第十五章 死の指
サキュバスが先んじて手招きするように片手を上げると、虚空にふたたび幾筋もの次元の門扉が裂け開いた。
あらかじめこの地に刻まれていた魔法陣だ。硫黄の立ちこめる奈落へと直結し、奇形で醜悪な奈落の悪魔を群れごと呼び寄せる。聖階の領域に踏み込むまでは、こうした大規模な捨て駒戦術がなお戦局を左右しうるのだ。
半空に浮かぶバンシーも負けてはいない。ぼろぼろの亡霊戦旗を背後に掲げると、はためく戦旗がこの領地に眠る、心を持たない狂暴な不死者たちを呼び覚ました。もとより悪魔と同じく鮮血に飢えた連中だ。バンシーにその殺戮欲を消し去ることはできなかったが、狩りの優先順位を力ずくで書き換え、ウェルズへの攻撃を後回しにさせて、奈落からの来訪者へと咆哮とともに飛びかからせた。
双方が同時に大軍を繰り出した。ウェルズにも見覚えのある悪魔たちが咆哮とともに次元門から躍り出て、周囲で動くものに片っ端から嬉々として噛みつく。一方、バンシーの呼びかけに応じた望月城の死者たちも、四方八方から死地へと馳せ参じた。半透明の幽霊が競技場のまだらな石壁をすり抜け、白骨もあらわなスケルトンと重鎧をまとったワイトが、天を覆うほどの砂塵を巻き上げて駆けてくる。
天では、羽音を立てる蒼蠅魔と泣き叫ぶ怨念の魂が絡み合って殺し合い、地では、重鎧のワイトと鉄の熊手を手にした怨魔が血みどろの白兵戦を繰り広げる。無数の手足を縫い合わせた巨大な憎悪が、肉の山のような迷誘魔と狂ったようにぶつかり合い、骨肉の砕ける歯の浮くような音を響かせた。何百何千という小悪魔、憎美魔、そしてありふれたスケルトンやゾンビが入り乱れての乱戦となった。
長らく打ち捨てられていたこの闘技場に、ようやく久方ぶりの、血肉飛び散る盛大な狂宴が訪れたのだ。惜しむらくは、観客席に人っ子一人いないことだった。
「殺せ、殺せ!血が流れれば流れるほど、法陣の力は増すのよ!」サキュバスは得意げに艶っぽい笑い声を上げ、成り行きを楽しげに眺めていた。
サキュバスが地獄の大軍を次々と呼び出すのを見て、フリーデはすかさず手を打った。小さな拳で虚空をぐっと握ると、空間に蜘蛛の巣状のひび割れが瞬時に走り、「空間乱序」が発動。すべての次元門が、ひどく不安定な目を刺す閃光を一斉に噴き上げた。
「そんな……あんたたちが私の空間門に干渉できるっていうの?」
次元門は数が多いうえ基盤も堅固で、完全に閉じるまでには至らなかった。
それでも影響は致命的だった。転送路はでたらめに乱れ、送り込まれる悪魔はミンチ機に放り込まれたも同然だった。多くの悪魔が次元門から足を踏み出した瞬間に首を落とし、手足と胴をばらばらに転送されるか、転送魔法に押し潰されて奇怪な肉片と化した。
転送による死亡率は極めて高い。それでも殺戮と破壊を好む本能に突き動かされ、悪魔たちは欲望を満たす機会を一つも逃すまいと、後から後から湧き出してきた。
そのとき、天上のバンシーが朗々と歌い上げた。凄艶なソプラノが夜空に響き渡る。だが低階の悪魔にとって、それは命を奪う奪魂曲だった。歌声を耳にした悪魔は全身をわななかせ、七竅から黒い血を流し、覚めない悪夢に落ちたかのように、極度の恐怖の中で痙攣しながら倒れて息絶えた。
歌声の届く範囲は、すべて即死の領域だ。下等な悪魔が容赦なく屠られていく光景に、サキュバスはかすかに眉をひそめた。地上の戦況に、姉を轢き潰すという愉しみを邪魔されたくはない。
両手をひらりと翻し、射程を拡張した三階魔法——「遮音結界」を放つ。
ほのかに光る半透明の幕が、伏せた巨大な椀のように場内全体を覆い、バンシーの致命の歌声を完全に遮った。全軍に防死結界を掛けるより魔力を節約でき、しかも防護効果は完璧だ。魔力の光の覆いは、宿命の姉妹と地上で喰らい合う大軍とを、容赦なく隔てた。
先に手を変えたのはバンシーだった。両腕を広げると、空にたちまち体温を奪う激しい寒風が吹き荒れる。
