第一章 始まりの地
快速艇に乗って帝国を離れたのち、少年と少女の二人は港へたどり着き、船を乗り継いで西方大陸へと向かった。教会が荒涼たる辺境に設けた禦死長城を目指すためである。本来なら、長くはあっても比較的平穏な旅になるはずだった。
巨大な客船が蒼藍の海面を切り裂き、幾重もの真っ白な波しぶきを巻き上げていく。ウェルズはひんやりとした金属の手すりに両手をついていた。かすかに潮の香りを含んだ海風が正面から吹きつけ、髪をかき乱していく。
遠く、海と空の交わるあたりにはどこまでも深い色が広がり、時おり数羽のカモメがマストをかすめては、澄んだ声で鳴いた。
ずっと以前、ラロリアと汽船で帝国へ向かったこともあった。あれから起きた数々の出来事を思えば、世の無常を感じずにはいられない。
「まさか、あいつが帝国の皇女だったとはな。ただの貴族だとばかり思っていた」
東大陸で最も強大な国、堂々たる帝国の皇女が、よりにもよってライカベサまで来ていたのだ。
搾りたての冷たいイチゴジュースを手に、桃色の髪の少女サンドラが軽やかな足取りでそばへやって来た。「あの子が帝国の皇女?本当に、人は見かけによらないね」
飲み物を軽くすすりながら、ウェルズは気ままに軽口を叩いた。「回帰の定理によれば、皇帝の知能指数が高いほど、子孫が平均まで落ちる確率も高くなるってわけだ」
「私はそんなふうには言ってないよ」サンドラは優雅に笑った。
「何を怖がることがある。この果てしない大海原の上なら、何を言おうが帝国の応策局だって俺を捕まえられやしない」
彼は肩をすくめて応じた。
ウェルズは笑みをいくらか収め、眉間に暗い未来への重苦しさを滲ませた。「だが、かつて教廷と真っ向から張り合っていた巨大な帝国が、まさか終末救贖者と繋がっているとは……その裏にどれほど巨大な陰謀が潜んでいることやら」
そう思うと、少年は肩の荷が少し重みを増した気がした。
「疲れたなら、いっそ行くのをやめたら?どうせ君、復讐はもう果たしたんでしょ?お金を持って、誰も知らない土地を見つけて隠遁すればいいじゃない」サンドラは何気なく言ったが、その視線は遠くの水平線に向けられていた。
ウェルズは首を振って断った。「俺はラロリアとの約束を果たさなきゃならない。あいつは……俺を救ってくれたからな」
「いつか必ず帝国へ戻って、あいつを救い出す。だがその前に、まずはあいつに託された任務を果たさないとな」彼は顔を上げ、とうに水平線の向こうへ消えた東大陸を眺めやった。
「教廷は帝国に引けを取らない巨大な存在だよ。帝国の対秘密結社の実力は君も思い知ったでしょ。今度私たちが行く禦死長城は、教廷の絶対的な勢力圏。あそこで騒ぎを起こせば、帝国で捕まるよりましな結末になんて、絶対にならないよ。まして……今の君は、教廷に指名手配されている逃亡犯なんだから」サンドラはそう諫めた。
その言葉を聞きながら、ウェルズは空間魔導書を盗み出し、彼女と別れた時のことを思い返した。
「フリーデリカは今ごろ何をしているんだろうな」
彼はその考えを振り払った。
「昇級のための象徴はもう手に入れた。無事に四階魔法使いへ突破できれば、自分の身くらいは守れるようになる。たとえ教廷の追っ手が本当に押しかけてきても、説得してみせるさ」
「大した自信だね」サンドラは軽く笑った。「じゃあ、四階魔法の魔法書と昇級を補助する材料は用意できたの?」
「ああ、手に入れたよ。聚宝者が捕まったあと、あいつの持っていた魔法書や貴重な材料は全部俺の戦利品になった。財産もいくらか換金したから、今の俺はこれでも金貨二百枚の資産を持つ富豪さ」
「皇女の特権って、ほんと常識外れだね」サンドラは舌を巻いた。「帝国の皇帝はたった一言で、帝国内で起きた事件を善にも悪にも好きに決めてしまえるんだから。それに噂どおり、質麗皇女を極端に溺愛しているんだね。彼女が天宮に戻る気にさえなれば、どんな願いも叶えてもらえる。伝説に聞く有限願望術(リミテッド・ウィッシュ)だって買ってこられるんじゃないかな」
「この旅がどれほど危険かもう分かったうえで、それでも俺を助けて、一緒に禦死長城へ行ってくれるのか?」ウェルズは振り向き、傍らの愛らしい顔立ちの少女を真剣に見つめた。
「もちろん。前に言わなかった?私の命は、君のもの」サンドラは穏やかな口調で、それでいて少しのためらいもなく、生死を共にする誓いを口にした。
少年は肩がまた一段と重くなった気がした。ラロリアとの約束だけでなく、今やサンドラの人生まで背負っているのだ。
「今の言葉は……告白と受け取っていいのか?」ウェルズはからかった。「まさか、いつも自分のことしか考えない煉獄騎士の口から、そんな台詞を聞けるとはな」
