いた。出迎えたのは、以前と同じ、あの門番の聖騎士だった。
「君か!よく覚えているよ。ジョージ師が名指しした男だろう。まさか生きて帰ってくるとはな。あの死地にこれほど長くいられた者を見るのは、私も初めてだ」聖騎士はやや意外そうに手を振り、気さくに声をかけた。
「ああ、俺だ」
「だが、隣のこちらは……ええと、あのときの美しい少女か?なんだか少し様子が違うようだが?」
「記憶違いだ。同じ人間だよ」ウェルズは説明する手間すら惜しんだ。
長城の関所を出た二人は、帝国へ向かう支度にかかった。だが町の通りを歩いていると、人々が帝国の情勢についてひそひそと噂し合う声が、しきりにウェルズの耳に入ってきた。
「帝国でもうすぐ内戦が起きるらしいぞ……!」
「怖いな、聖階の強者が何人も姿を見せたって話だ!」
「どっちが勝つと思う?」
「何があった?」ウェルズはすぐ街角の新聞屋台で新聞を一部買った。一面には太字で東大陸の最新情勢が躍っている。さっと目を通した途端、彼は眉をきつく寄せた。
「どうしたの?」フリーデが新聞を覗き込んだ。
「簡単に言うと、帝国の皇帝が急に危篤になったのに、いまだに後継者を指名していない。それで国内の派閥対立に一気に火が付いた――立憲派、専制派、共和派、調和主義者、聖階の冒険家、連合主義者。どの勢力も水面下で鍔迫り合いをしながら、自分たちの候補を皇位に押し上げるか、いっそこの機に皇帝という称号そのものを廃止しようと企んでいる。しかも表に出ている政治家連中の後ろには、秘密結社に宗教組織、連邦からの国外支援、それに古株の貴族や企業財閥の利権まで絡んでいる」
「帝国は滅びるの?」フリーデが尋ねた。
「たぶん建国以来最大の危機だろうな。こうなったら、あの連中が黙って見ているはずがない」ウェルズの目つきが鋭くなった。動乱と死を何より望む終末救贖者が、この千載一遇の好機を見逃すはずがない――彼はそう確信していた。
「すぐに発つぞ」
駅で馬車と汽車と船の切符を手早く揃え、二人は長城沿いのこの町を発とうとした。
町の出口へ向かう途中、見覚えのある人影が、まだらな石壁に気だるげにもたれて二人を待っていた。
「やあ、やはり私の目に狂いはありませんでしたね。君は本当に大した善人だ。あの中から数万人も救い出すとは、実に見上げた偉業ですよ」
すっきりした茶髪の美少年――ジョージが、にこにこと手を振ってウェルズに声をかけた。
「大したことじゃない」ウェルズは軽く受け流し、すぐに聞き返した。「お前、最初は月の潮汐の中に『林間仙境』みたいな生者の都市があるって知らなかったのか?」
「ええ、本当に知りませんでした」ジョージは悪びれもせずに答えた。「ですが、燭聖様はご存じだったでしょうし、教廷の枢機卿もおそらく察していたはずです。なにしろ燭聖は当代きっての占卜の大家ですから。月の潮汐にまだ生存者がいると見抜けても不思議はありません」
ウェルズはその瞬間にはっと腑に落ち、教廷がこれまで救援に踏み切れなかった理由にも思い至った。高濃度の負エネルギーが満ちた場では、たとえ教廷の聖階の強者でも、地の利を得た聖階の不死者と命懸けでやり合うなど、自殺行為に等しい。
「林間仙境の難民たちは、今どうしてるの?」フリーデが心配そうに尋ねた。
「教廷が近くに新しく区画を設けて、町を作って住まわせています。ご心配なく、その後のことは教廷がきちんと面倒を見ますから」ジョージは柔らかく微笑んだ。
「それならよかった。本当に助かったよ。で、このランタンは燭聖に返せばいいのか?」ウェルズは腰に提げた古めかしいランタンをぽんと叩いた。
「いいえ、むしろ逆です。燭聖から君たちに渡すものがあるんですよ」
「なんだ、燭聖の使い走りに来たのか」ウェルズは内心で毒づきながら、表向きは愛想よく微笑んだ。「燭聖によろしく礼を伝えてくれ。どうしてここまで良くしてくれるのか、さっぱり分からないが……で、どんないい物をくれるんだ?」