五階魔法、極凍陰風。競技場全体が骨身に染みる寒気に包まれ、指さえ凍りついて折れそうになる。冷気を恐れない不死者たちは水を得た魚のようだが、奈落の灼熱に慣れた悪魔たちは悲鳴を上げた。
「なんだこのクソみてえな場所は、寒すぎるだろ!」「関節が凍っちまった!」「どこだよここは!?殺させろ!」
寒風の中で、悪魔たちの体力はみるみる奪われていく。ウェルズでさえ、やむなく自分とサンドラに三階魔法の冷気抵抗を急いで施した。そうしなければ、たちまち五本の指が凍って落ちていただろう。
この陰風も、高階魔法の免疫環境をまとうサキュバスには通じない。だが地上の悪魔たちは絶対的な劣勢に追い込まれ、亡霊戦旗の呼びかけを受けた不死者の大軍は、ここぞとばかりに攻勢を強めた。
「そんなに兵を並べて遊ぶのが好きなの?姉さん?」
サキュバスは冷ややかに鼻を鳴らすと、身の回りに防護矢の光の覆いを展開し、地上の不死者が投げつける長槍や放つ骨の矢をことごとく弾き返した。続けて両手を高々と掲げ、五階魔法——地獄熱力を呼び起こす。
彼女を中心に広がるこの大範囲の領域魔法は、大地を焦土に変え、草木を自然発火させ、生き物を熱で衰弱死させるほどのもの。極凍陰風とはまさに正反対の魔法だ。
だが、ここは陰気に冷え切った不死者の聖地なのだ!恐るべき熱波はもとからの寒気と極凍陰風に真っ向からぶつかって打ち消し合い、なんと戦場全体の気温を、きわめて快適な二十度にしてしまった。極凍陰風の殺傷力は大きく削がれたものの、依然として戦局を縛り続けている。
「捨て駒どもは放っておいて、そろそろ私たちの文明的な殺し合いといきましょう?」
戦略面で優位に立てず、数に限りのある悪魔では地の利を握る不死者にとうてい太刀打ちできない——そう見て取ったサキュバスは、先手を打ってバンシーに仕掛けた。バンシーさえ先に片付ければ、残りの敵はすべて楽に轢き潰せる。
「とっくに死んだ人間は、おとなしく消えなさい!」
サキュバスが細い指をすっと遠くへ向けると、五階の死霊系魔法——安息命令が発動した。
法術の霊光が頭上から降り注いだ瞬間、バンシーはこの世への未練が急速に薄れていくのを感じた。不死者としての存在を支える執念が崩れ始め、諦めの念が次々と脳裏にほの暗く浮かび上がる。
「どうして妹と殺し合いを続けなければならないの?もう何もかも私には関係のないことでしょう……」
「死者が生者の世界に干渉するのは間違っている……」
「早くすべてを終わらせて、生まれ変わって、新しい人生を始めよう……」
その念に身を委ねて沈んでしまえば、彼女の存在は一瞬で跡形もなく消し飛ぶ。不死者専用の即死効果であり、四階以下や心を持たない不死者なら一撃で葬り去るほどの威力を持つ。彼女の姿はすでに明滅し、薄れ始めていた。
消滅寸前の瀬戸際で、バンシーは悪念への抑えを一気に解き放った。望月城に渦巻く巨大で狂暴な負エネルギーが、堰を切ったように身の内へ流れ込んでくる。
「まだ終わっていない……!国を守るのは執政官の務めだ!守りきれずとも、すべてを滅ぼした者を道連れに地獄へ引きずり込んでやる!」
空ろな眼に、猩紅の凶光がかっと迸る。体内に流れ込む巨大な悪念を拠り所に、法術による心霊支配を力ずくではね返したのだ。
「あんたって本当に、図々しいくらいこの世にしがみつくのね!」サキュバスが嘲りの声を上げた。
必殺の一手を凌いだバンシーは、すかさずやり返した。両手を舞わせ、優美な歌声で身の毛もよだつ黄褐色の陰雲を呼び寄せると、地面へとゆっくり降ろしていく。
この陰雲は視界を遮るばかりではない。悪魔が触れればたちまち皮膚が裂け、生臭い膿血を垂れ流し、凄まじい苦痛の中で溶け崩れて死ぬ。恐るべき五階魔法「死亡陰雲」——強力な範囲瞬殺の効果を持つ魔法だ。