「全部ただの取引だよ」サンドラは白い目で彼を見た。「私は等価交換の原則に従っただけ。私にとって、君から受けた恩は一生かけて返すだけの価値があるの。君がいなかったら、私なんてとっくに白骨になってたよ」
彼女は美しい桃色の瞳を上げ、少年の目をまっすぐに見つめた。この上なく真剣な面持ちだった。
「イチゴジャム数瓶で、そんな値の付けようもない感情が買えるとは思えないな。恩返しなら恩返しって言えばいい。そんな回りくどい言い方はしなくていい」ウェルズはしみじみと言った。「恩返しを知る煉獄騎士か。そんな肩書き、口にしたところで大陸中の誰も信じないだろうな」
「君、ずいぶん素直になったみたいだね」サンドラは口の端をわずかに上げた。「昔の君だったら、きっと分からないふりをしてたのに」
「イチゴジャム」という評を聞いて、少年は小さく笑い声を漏らした。
「かもな。確かに俺はずいぶん変わった。質麗皇女と過ごして、ようやく気づいたんだ……人ってのは、いつも敵意を抱いて互いを出し抜こうとしなくてもいいんだってな」
「あいつは優しくて、元気が有り余ってる奴だ。感情がまっすぐで、喜怒哀楽が全部顔に出る。俺はあいつに、ずいぶん影響されたよ」ウェルズは波を見つめ、眼差しを和らげた。「俺はあいつの生き方が好きになりかけてるんだ——言いたいことははっきり言う。敵が来れば全力でぶつかる。仲間は絶対に見捨てないし、一人で危険な目に遭わせたりもしない」
「君みたいな腹黒い奴をここまで変えるなんて、その皇女様は大したものだね」サンドラは肩をすくめ、すぐに話題を変えた。「今夜、この船のシェフの特別料理はタラバガニなんだって。一緒に食べに行く?」
少女の提案を、彼が断る理由はもちろんなかった。
二人は連れ立って、客船の豪華絢爛なレストランへ入った。食欲をそそるバターと海の幸の香りが正面から押し寄せ、きらびやかな銀の燭台の上では、贅沢な暖色の燭光が揺らめいている。
二人は静かな窓際の席を選んだ。給仕に料理を注文し終えると、ウェルズが先に口を開いて話題を振った。「優雅で心惹かれる香りがするな。少し海の気配が混じってる」
サンドラは桃色の瞳を巡らせ、卓上の燭台をちらりと見た。「蝋燭の香りだよ。この船の高級な蝋燭には香鯨油が混ぜてあるから、燃えるとこういう独特の香りがするの」
「なるほど」ウェルズは頷き、すぐに本題へ入った。「禦死長城とは、いったいどんな場所なんだ?」
「名前のとおり、不死者の侵入を防ぐ要の防衛線だよ。教廷はあそこに大軍を駐留させていて、毎年、大勢の聖騎士と高階の司祭も送り込んで祈祷と祝福を捧げさせてる。光明神術で、外へ広がろうとする亡霊の荒野を抑え込んで、追い散らしているの」
「亡霊の荒野?詳しく聞かせてくれるか?」
「長城が防いでいるその荒野は、言い伝えによれば上古の時代、この上なく栄えた巨大な国だったらしい。何か未知の災厄のせいで、今ではすっかり、生者の立ち入れない不死者の国に成り果てている」サンドラはフォークでテーブルを軽く叩いた。「あそこには数え切れないほどのバンシー、縫合憎悪、リッチ、スケルトン、ゾンビといった不死者がさまよっている。足を踏み入れるのは至難の業だよ。休みなく続く怪物の襲撃をさばかなきゃいけないうえに、あそこに年中立ちこめている死者の寒気は、人の魔力も血液もまとめて凍らせてしまうんだから」
「俺は後天的な陰影の血脈を持つ身だから、負エネルギーの寒気にはある程度の耐性がある。あとは特製の装備をいくらか用意すれば、中で長期間生き延びるのは問題ないはずだ」ウェルズは自信ありげだった。
「どうしても入るつもりみたいだね」サンドラはもう一度肩をすくめた。
「ああ。約束を果たすためだけじゃない。聞いた話じゃ、あそこには『超凡衰弱』の究極の秘密も隠されているらしい。お前は気にならないのか?」
「もちろん気になるよ。その真相が分かれば、闇市で国が買えるほどのとんでもない高値がつくだろうね。でも……その話、誰から聞いたの?」ことがこれほど重大な秘密だけに、サンドラはむしろ情報の確かさのほうが気になるようだった。
「帝国の皇女から聞いた」
「あの時の彼女は、帝国皇女の資源を使って調べていたわけじゃない。信憑性には疑問が残るね」彼女は少し間を置いて続けた。「でも、何百年何千年ものあいだ、生者が亡霊の荒野の最奥に足を踏み入れたことは一度もない。ありえない話がもう一つのありえない話と結びつくと、かえって少しは信じられる気がしてくるね」
「お前の体質は、不死者の国の環境に適応できるのか?」
「見くびらないで。煉獄騎士の訓練課程で、不死者の相手をする必修科目は嫌というほど受けたんだから」