「聖階の法術の巻物を二巻です」ジョージはローブの内側から、神聖な威圧を放つ巻物を二巻取り出した。極上の高階の天角獣の皮で作られた巻物で、開いた端には精緻な神紋がかすかに光っている。「聖階神術『天国の審判』と、聖階神術『旧日再現』です」
「天国の審判……都市ひとつ分の範囲にいる悪魔も不死者も魔鬼も、一瞬で浄化してしまうっていう、あの破壊的な神術か?終末救贖者相手なら確かに役に立つ。だが旧日再現ってのは何だ?」ウェルズは前者の名声こそかねて耳にしていたが、後者はまるで聞いたことがなかった。
「対象を、その生涯で最も強かった巓峰の状態に戻す法術です。効力の上限は七階、持続時間は十五分です」ジョージが説明した。
ウェルズはすぐにこの神術の戦略的価値に気づいた。聖階の強者でも、古傷や老いのせいで全盛期にはとうてい及ばなくなることがある。この神術なら、ひととき若さと巓峰の力を取り戻させられる。あるいは実戦で、魔力が尽きて満身創痍になった聖階を、たった一度の神術で万全の状態に立て直せる。唯一の欠点は、上限が七階止まりだということ――つまり聖階の領域では、いちばん下の入り口にすぎない。
「十五分あれば、聖階同士の戦いなら決着をつけるには十分すぎるが、残党を追い詰めるには少し足りないかもしれん。いちばんいい使い道は、帝国の皇帝に直接叩きつけて、後事をきっちり言い残す時間を少なくとも十五分くれてやることだな」ウェルズは巻物を受け取りながら、半分冗談で適当なことを言った。
「さて、どうでしょうね」ジョージは肩をすくめた。この巻物の最善の使い道は、彼にも見当がつかないようだった。「ただ、たとえ皇帝が本当に若返ったとしても、もう手遅れでしょう。水面下では各政治勢力がとうに入り乱れていて、得体の知れない秘密結社とまで手を組んでいます。これほど巨大な集団の意志を前にしては、聖階の強者ひとりで形勢をひっくり返すのは難しい――あの勢力の後ろにも、必ず聖階が控えていますから」
ウェルズはあることを思い出した。「そうだ、お前の神術書をまだ借りたままだった。冒険ではずいぶん助けられたよ。そろそろ持ち主に返さないとな」
「いえ、構いません。その本は差し上げますよ」ジョージは鷹揚に手を振った。
「そいつは本当にありがたい」ウェルズは笑って会釈した。
「最後に、同行者がもう一人います。燭聖が、帝国まで君に付き添うよう彼女に頼んだのです」そう言ってジョージは身を引き、場所を空けた。ウェルズが以前会ったことのある人物――いや、ある生物が、ゆっくりと彼の前に姿を現した。
小柄な白髪金眼の少女で、飾り気のないすっきりした白いシャツに短パン姿。白竜のシャーロットだ。時が経つうちに彼女も確かに成長しており、今やすでに聖階の領域に足を踏み入れていた。
「ウェルズ、燭聖の指示に従い、私は個人の立場であなたの戦いに協力する。あなたが敵と見なした相手は、すべて排除する――帝国の役人であろうと、連邦のスパイであろうと、あの邪悪な秘密結社の構成員であろうと」シャーロットの口調は静かで、さざ波ひとつ立っていなかった。
「ありがたい。お前、簡単な神術や魔法も少しは使えるんだったよな?一緒にやれて嬉しいよ」ウェルズは礼儀正しく頷いた。
教廷に飼われている巨竜という身分のおかげで、シャーロットは極めて自由に動ける。教廷の公式な体面をいちいち気にする必要もない。そのうえ、燭聖や枢機卿のように目立ちすぎることもない。
ここまで来て、ウェルズは自分の立ち位置と責任をはっきりと理解した。
彼こそが、教廷がこの帝国の動乱に送り込んだ介入勢力なのだ。
「前から気になってたんだが、燭聖はなんでこんなに俺を買ってくれるんだ?四階の魔法使いといえば、世間的にはそれなりに偉いほうだが、聖階がらみが当たり前の帝国の陰謀に首を突っ込むには、俺はまだ青すぎるだろう」
「私も知らない。指示に従うだけ」シャーロットはあっさりと答えた。
彼女も知らないのか?それとも箝口令を敷かれているのか?