毒雲が地表をなめるように進むと、悪魔の群れは刈り取られる麦の穂のように倒れていった。一方、雲に呑まれた不死者は傷一つ負わない——この魔法は生者にしか効かず、疫病は死者を蝕めないからだ。陰雲を操るバンシーは、ウェルズたちのいる場所も意図して避けていた。
「死人のくせに、あんな弱っちい凡人どもを気にかけてどうするのよ?」
サキュバスの十指がピアノを奏でるように優雅に舞い、艶やかな魔法の軌跡を描き出す。と、その指にはめた宝石の指輪が、ぱきりと砕けた。
魂が震えるような墨緑色の光線が指先に凝集し、常人の目には捉えきれない速さで空気を裂いて、バンシーへと放たれた。
六階魔法、解離万物。
聖階の強者でさえその名を聞けば震え上がる、卓越した魔法だ。恐ろしいのは純粋な力場の瓦解による損傷で、これを防げる防護はほぼ存在しない。力場壁すらやすやすと貫き、聖階の装備さえ破壊しうる。死霊の体で耐えられる道理などなかった。
バンシーは必死に身をかわしたが、墨緑の光線はあまりに速く、肘をかすめた。その刹那、腕と肩、さらに胴の大半がごっそりえぐり取られたかのように、跡形もなく消え失せた。周囲の濃密な負エネルギーが欠けた部位へ猛然と流れ込み、ようやく人の形を取り繕う。
この地の負エネルギーが桁外れに膨大で、絶えずバンシーの体を再構築してくれなければ、解離術を受けた瞬間に彼女は完全に消え去っていただろう。
「姉さん、昔は近接戦なんてまるで駄目だったじゃない。この剣で、私が直々に送ってあげるわ」
バンシーが体を繕う隙を突き、サキュバスは妖しい光を明滅させる付与の長剣を抜き放った。
剣身には鋭化、呪詛、深残、厄運、破敵・不死者の禍々しい銘文が絡み合い、剣は一条の残影となってバンシーへ猛然と斬りかかる。
「解離術……?あの女、この稀有な魔法を封じた指輪まで手に入れていたの」
墨緑色の恐ろしい光を目にし、死雲の縁で剣を振るって悪魔を斬り伏せていたフリーデの胸に、ふと思いがよぎった。
思い出したのは、アレクシオスがかつて編纂した三冊の魔導書——『咫尺の書』、『場域の書』、『葬儀の書』だ。解離術は『場域の書』に記された最上級の魔法であり、アレクシオスほどの強者ともなれば、聖階すら震え上がるこの法術を、ありふれた一手として瞬発してみせたものだった。
非生命体のフリーデに、死雲の即死効果は通じない。彼女は死雲の奥へと踏み込み、毒雲に紛れて物の怪のように駆け抜けながら、高階の悪魔の首を一つ、また一つと刈り取っていく。こうして昔を思い返す余裕があるのも、ひとえにバンシーが低階の悪魔の脅威を広範囲にわたって一掃してくれたおかげだった。
「早く彼女を助けて!死なれたら、私たちじゃあのサキュバスは絶対に止められない!」フリーデは少年に向かって叫んだ。
「分かってる!あいつがあれだけ魔法をばら撒いて場を掃除したのは、俺の手を空けさせるために決まってるだろ!」
ウェルズはとうにバンシーの戦術的な狙いを見抜いていた。今はサンドラが剣を手に傍らで護衛についてくれている。悪魔に詠唱を邪魔される心配はまったくない。
少年の頭脳がめまぐるしく回転する。相手には真知術が掛かっている——つまり陰影、不可視化、鏡影、幻術といった攪乱の手はすべて通じない。心霊障壁は精神攻撃まで無効にする。得意の技はことごとく封じられ、六階にも達する強靭な肉体と高等悪魔の火炎抵抗の前では、三階の火球術一発などものの数にも入らない。
この瞬間、ウェルズは自分が担うべき役割をこれ以上ないほどはっきりと悟った。
「この力は、もともとお前のものじゃない!」
ウェルズの指にはめた法術増幅の指輪がまばゆい光を放ち、宙に浮かぶ魔導書がひとりでにめくれて、頁に刻まれた優美な魔法の符文から眩い金光がほとばしった。彼は華麗な攻撃法術には目もくれず、最も飾り気のない解法を選んだ。頁を焼き、六階に強化した解除魔法を起動する!