話しているところへ、給仕が湯気の立つ料理を運んできた。二人は上品な手つきで料理を味わう。透きとおった蟹の身に芳醇なソースが絡んで食欲をかき立て、まさに手が止まらなくなる海の幸のご馳走だった。
数口味わってから、ウェルズはまた少女に尋ねた。
「月の潮汐という言葉を聞いたことはあるか?」
彼女は可愛らしく眉を寄せ、記憶を探っているようだったが、やがて答えた。「聞いたことないね。それ、どこで聞いた言葉?」
「皇女殿下が口にしてたんだ。話の流れからすると、亡霊の荒野になる前のあの栄えた古の国が、どうもそういう名前だったらしい」
サンドラは長いこと考え込んだ。「これは重大な情報かもしれない。信使魔法で法序王国の主幹騎士に訊いてみる。資料を出してもらえたら、また君に答えを伝えるよ」
「構わない」ウェルズは気前よく応じた。「かなり高くつくはずだ。金は俺が出すよ」
「一緒に行動するんだから、料金は取らないよ。これだけ長く生きてきたんだもの、私にだって蓄えくらいある」
二人のあいだの遠慮が見透かされ、一瞬、気まずい空気が流れた。だが少年はすぐに、吹っ切れたように笑った。
「気まずがることなんてないだろ?子供の頃だって、こうやって支え合いながら何年も放浪してたじゃないか」ウェルズは卓上の料理と、燭光に照らされた少女の柔らかな顔を見つめた。その眼差しには懐かしさが滲んでいた。
「覚えてるぞ。お前、昔は海辺の街に住むのが夢だって言ってたよな。そうすれば毎日ただで魚を拾って食べられるからって」
「明日をも知れないほど飢えてた頃のたわ言でしょ。今は……大都市でいちばん豪華な宿に住みたいかな。ベッドがふかふかで暖かいから」サンドラは軽く鼻を鳴らした。
楽しい晩餐のひとときは飛ぶように過ぎていった。数日後、客船は無事に西大陸の埠頭へ接岸した。そこは禦死長城のすぐそばにある、栄えた軍港都市だった。
客船を降りると、二人は人でごった返す埠頭で別行動を取った。
この都市は教廷の属国の領地で、帝国ほど検問が厳しくないため、二人は自由に動けた。ただ、街の至るところに銀の鎧をまとった聖騎士や経典を捧げ持つ司祭の姿があり、宗教と戦備の気配が濃く漂っていた。
「じゃあ私は先に情報網に連絡を取ってくる。あとで、決めておいた宿で落ち合おう」
サンドラと別れたウェルズは、長城周辺行きの切符を買いに駅へ足を運び、ついでに近頃の情報を集めることにした。
「号外!号外!そこの紳士さん、新聞を一部どうです?近頃の大事件が分かりますよ!」駅のそばで、新聞売りの男の子が威勢よく声を張り上げていた。
ウェルズは小銭を取り出して一部買い、切符を買う列に並びながら手早く目を通していった。
「虹湾王国北方で未知の危機が勃発!隣国が緊急に救援へ!帝国調査団、近く調査に出発!」
「ライカベサ内戦は膠着の泥沼へ、難民が激増!」
「聖女、使節の任を無事に終え、教廷本部に安着!」
「聖女が戻ったのか?なら、シャーロットもそばにいるはずだな」
見知った名前を目にして、ウェルズの胸にぼんやりとした直感が湧いた。ヴェールをまとい、超凡衰弱を越えて聖者となったあの少女に、自分は会わなければならない。
前回は会えずじまいだったのが、少し心残りだった。
「前みたいに彼女に頼めば、シャーロットを貸してもらえるかもしれない。そうなれば、禦死長城の奥に潜む巨大な脅威も楽に片付けられる」
切符を買い終えた少年は、異国の街路をそぞろ歩いた。
目下最も差し迫っているのは、やはり一刻も早く四階魔法使いへ昇級することだ。ひとたび中階領域の巓峰に踏み入れば、たとえ聖階の強者の急襲を受けても命だけは守れるし、逃げおおせる目も出てくる。
彼は大きな市立図書館に腰を落ち着けると、聚宝者から得た魔法書を懐から取り出し、知識の海に没頭した。
「ラロリアのくれた象徴のおかげだ。でなければ、四階魔法使いの敷居にすら手が届かなかった。本に載ってる三階魔法は、今すぐにでも覚えられる。四階のほうは今は読むことしかできない。何度も何度も読み込んで、昇級したその日にようやく放てるわけだ」
ウェルズは頁をめくりながら、頭の中で戦術を組み立てていった。「『狂気の笑話』。標的を抑えきれない笑いの渦に叩き込む。詠唱を中断させられるうえに、敵をまな板の上の鯉にもできる。『高等不可視化』。攻撃を仕掛けても不可視化が解けない。潜入と暗殺にはまさに神技だ。そこへ『エネルギー防護』と『石膚術』を加えて生存率を確保すれば……」
彼の指が頁のある箇所で止まり、口の端が満足げな弧を描いた。「いちばん見事なのはこれだ——『陰影法甲』。聚宝者が陰影学派まで研究していたとはな。まさに俺のために誂えたような防御法術じゃないか。負エネルギーの侵蝕を大幅に防いでくれる」