ウェルズは所詮、読心術を極めた心霊領域の聖階ではない。シャーロットの本心を覗き見ることはできず、胸の内でこっそり突っ込むしかなかった。「まさか、あのお偉いさんが俺に一目惚れでもしたんじゃないだろうな?」
「さて、燭聖から頼まれたことはすべて済みました。君たちの武運長久を祈っていますよ」ジョージは笑顔で手を振って別れを告げた。ウェルズも礼儀正しく手を振り、その背中を見送った。
強大な力を持つ新たな仲間、シャーロットを見ているうちに、ウェルズの頭には瞬く間に無数の算段が駆け巡り、早くも最初の計画が形になっていた。
「汽車の切符と馬車の切符、全部払い戻してこい」ウェルズはフリーデに向き直って言った。
「払い戻す?それじゃどうやって港まで行って船に乗るの?」
「こいつに乗るんだよ。車よりずっと速い」ウェルズは親指で隣の白髪の少女を指した。
「分かった。少し疲れるけど、確かにそれが一番効率がいい」シャーロットは気にも留めずに承諾した。
フリーデが払い戻しを済ませると、三人は町の外にある、だだっ広い荒れ地の広場へ向かった。
「下がって」シャーロットは淡々とそれだけ言うと、すぐに変形術を解いた。
少女の小柄な姿が、まばゆい氷青色の光の中に溶けた。次の瞬間、突風が吹き荒れ、体長二十メートルを超える巨獣が広場の中央に忽然と現れた。
全身を覆うのは、霜のように真っ白で、攻城砲弾でさえ貫けない分厚い鱗の鎧。盛り上がった筋肉のひとつひとつに、凡人の武僧が恥じ入るほどの爆発的な力が漲っている。流線型のしなやかな胴は太く逞しい尾へと続き、凛々しさに満ちていた。牙が幾重にも並ぶ巨大な顎がわずかに開き、息をするたびに、魂さえ凍りつかせそうな極寒の白霜を吐き出している。
町外れの住民たちは突然の竜威にすっかり肝を潰した。臆病な者は慌てて物陰へ逃げ込み、度胸のある者は興奮して指をさし、生まれて初めて目にする真竜に驚きの声を上げ続けた。
「竜に乗る、か……子供の頃の夢だったんだよな」ウェルズは目の前の巨体を見上げ、しみじみと呟いた。
シャーロットは長い首を下げ、巨大な竜の爪を差し出した。ウェルズとフリーデが身軽にその上へ乗ると、彼女は二人を広い竜の背へとそっと運び上げた。
続いて、風が唸りを上げた。巨大な翼が空気を力強く打ち、砂塵を巻き上げる。白竜は大地を蹴って飛び立ち、一直線に雲を突き抜けていった。
最初は六秒ごとに二百フィートという戦術速度で上昇し、高空の成層圏に達すると巡航態勢に切り替えて、速度を一気に三倍まで引き上げた。
安定した竜の背に座り、耳元で唸る風を聞きながら、ウェルズは足下を飛ぶように流れていく雲海を眺めた。聖階の白竜がまとう防寒の気場のおかげで、一万フィートの高空にいても寒さはまったく感じない。
空間の指輪に手を入れると、指先が最初に触れたのは一枚の紙だった。サンドラが長城の麓の軍港都市で書いた買い出しのリストだ。駆霊蝋燭、恒温寝袋、不可視看破の巻物――どれも脇に彼女の付けた印がある。速く、斜めに走ったその印は、店主と値切り合いながら片手間に付けたもののようだった。一番下の行は、後から書き足されている。帰りの携行食、二人分。彼は紙を折り畳んで指輪の一番奥にしまい、しばらく指をそこに留めてから、ようやく引き抜いた。
もうあの紙に手を伸ばさずに済むよう、ウェルズは三階魔法の意識通路を使い、自分とシャーロット、フリーデの精神を繋いで、三人だけの秘密の会話の場を作った。
「なあ、聖階級の戦いでお前が真竜の姿に戻って、氷霜のブレスと神竜擺尾をぶちかませば、相当な殺傷力になるんじゃないか?」ウェルズが先に話を切り出した。
「凡人の軍隊をまとめて薙ぎ払うなら、確かにとても役に立つ。でも聖階同士の生死を懸けた決戦では、大きな竜の姿に戻っても、たいていは自分を巨大な生きた的にするだけ」シャーロットの声が頭の中に響いた。
フリーデはウェルズの認識の盲点を鋭く見抜き、思わず口を挟んだ。「ウェルズ、あなた、聖階の戦いがどういうものか、そもそも分かってないんじゃない?あなたにとって、聖階の魔法使いってどんな存在なの?」
「うーん……歩く戦略核兵器?天地を滅ぼすような禁呪をあっさり撃てる?基本の攻撃範囲が最低でも十キロ?」
「あなたの言うことは、現象としては間違ってない。でも、それは聖階の一番恐ろしいところじゃない」シャーロットが冷静に説明した。「破壊力そのものは、魔力を積み上げただけのもの。例えば天災級の『電撃束雨』だって、五階の魔法使いを十人集めて陣列を組んで共鳴させ、連鎖電撃を詠唱させれば、似たような掃討効果は出せる。聖階の魔法使いが本当に絶望的なのは――象徴の収容に成功して聖階に踏み込んだ時点で、ある意味ではもう人類ではなくなっている、ということ」