半空では、戦法転換を起動したバンシーが、武闘家の鱗甲の拳の体術でサキュバスと死闘を演じていた。鱗甲の拳とは、彼女の体内に縫い込まれた魂の一つが生前に属していた武闘家の流派で、虎勢、鶴勢、竜勢はいずれもこの流派に伝わるものである。バンシーは危うい場面の連続だった。負エネルギーはまだ解離術の傷を癒しきれておらず、そこへサキュバスの毒蛇のような剣術が追い打ちをかける。魔法の飛舞防盾がバンシーの重い拳を次々と受け止め、鏡影術が視線を惑わす。サキュバスは延展剣気を織り交ぜて距離を取り、二人の間合いを剣が有利な長さにぴたりと保った。バンシーは無様に打ちのめされていた。
だが、ウェルズの解除魔法が命中した瞬間、サキュバスをまとう分厚い魔法の霊光がにわかに翳った!
長効防死結界と長効非凡幸運、破除!
ウェルズは顔色一つ変えずに詠唱を重ね、またも解除魔法を正確に命中させる。
飛舞防盾、破除!
サキュバスの周囲を旋回し、バンシーの反撃を受け止めようとしていた魔法の盾が、宙で砕けて消え去った。
非凡幸運の庇護を失ったサキュバスから、運命の加護が消えた。虎の咆哮を思わせる勢いでバンシーが放った重い拳は、幾重もの鏡影の中から直感だけで一発で捉え、サキュバスの実体の肩に容赦なく叩き込まれた。激痛にサキュバスは凄絶な悲鳴を上げる。
防死結界の守りが消えたことで、バンシーの吸能の触がすぐさま効き始めた。冷たい死の気が拳から流れ込み、サキュバスの体力とエネルギーを猛烈な勢いで吸い上げていく。サキュバスにも同種の冒瀆の触はあるが、不死者にはまるで効かない。
本来この効果を無効にしていた防死結界をウェルズが解除したからこそ、吸能の触はこれほどの効果を発揮できたのだ。
一方は戦うほどに勢いづき、一方は防護を一枚、また一枚と剥がされていく。階の上では絶対的に優位に立ちながら、サキュバスは思うように速戦即決とはいかず、かえって泥沼の消耗戦へと無理やり引きずり込まれた。
「このクソ女、戦法転換なんてどこで盗み覚えてきたのよ!」サキュバスは怒り狂って吠えた。
「人は変わるものだ。お前と同じようにな」バンシーは涼しい顔のまま、ますます鋭く攻め立てる。
拳風と剣影が激しく交錯し、サキュバスの鋭い剣光とバンシーの虎の拳が入り乱れてぶつかり合う。二人が膠着するあいだ、地上のウェルズは冷徹な詠唱機械さながら、辛抱強く何度も何度も解除魔法を唱え続けた。
防護矢、鏡像残影、免疫環境……サキュバスが誇る切り札は、ウェルズに正確に狙い撃たれ、一つ、また一つと崩れ去っていく。
それだけではない。ウェルズは『咫尺の書』の四階魔法である錯位残影と閃爍移動をバンシーに掛けた。バンシーの姿はたちまち捉えどころがなくなり、閃爍で致命的な延展剣気をかわしては、サキュバスの背後へ瞬間移動して猛攻を浴びせる。サキュバスは振り向いて受けるのが精一杯で、防戦一方に追い込まれた。
だが、見る者が見れば分かる。バンシーはなお無理を押しているにすぎず、劣勢に立たされているのは依然としてバンシーのほうだった。
解離万物による深手に積み重なる剣傷が加わり、その体は限界に近づいていた。
「姉さん……本当にしつこいわね!この一太刀で、きっちり片を付けてあげる!」
サキュバスが高らかに詠唱すると、手にした魔法の長剣から、たちまち目を刺す烈焔が噴き上がった。邪悪と高温の二重の属性を帯びた冒瀆灼焔——街区一つを丸ごと灰にするほどの威力だ。
ウェルズは一目で見て取った。あれは地獄烈焔光線と同等に危険な邪悪の火だ。
「まずい……付与の長剣にあの烈焔が加われば、バンシーの魂ごと斬り飛ばされる!」
サキュバスはバンシーの拳を一発まともに食らうのと引き換えに両手で剣を握り、剣身に数十メートルにも及ぶ爆炎を凝集させて、横薙ぎに振り抜こうとした!