こうした機能的な法術のほかに、ウェルズは極めて破壊力の高い灼熱竜息も重点的に研究した。すでに使い慣れた雷獄沸騰と組み合わせれば、彼を見くびる敵など一人残らず跡形もなく消し飛ばし、生きては帰さないだろう。
魔法の研究と解析に没頭するうちに、時間は飛ぶように過ぎていった。ところが図書館は、午後のうちに早くも繰り上げ閉館の鐘を鳴らした。
「利用者の皆様、お邪魔して申し訳ありません!最近、町外れで失踪事件が立て続けに何件も起きております。安全のため、図書館は閉館を繰り上げます。皆様、日没までにできるだけ早くお帰りください!」司書が大声で促していた。
「失踪事件?防衛線を越えてきた不死者の仕業ですか?」ウェルズは進み出て尋ねた。
彼は旅行案内に書かれていた警告を思い出した。あの不死者どもは生者を極度に憎んでいる。奴らは干からびた爪で生きた人間の胸を引き裂き、朽ちた骨を再び温かい鮮血に浸すことを渇望している。そして奴らに殺された者も、最後には奴らの同類に成り果てる。
「十分ありえます。ですが長城守備軍がもう何度も洗い出しをしていて、防衛線には綻び一つないそうなんです……」司書はやるせなさそうにため息をついた。「教廷はすでにこの件を把握しており、対処のために高級神官を緊急に派遣しました。ですが真相が明らかになるまでは、私どもは早じまいするほかありません」
事情を知ったウェルズは本をしまい、夕陽の残照の中を宿へ戻った。
「お前のほうは、何か役に立つ情報を聞き出せたか?」
部屋の扉を開けるなり、ソファに腰かけた、目立つ桃色の髪の少女が目に入った。
「街の人はみんな怯えきっていて、どこへ行っても失踪事件の噂ばかり。夜には外出禁止令まで出されるようになったよ」サンドラは退屈そうに自分の髪を指に巻いていた。
「俺が聞き出したのとだいたい同じだ。それで、禦死長城を越える方法は?」
「もちろん見つけたよ。いちばん乱暴な方法は、私たちが自分の足で、生身で乗り越えること。あるいは君の空間魔法で反転移法陣の弱点を見つけて、力ずくで転移して抜けること。もちろん、合法的な道もあるよ。教会へ行って特別通行証を申請するの」
「教会へ行って申請する?指名手配犯の俺がそれをやったら、自分から罠に飛び込むのと何が違うんだ?ほとんど死にに行くようなものだぞ」ウェルズは苦笑して肩をすくめた。
「一度、招かれざる客になるしかないみたいだね」サンドラはどこからともなく一枚のリストを取り出した。「この数日で急いで野営の物資を買い揃えなきゃ。駆霊蝋燭、恒温寝袋、不可視看破の巻物、それから各種の対策用の必需品、道具、それに薬。何しろ長城を越えた先は完全な死地で、補給地点は一つもないんだから」
彼女はこともなげに言った。生きて帰れる見込みの薄いこの探索が、まるで郊外へ遠足に行く程度の、気楽でのんびりしたものであるかのように。
「確かに万全の準備をしておくべきだな」ウェルズは頷いて同意した。「歴代の魔法使いは不死者に対抗するために、専用の法術を数え切れないほど開発してきた……これから何晩かは、徹夜で本にかじりつくことになりそうだ」
「それと、悪い知らせが一つ」サンドラはリストをしまい、わずかに目を曇らせた。「情報網から連絡があった。今日の午前、教廷本部が派遣した祓魔使者が、もうこの都市に到着したって」
「誰であれ、出くわさずに済むことを願うよ」指名手配中の逃亡犯の身では、自分の運がそこまで悪くないよう祈るしかなかった。
相談を終えると、二人は簡単に夕食を済ませ、それぞれ部屋へ戻って休んだ。
ざっと顔を洗い、ウェルズは柔らかな寝台に横になった。窓の隙間から夜の冷気が忍び込み、ふと、少し前に質麗皇女と船の一室で過ごした騒がしい日々が思い出された。今は部屋に一人きり。その冷えびえとした静けさに、覚えのない寂しさを感じていた。
「まったく参ったな。まさか俺が、あいつのあのやかましい口を懐かしむとは」
彼は天井を見上げて苦笑した。「あいつは今ごろもう宮廷に戻って、錦衣玉食の贅沢な暮らしを送っているんだろうか……」
とりとめのない考えに身を任せるうちに、ウェルズは次第に夢の中へ沈んでいった。
だが、穏やかな夜にはならなかった。
どれほど眠っただろうか。異様な感覚に、彼は無理やり眠りから引き戻された。
寒い。異常なほど寒い。骨まで刺すような、氷の冷たさだ。
ただの夜寒ではない。血液まで凍りつかせそうな、陰湿な冷気だった。
がばりと身を起こすと、吐いた息が宙で白い霧に変わった。
「これは絶対に普通の冷え込みじゃない……何が起きた!?」
ウェルズはすぐさま寝台を降り、コート掛けのマントを引っ掴んで身に巻きつけると、足早に窓辺へ駆け寄った。