「人類ではなくなっている?」
「そう。彼らは種の境界を越えて、人ならざる者としての免疫の特権を手に入れる」フリーデが話を引き継いで詳しく説明した。「血肉の生き物には致命的な弱点が多すぎる。でも聖階の強者は生命の形態を切り替えることで、そういう弱点をそもそも無効にできる。低階の顫骨術や裂骨術が私にまったく効かないのと同じ。水系の聖階の強者なら体を完全に液化して巓峰水元素に化身できるし、雷電系の聖階もいつでも純粋な雷電の集合体に変われる」
シャーロットが同意した。「聖階は、聖階の形態と凡人の形態をシームレスに行き来できる。例えばあの窃星者は、恐ろしい星の妖に化身できる。あれは詭妖一族の聖階の頂点にあたる形態」
「じゃあ、『咫尺の書』の魔導構体っていうのは、要するに奇械の領域の聖階の防護形態なのか?それで正負のエネルギーの侵蝕や即死判定、神経麻痺、精神混乱みたいな負の効果を無効にしている、と?」ウェルズは一を聞いて十を悟った。
「まさにそのとおり」フリーデは頷いた。「奇械の聖階は錬金術師の出が多い。聖階に昇るとき、自分の魂を切り離して、壊れることのない魔法機械に移し、金剛石の巨像や秘銀の石像のような不朽の造物になる。自分自身を一冊の魔導書に錬成してしまう方法まであるの」
ここまで詳しく聞かされて、ウェルズは自分と聖階との間に横たわる天と地ほどの隔たりを、ようやく痛いほど思い知った。
「ってことは、死霊系や陰影系の聖階も、当然いつでも純粋な不死者や実体のない陰影に変われるわけか?」
「まったくそのとおり」シャーロットが答えた。
「ただ、超凡の生物に変わるのも万能じゃない。凡人の姿のままでいるほうが有利なこともある」フリーデが付け加えた。「世界の法則には、特定の相手を狙い撃つ魔法や特効の制約がたくさんあるの。例えば天国の審判は不死者と悪魔に壊滅的な特効ダメージを与えるし、火元素の姿だと冷気のダメージが倍になる。そういうときは、聖階の魔法使いは一瞬で凡人の肉体に戻るだけで、特効魔法の狙いを外させられる。この切り替えにはほとんど詠唱もいらない。つまり――法術抵抗と免疫の駆け引きの中で、彼らはいつでも凡人と超凡の生物のあいだで、自分に一番有利な姿を選べるということ」
二人の少女と意識を交わすうちに、ウェルズは聖階にまつわる秘された知識をスポンジのように吸収し、三人の距離もいつしかぐっと縮まっていた。
「そういうことなら、それだけ手強い聖階の魔法使いは、帝国でも最も尊貴な特権階級なんだろうな?」ウェルズはこれから向き合う帝国の情勢に思いを巡らせた。
「当然」シャーロットは答えた。「帝国では、聖階の魔法使いに昇級した時点で、皇室から少なくとも侯爵の爵位と実権のある豊かな封地を与えられ、帝国議会の終身議員の席も自動的に手に入る。国家級の提案を単独で発議する権利があるうえ、明文化された法的免責特権まで持っている。数えきれない財閥や地下組織が、山のような財貨を携えて、庇護の約束を一言もらうためだけに群がってくる」
人間社会の決まりにこれほど詳しいシャーロットに、フリーデはがぜん興味を抱いた。「我が主がまだ健在だった上古の時代、色彩竜といえば例外なく邪悪と残虐の代名詞だった。五色竜のひとつ、白竜のあなたが、どうして光明を掲げる教廷に仕える気になったの?」
「時代が変わったから」シャーロットの口調は相変わらず静かだった。「超凡のエネルギーが衰えてから、この世界はもう、私の祖先たちが好き勝手に暴れられる環境じゃなくなった。生き延びるために、竜族は大国の庇護を求めるしかなかった。教廷は色彩竜を感化して手懐ける道を選び、帝国は金属竜を受け入れた。私の祖先は生まれつき血に飢えた邪悪な存在だけど、何世代にもわたって飼育と選別を重ねれば、比較的おとなしくて善良な個体だって育てられる」
「なんだよ、結局は品種改良されたブロイラーってことか」ウェルズは聞き終えるなり、思わず頭の中で突っ込みを入れた。
言ってから、彼は思わず首を傾け、誰かが呆れて目を回すのを見ようとした。竜の背には、風のほかに何もなかった。視線を戻し、自分の手の甲に落とす。あの六芒星の印が、雲の照り返しの中で明滅していた。
失礼とも言えるこのたとえを聞いても、シャーロットに怒る様子はまるでなかった。
彼女は実に躾が行き届いていた……もっとも、白竜という種がもともとあまり知能が高くないせいかもしれないが。