命中すれば、バンシーはまず助からない。そうなれば地上のウェルズたちも終わりだ。
間一髪の瀬戸際で、ウェルズの脳裏に閃きが走った。両手ですばやく印を結ぶと、冷たく陰鬱な漆黒の光線が数条、指先に凝集する。
「低階の光線ごときで……私に傷をつけようっての?!」サキュバスはウェルズの動きを鼻で笑った。溜めに溜めた長剣が荒々しく振り抜かれ、数十メートルの烈焔の斬撃がバンシーをあっさりと呑み込む。余った剣気は勢いを衰えさせることなく、遠くの空まで切り裂いた。
「!!」まともに斬撃を浴びたバンシーは今にも霧散しそうになり、その姿はみるみるうちに透けるほど翳った。
冒瀆の火が彼女の体を貪り、その存在を猛烈な速さで消し去っていく。そのとき、ウェルズが手を掲げ、漆黒の光線を数条まとめて撃ち放った。
「遅い……遅すぎるわ!あんたのそんな攻撃じゃ何も変わらない!無意味よ!」消えゆくバンシーを眺め、サキュバスは勝ち誇った哄笑を上げた。
だがウェルズは口の端を吊り上げた。「そうか?」
見れば、漆黒の光線は宙に奇妙な弧を描き、サキュバスからまるで見当違いの方向へ逸れていく。
少年は怖じ気づいて狙いすら定まらないのか——そう嘲ろうと口を開きかけたサキュバスの笑みは、次の瞬間、顔に張りついたまま凍りついた。
あの漆黒の光線が、瀕死のバンシーに寸分違わず命中したのだ。
漆黒の光は瞬時にバンシーのぼろぼろの霊体へと滲み込み、烈焔に焼き尽くされかけていた体は奇跡のように安定を取り戻して、消滅の淵から強引に引き戻された。
「そ……そんな!?あんた、何をしたのよ?」サキュバスは目を見開き、驚きのあまり声が裏返った。
「負エネルギー光線さ」ウェルズは悠然と笑った。「知ってのとおり、生者には命取りの負エネルギーも、不死者にとっちゃ最高の治癒術なんでな」
戦局は、この瞬間から真の逆転を迎えた。
サキュバスとバンシーは再び死闘を繰り広げた。だがウェルズの支援によって、形勢は完全にひっくり返っていた。バンシーが傷を負えばウェルズが負エネルギー光線で癒し、状態が落ち着けば解除魔法でサキュバスの防護を剥ぎ続ける。
サキュバスは怒りに顔を歪め、整った顔立ちをくしゃくしゃにした。
三階の蟻けら一匹に絶好の流れをめちゃくちゃにされ、彼女は正気を失った。
「この気持ち悪い虫けらが!死ね!!」
バンシーの重い拳を立て続けに浴びるのも構わず、彼女は強引に両手を引き抜くと、地上のウェルズめがけ、極大化と強化の超魔で強められた六階の火球術を叩きつけた!あまりに憎たらしい。今すぐ黒焦げにしてやる!