カーテンを勢いよく引き開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に瞳孔が縮んだ。
本来なら空高くに掛かっているはずの皎々たる明月が消えていた。代わりにあったのは、見渡す限りの、濃い墨のように息の詰まる純粋な死の黒である。通りの向かいにはっきり見えていたはずの家屋の輪郭すら、今は何か怪しげな闇にすっかり呑み込まれ、暗く霞んで見分けがつかなかった。
魔力が速やかに両目へ流れ込む。彼は迷わず自分に暗視をかけた。
だが眼前の光景は相変わらずぼやけていて、まるで空間そのものが歪められているかのようだった。
「この状況は……視界が遮られているんじゃない。空間が物理的に引き伸ばされているんだ!俺たちのいる空間が、何か強大な魔法に干渉されている」
空間系魔法への深い理解を頼りに、ウェルズは瞬時に結論を導き出した。
「宿全体が無理やり半次元界に引きずり込まれたのか?ここまでのことができるのは……絶対に侮れない高階の不死者だ!すぐにイチゴジャムと合流しなければ!」
彼は部屋の扉を一気に押し開け、廊下へ飛び出した。
だが、目の前に広がっていたのは、常識を根底から覆す恐怖の絵巻だった。
広々として温かみのあった宿の廊下が、今は無限に引き伸ばされ、果てのない地底の迷宮のように深く続いている。本来なら十歩も歩けば着くはずの向かいの客室が、今は、よほど目を凝らさなければ部屋番号の札も読み取れないほど遠かった。
「不死者が空間を拡張したのか?これほど空間魔法に精通しているとは……まさか幽影悪魔か?それとも虚空行者か?」
頭の中の推測がまだ形になる前に、ウェルズのうなじを、頭皮が痺れるほどの悪寒がいきなり駆け上がった。
悪寒とともに襲ってきたのは、悠揚として縹渺と漂いながら、尽きせぬ哀怨を滲ませた、凄絶なソプラノだった。
彼は弾かれたように振り返った。
廊下の中空に、ゴシック調の黒いドレスを着た少女が浮かんでいた。その精緻な顔立ちと華麗な衣装だけを見たなら、ウェルズはきっと、どこかの家の宴に赴く貴族の令嬢だと思っただろう。だが、半透明で両足のないその虚ろな体が、少年の頭の中で警鐘を狂ったように鳴り響かせた。
「くそっ……葬送のバンシーだ!少なくとも三階の危険度の怪物だぞ!」
ウェルズは歯を食いしばった。「変異した強大な個体なら、五階のバンシーにまで進化しうる。言い伝えでは、高階のバンシーの死の歌声は、一つの村の生きとし生けるものすべての命を一瞬で奪うという」
バンシーは哀しげに中空に浮かび、生気のかけらもない瞳でウェルズを食い入るように見据えた。凄絶な歌声が一気に高まる。
彼女の後方ほど近くで、異変に気づいて部屋を出てきたらしい中年の紳士が、歌声を聞いた瞬間、両目を飛び出させ、七竅から同時に黒い血を流し、悲鳴一つ上げることもなく、泥のようにその場へ崩れ落ちた。
音波の攻撃は実体を持つ鋭い刃のように、瞬く間にウェルズを呑み込んだ。
「ぐあっ……!」
歌声が耳に入った瞬間、ウェルズは無数の冷たい鋼の針が脳に直接突き刺さったように感じた。体は制御を失って痙攣を始め、五臓六腑までもがこの恐ろしい高音の中で激しく共振する。全身の骨が無理やり砕かれてしまいそうだった。そのうえ歌声に含まれた膨大な負エネルギーの侵蝕によって、魔力と生命力が凄まじい勢いで流れ出していく。
「くそっ……まるで全身を機械の攪拌機に放り込まれたみたいだ!」
「あいつを消滅させなければ!」
引き裂かれるような激痛をこらえ、少年は勢いよく手を上げた。古の呪文を瞬く間に詠唱し終える。
灼熱のまばゆい火球が流星のように漆黒の廊下を切り裂き、バンシーへ向かって一直線に飛んだ。
赤々とした高温の烈火が迫るのを見て、バンシーの縹渺とした姿はすばやく宙で虚ろに薄れ、かわそうとした。だがウェルズの火球術はとうに熟練の域にあり、彼女の逃げ道を正確に先読みしていた。
「ドォン!!」
火球は正確に命中し、轟然と炸裂した。激しい爆発の衝撃波が廊下を吹き抜け、両側のガラス窓が同時に耐えきれぬ悲鳴を上げて、一面のきらめく破片となり、雨のように飛び散った。
ところが、烈火が消えたあと、バンシーはその姿こそずいぶん暗く薄れたものの、なおも消え去ってはいなかった!
彼女は激怒した。歌声は一転し、怪しくも耳に快い魔法の旋律を歌い始める。彼女こそ、言い伝えにある歌唱詠唱者だった。
その歌声もまた、十分に危険なものだった。彼女の蒼白い手のひらが振られるのにつれて、陰湿な負エネルギーが瞬時に凝結して数十本の暗い陰影の矢となり、豪雨のように少年へ降り注いだ!
「魔法の呪文とバンシーの歌の融合か?並の人間なら間違いなく死んでる。だが俺相手じゃ物足りないな!」
ウェルズが両手を勢いよく合わせると、その体から目を刺すような白い光が一気にほとばしった。
彼はまず三階護盾を展開した。何ものにも破れぬ魔法の護盾が身の前に立ちはだかる。それと同時に、純黒の魔力が彼の体表で編み上げられ、瞬時に凝結して、幽暗で深みのある一揃いの陰影法甲となった。
バンシーの放った陰影の矢は軌道が怪しく読みがたく、四方八方から襲いかかってきた。だがウェルズの精密な魔力の微細操作のもと、護盾は手足のように自在に動き、大部分の矢を受け止めて弾き飛ばした。防御をすり抜けた少数の矢が少年の肩に命中したが、「陰影法甲」に触れた瞬間、跡形もなく残らず吸い込まれ、さざ波一つ立てなかった。
「この手は俺には効かない!さあ、今度は俺の番だ!」
ウェルズは傲然と冷笑し、手を上げて指を高らかに鳴らした。
刹那、廊下の中に雷鳴が轟いた!
「浩瀚たる奔流の雷を導け!」
荒れ狂う紺碧の電光が彼を中心に轟然と炸裂し、無数の雷霆の大蛇と化して、目にも留まらぬ速さでバンシーを完全に呑み込んだ。
極限まで凄絶な叫びと激しい雷光の爆発ののち、すでに死者であったその亡霊は、ついに跡形もなく消し飛び、あたり一面に舞う焦げた黒い灰の影と化した。
胸を圧していた死の歌声がようやく消え、ウェルズは肩で大きく息をついた。体を苛んでいた苦痛と負荷が、一気にずいぶん和らいでいく。
「ふう……俺に神聖属性の法術が使えたら、さっきはずっと楽だったんだがな。四階の神術、不死浄化なら、一撃でこの手のバンシーを跡形もなく消し飛ばせるらしい」
彼はまだ怖気の残るまま、体についた埃を払った。「陰影法甲が負エネルギーの攻撃に強くて助かった。この三階法術、ちょうどいい時に覚えたものだ」
廊下がひとまず安全だと確かめると、ウェルズは先ほど倒れたあの中年の紳士のそばへ足早に歩み寄り、しゃがみ込んで息を確かめた。
「運がいい。バンシーが歌い出して三十秒で俺が中断させたからな。まだ息がある」
彼はすぐさま腰から応急用の治療薬を取り出し、相手の口をこじ開けて流し込んだ。相手の生命徴候がいくらか落ち着いたのを確かめると、ウェルズはこの重い男を一息に肩へ担ぎ上げた。
この怪しげな空間で、意識のない人間をその場に置き去りにするのは殺すのと同じだ。いつ何時、さまよう不死者に八つ裂きにされるか分からない。
「まさか二体目のバンシーまでいるなんてことはないだろうな?本当に出くわしたら、おっさん、その時は自分の運の悪さを恨んでくれ。放り出して戦わせてもらうからな」
彼はおじさんを背負って、サンドラの部屋の方向へ全力で駆けた。
無限に引き伸ばされた廊下をたっぷり数分も走って、彼はようやくサンドラの部屋の扉の前へたどり着いた。
扉は開け放たれ、入口には、力任せに胴を両断されたスケルトン兵が二体、乱雑に転がっていた。骨組みどもの断面は、異様なほど滑らかだった。
澄んだ足音が陰の中から聞こえてきた。
軽装の戦闘服を着て、暗紅色の大剣を片手に提げたサンドラが、傷一つない姿で彼の視界に歩み入ってきた。その精緻な顔は薄暗い中にあっても、やはり艶やかで人目を引いた。
だがウェルズは警戒を緩めなかった。相手をじっと見据えたまま、低い声で問う。
「お前は不死者が化けた偽者か?証明してみせろ——煉獄騎士が悪魔を相手にする時の専用の技能は何という?」
サンドラは足を止め、これ見よがしに呆れた顔をして、不機嫌そうに答えた。
「秩序の光。でももっと通りのいい呼び方は『辟乱斬』。混沌の陣営の生き物を挽き肉に叩き斬るための、専用の魔法の霊光で……」サンドラは、少年が聞いたこともない詳しい使い方と戦闘の手立てを長々と並べ立てた。「満足した?」
「完全に正解だ。どうやら本人らしいな」ウェルズはほっと息をついた。
「私がたまたま読心術の使える不死者だったら、とは心配しないわけ?」サンドラは巨剣を肩に担ぎ、気のない調子で応じた。
ウェルズはわずかに笑った。「俺はさっきまで、煉獄騎士のその技が具体的にどういうものか、まるで知らなかったからさ。お前が心を読む偽者なら、俺の頭の中からは何も読み取れない。当然、答えられもしない」
「ちっ、ずるい奴。また君に秘密を引き出されるなんてね」サンドラは呆れ顔をし、続いておじさんを指さした。「それで、君の背中のその塊は誰?」
「さっきついでに拾った運の悪い旅客だ。放っておけばまず助からないから、道すがら担いできた」
ウェルズはおじさんを下ろし、表情を引き締めた。「お前なら見聞が広いだろ。教えてくれ、今のこれはいったいどういう状況だ?」
サンドラも冗談めかした態度を引っ込め、包み隠さず説明した。
「私たちは鬼域に引きずり込まれたの。これは極めて珍しい能力で、少なくとも五階の空間系の不死者でなければ展開できない。一定範囲の物理空間を歪めて、一時的な閉じた半次元界を形作るものだよ」