六階の火球に極大化の超魔が重なり、その威力は凄まじい。小さな太陽のような灼熱の火球が轟音とともに落ちてくる。ウェルズは内心で「まずい」と呻いた。速すぎる。自分ならかわせても、サンドラには絶対に無理だ。次元門を開いて逃げる暇もない。
「ドォン——!!」
火球は流星のごとく地面に激突し、たちまち野を焼き尽くすような烈火が爆ぜた。サキュバスは悪辣にも遅延発動の超魔まで重ね、噴き上がった烈焔を丸六秒間も地上で荒れ狂わせた。
またたく間に、巻き込まれた不死者も悪魔もことごとく灰と化し、空気には身の毛もよだつ、肉の焼ける香ばしい匂いさえ漂った。
火炎抵抗に優れた悪魔でさえ、難を逃れられなかった。極大化火球術の破壊力は、それほどまでに圧倒的なのだ。
「これで骨も残らないでしょう!」
サキュバスは溜まった鬱憤ごと長い息を吐き出した。胸のつかえがすっかり消え、さっきバンシーに何発か殴られた痛みさえ、どうでもよく思えてくる。
だが次の瞬間、火の手が引いていくと、焦土の中には少年と少女がなおもすっくと立っていた。
「どうして……あんたがまだ生きてるのよ?!」サキュバスの顔は激しい憤りに醜く歪んだ。
「運がよかったよ。開戦前に、長効触発術で高階エネルギー抵抗の巻物を紐付けておいたんでな」
ウェルズは顔の煤を拭いながら、内心で冷や汗をかいていた。致命的な元素攻撃を受けた瞬間、触発術が防護の巻物を自動で起動し、二人の命を救ったのだ。代償といえば、せいぜい煤まみれになった程度だった。
彼は得意満面ににやりと笑って白い歯を覗かせ、これでもかとばかりに皮肉たっぷりに言い放った。「はっはっはっは、笑い死にしそうだ。お前のその一発で吹き飛んだ味方のほうが、俺に与えたダメージよりよっぽど多いぞ。次に火球を撃つ前に、制御火球くらい習得しとけよ!」
その辛辣で憎たらしい態度に、サキュバスは怒りで全身を震わせた。
「あんたのその口、引き裂いてやりたいわ!」
「その提案には私も賛成」遠くからフリーデが冷ややかに追い打ちをかけた。
だが、サキュバスがその望みを叶える機会は二度と訪れなかった。あの憂さ晴らしの火球で、戦局を覆す最後の好機を使い果たしてしまったのだ。
ウェルズは非情なメトロノームのように、絶え間なく解除魔法を放って彼女の状態を剥ぎ取りつつ、力量増幅や増速致勝といった強化魔法を、出し惜しみなくバンシーへ注ぎ込んだ。
負エネルギー場の加護を受けたバンシーは戦うほどに勢いを増し、サキュバスを完全にねじ伏せた。最後の「免疫環境」まで剥ぎ取られると、骨身に染みる極凍陰風とバンシーの吸能の触が相まって猛威を振るい、サキュバスに残された最後の一滴の力まで容赦なく搾り取った。
「嫌……こんなの認めない……!私の計画が、こんなところで終わっていいはずがないでしょう?!姉さん、見逃して!」
力尽きたサキュバスは身を翻し、空へと逃げ出した。だが妹の命乞いを前にしても、バンシーの目には一片の憐れみもない。一条の残影と化して、その後を追いすがる。
サキュバスは魂の底に残った最後の魔力を振り絞り、次元門をこじ開けて一目散に逃げようとした。だが、フリーデがそれを許すはずもない。
銀髪の少女が指先を軽く動かすと、金光を放ったばかりの次元門は泡のようにはじけて閉じた。最後の活路が目の前で魔法の霊光の名残へと変わっていくのを見て、サキュバスの心は完全に絶望の淵へと沈んだ。
「いいわ……どうせ死ぬなら、一人くらい道連れにしてやる!」
彼女は絶望と狂気の入り混じった凄惨な笑い声を上げた。次の瞬間、指にはめていた、苦痛の精華から錬成された宝石が勢いよく砕け散った。
墨のように濃い漆黒の負エネルギーが腕に絡みつく。死の間際の悪あがきとして、彼女は道連れを象徴するその人差し指を、地上のウェルズへとぴたりと突きつけた。