彼女は床の髑髏を一蹴りした。「ここでは、高階の不死者こそが絶対の主宰者。連中は芝居でも鑑賞するみたいに、引きずり込まれた哀れな人間を悠々と殺していく。高階の悪魔たちは、こういう猫が鼠をいたぶる残酷な遊びを眺めるのが何より好きなんだって」
「つまり、俺たちは今や闘技場の鼠で、しかもその猫は自分の手で檻に鍵まで掛けたというわけか?俺たち鼠が逃げ回れる範囲を限るために」
「実に的確なまとめだね」少女は頷いて応じた。
「まったく最悪の知らせだ。この忌々しい場所から出る方法はあるのか?」
「君、空間魔法に精通しているんじゃなかった?君のあの次元門は役に立たないの?でなければ……この鬼域を展開した元凶を見つけ出して、そいつを始末するしかない。そうすれば鬼域は自然に崩れる」
ウェルズは苦笑して両手を広げた。「なら二つ目を選ぶとしよう。俺たちが出て行けば、この宿にいる他の人間は確実に死ぬ。少なくとも戦い続ければ、他の人間を救い出せる望みはある」
サンドラは桃色の瞳を細め、疑わしげに彼を見た。「本当の理由は?君、いつからそんなに正義感が強くなったわけ?」
見抜かれた少年は仕方なく肩をすくめた。「分かったよ。それより大事なのは、次元門じゃ鬼域の外へ出られないってことだ。ここは封じられた半次元界で、俺が門をどこに開こうと、門の向こう側はやはり同じ檻の中にある。半次元界の障壁を引き裂くには、少なくとも四階の術者でなければならない。俺はその一歩にまだ遠く及ばない。黒幕を仕留めない限り、俺たちは誰一人出られない」
「これほど広い範囲の空間を展開できるなら、この不死者は間違いなく五階の怪物だね。神出鬼没で、長城守備軍がずっと捕まえられないのも無理はない」サンドラはわずかに目を凝らした。
「なら、俺たちは今どうすればいい?」
「君は空間魔法が分かるんだから、その目で魔力の流れを観察して」サンドラは大剣を握りしめた。「空間の波動をたどって陣の要を見つけて、それからそいつを仕留める。三階二人で五階一体を相手にする……苦しいけれど、まったく勝ち目がないわけでもない」
「いい考えだ。ついて来い」
少年は両目を閉じた。再び開いた時、その双眸は神秘的な淡い光に覆われていた。窺秘の眼の発動とともに、本来目に見えないはずの周囲の魔力の流れが、余すところなく見て取れた。
魔力の最も濃い方向を確かめると、二人は肩を並べ、異化した廊下を足早に進んだ。
数分と歩かぬうちに、前方の曲がり角から、重く、拍子の揃った鎧のぶつかり合う音が聞こえてきた。
「ガシャン!ガシャン!ガシャン!」
ウェルズはすぐさまサンドラを引いて足を止めた。
彼らの視界に現れたのは、精鋭の不死者の小隊だった。
先頭に立つのは、背丈二メートルにも達するワイト・チャンピオン、三階の怪物である。全身が干からびて骨と皮ばかりに痩せているのに、極めて分厚く、数百年の歴史を経て風塵にまみれた、錆びた全身鎧をまとっていた。その片手には、鮮血の滴る人の首を二つ提げている——明らかに、つい先ほど客室で得た戦利品である。
その後ろには、長槍を手にした重装のゾンビ歩卒が四体従っていた。
奴らの手にした武器はとうに錆だらけだったが、刃には致命的な疫病と毒素がたっぷりと塗り込められており、生きているものに対する殺傷力をいっそう際立たせていた。
生きた人間を目にするや、ワイト・チャンピオンの漆黒の深い眼窩に、猩紅の魂火が一気に灯った!
破れたふいごのような「ヒュッ、ヒュッ」という怪しい笑い声を上げると、興奮して手にした人の首を放り捨てた。巨大な両手持ちの重剣が高々と振り上げられ、重い足音とともに、制御を失った戦車のごとく二人へ向かって野蛮な突撃を仕掛けてきた!
「私に任せて!」
サンドラは少しも怯まず、小柄な体から驚くべき運動エネルギーを爆発させ、暗紅色の煉獄の大剣を提げて正面から迎え撃った!
「ガキィン——!!」
二振りの武器が廊下の真ん中で轟然とぶつかり合い、耳をつんざく金属の炸裂音とまばゆい火花を散らした。
鍔迫り合いとなったその瞬間、両側の四体のゾンビ歩卒がすでに回り込んでいた。毒を塗った四本の長槍が、毒蛇が舌を突き出すように、少女の細い腰へ同時に突き込まれる!
「俺が援護する!」
後方に立つウェルズは稲妻のような早口で、瞬時に詠唱を終え、定番の「増速致勝」を放った。
一筋の流光が瞬時にサンドラの体内へ吸い込まれた。もともと極めて敏捷だった少女の体が、突如として重さがないかのように軽くなる!彼女は一羽の燕のように穂先の隙間で限界まで身を翻し、大剣はその勢いのまま宙に完璧な円弧を描いた!
「バキッ!」
歯の浮くような乾いた音とともに、信じがたいほどしなやかな身のこなしで、彼女は一太刀のもと、突き出された四本の錆びた穂先を力ずくで根元から断ち切った!
挟み撃ちの失敗を見て、ワイト・チャンピオンは一声咆哮し、絶対的な体格の優位に物を言わせて、重剣を横暴に真っ向から振り下ろした。目の前の少女を真っ二つに叩き割ろうというのだ。
折れてしまいそうなほど細いサンドラの腕が、一歩も退かずに上へ向けて受け止めにいく。
ウェルズの二つ目の補助魔法が正確に降り注いだ!まばゆい魔法の光が少女の全身で弾けた。
またしても、耳をつんざく激突音が響いた。
その衝突を受けて数歩後退し、無様に重心を立て直したのは、なんとワイト・チャンピオンのほうだった——少女の力が、この怪物を上回ったのである。
これはウェルズの放った二つ目の魔法、力量増幅のおかげだった。
二重の魔法の加護のもと、少女の体内から爆発した恐るべき力は、この怪物を真っ向から圧倒した。巨大なワイト・チャンピオンはその怪力に弾かれてずるずると後退し、分厚い鉄靴が木の床に二筋の深い溝を刻んで、重心は完全に崩れた。
全身にきらめく魔法の輝きを浮かべ、少女の気迫はいっそう強く盛んに見えた。
だがサンドラは、急いで首領を追撃しようとはしなかった。彼女の目つきが鋭くなり、桃色の瞳が身の凍るような冷たい光を放つ。身を翻すと、桃色の稲妻のように右側のゾンビ歩卒へ突っ込んだ。
ゾンビは死後、もとより動きが鈍い。奴らの強みは、疲れを知らず、痛覚を無視すること、そしてあの分厚い鎧である。加えて枯れきった屍の体のおかげで、奴らはもはや刺突の傷を恐れない。
だが、絶対的な力と速さの前では、そのすべてが飾りに過ぎなかった。
「まず私が君たちを片付けて、それからあのワイト・チャンピオンを仕留める」少女は即座に決断した。
ゾンビの無謀で鈍重な、折れた槍による突きをかわすと、サンドラは一瞬で身を寄せて肉薄した。そのしなやかで均整の取れた肢体はすでにゾンビの目の前まで迫っており、奴らが槍の柄を引き戻して防ぐ間もないほど距離は近かった。手にした煉獄の大剣が魔鬼のような低い唸りを上げ、千鈞の勢いを帯びて横薙ぎに振り抜かれる。
完璧な順勢斬!
「ズバッ!」
重い大剣は、彼女の手の中ではまるで重さがないかのようだった。鈍い肉の裂ける音とともに、重鎧を着た二体のゾンビは脆い厚紙のように、錆びた鎧も干からびた背骨ももろともに、鮮やかに胴から両断された!
上半身は怪力に弾き飛ばされて壁に叩きつけられたが、下半身はまだ立った姿勢を保っており、数秒経ってからようやくどうと倒れた。
一撃必殺!
「増速致勝」と「力量増幅」の加護のもと、彼女の卓越した戦闘の天賦も相まって、わずか一手で二体のゾンビを斬り伏せたのだった。
片側の敵を片付けると、彼女は身を翻す遠心力を借りて、休むことなくもう一方の敵陣へ斬り込んだ。またしても二筋の絢爛たる血色の剣光が閃き、残る二体のゾンビもたちまち仲間の後を追った。
このわずか数秒のうちに、ワイト・チャンピオンはようやく体勢を立て直した。
だが奴は、再びサンドラに向かってはこなかった。猩紅の魂火は、後方に立って術の維持を続けているウェルズへと向いた。わずかな知恵を持つこの不死者は見抜いたのだ。あの魔法使いがいる限り、自分はあの怪力の少女には絶対に勝てないと!
「ふん、今ごろになって後衛を潰そうと思いついたか?遅すぎる」
ウェルズはとうに予期していた。あらかじめ用意していた印の形をすばやく作り、呪文と合わせて、簡単な二階魔法の束縛蔓を展開した。
堅い木の床が瞬時に爆ぜ割れ、太く、逆棘にびっしり覆われた数十本の魔法の蔓が床を突き破って現れ、大蛇のようにワイト・チャンピオンの両脚をがっちりと絡め取った。
「グオォッ!」ワイトは突撃を止めざるをえず、重剣を狂ったように振るって足元の植物を斬りつけ、束縛から逃れようとした。
だが、その束の間の足止めこそが、奴の死刑宣告となった。
このすべてが、二人の息の合った連携のうちにあった。
見れば桃色の残像が宙を一閃し、サンドラはいつの間にか高々と跳び上がって、ワイト・チャンピオンの真後ろに現れていた。
彼女は両手で剣の柄を逆手に握り、すべての重みと魔力を切っ先に注ぎ込んで、墜ちる隕石のように激しく叩きつけた!
「ズブッ——!!」
凶々しい煉獄の大剣はワイト・チャンピオンのうなじから突き入り、やすやすとその堅い胸甲を貫いて、切っ先が胸の前から突き出た。
ワイトの巨体はびくりと硬直し、それからすべての力を抜き取られたかのように、少女の大剣で床にがっちりと縫い留められた。
サンドラが長剣を引き抜いて、ようやくこの凶悪な怪物はどうと倒れ、その体の下に、悪臭を放つ黒い血の汚れを大きく広げた。




