第二十一章 暗殺
血ダイヤ鉱山が徹底的に破壊される数十分前。嘉徳市の大劇場。
政財界に絶大な影響力を持つ若い男女四人が一等のボックス席に集い、世界の二大国「帝国」と「教廷」の行く末を協議しようとしていた。帝国側の三人はそれぞれ国家、商閥、地主の代表で、すなわち威遠伯、匠極、そして地主たちの連合商会である。
匠極が送り込んできたのは当主の令嬢で、黒蓮と瓜二つの顔をしていた。もっとも会議の出席者たちにとって、彼女はこの帝国最大の連鎖財閥の代表にすぎず、その態度はそのまま商人たちの態度でもあった。
会議の議題は多岐にわたる。第一回は奴隷制の廃止と双方の和解、第二回は関税、第三回は貿易品の値下げと技術財産権協定、第四回は信教の自由。どの議題も幾千万の命を左右しうるもので、条約の一字一句まで慎重に吟味しなければならない。
今はようやく、第二回の草案協議に入ろうというところだった。
遠くの舞台では、帝国のソプラノ歌手が声を張り上げて歌っていた。
威遠伯は聖女の背後に目をやった。本来ならあの竜角の護衛が控えているはずの場所だが、今はその姿がない。
「あの可愛らしい護衛の方は、どちらに?」
「彼女には、彼女の果たすべき任務がございますので」
聖女はさらりと答えた。
いざ条文に筆を入れ始めたその時、異変は突如として訪れた。
最初に異常を察知したのは聖階の聖女だった。周囲の神力が縛られ、淀んだ水溜まりのように動かなくなったのを感じ取ったのだ。
次いで気づいたのは、威遠伯の背後に控える六階の護衛だった。
「どういうことだ……なぜ外で魔力が集まる波動が……」
衛兵が劇場外の異変を威遠伯に報告するより早く、天地を滅ぼすほどの七階魔法が降り注ごうとしていた。
漆黒の空に現れたのは、漆黒のマントを羽織った茶髪の青年だった。マントは誇示するようにはためき、果てしない深夜の中で、その姿は星ひとつほどに小さい。だがその手に渦巻く魔力は、都市中の人々を震え上がらせるに足るものだった。
「神意に従い、我が主の制裁を降さん」
瑰麗な魔紋を輝かせる魔導書が一冊、彼の眼前に浮かび上がった。『解体の書』——三冊の伝説級魔導書に次ぐ、聖階の魔導書である。
彼は魔導書で魔力を凝縮して光り輝く球体を作り出すと、その光球を高く掲げた。
深い藍色の光が、都市の大半を照らし出した。
照らされた物体はゆっくりと崩れ、霧となって跡形もなく消えていく。照らされた人々は魔力が流れ出していくのを感じ、魔力を持たない者は肌が深い藍色に染まりはじめ、最後には一筋の雲霧となって痛みもなく消え、この世から永遠に姿を消した。
そして聖者の標的であるこの劇場は、最も強い光を浴びた。外殻が剥がれはじめ、たちまち蝕み尽くされて、劇場全体が空の光の下にさらけ出される。支えを失った破片が空から降ってくるが、落ちる途中で次第に細かく砕け、ついには形のない塵と化した。
この異変に、劇場内は少なからず騒然となった。
「天井が消えたぞ……!」「なんだ、この妙な青い光は!」「どうなっている、私の魔力が消えていく……?」
「お母さん……見て、お空にすごくきれいな光が……!」
舞台の上では、小さな女の子が母親の袖を引っ張っていた。
「光に当たるな……!あの光は人を殺すぞ!」事情に通じた誰かが叫んだ。
だが少女の耳には、もう届かなかった。眩い光に見入ったまま、たちまち一筋の雲霧となって消え失せた。
それを聞いた人々は、我先にと四方へ逃げ散った。
後に「劇場惨劇」と呼ばれるこの事件で、七百名もの観客がわずか一分のうちに魔法で霧の影と化し、遺体すら残らなかった。それでも彼らは、儀式魔法がこの後にもたらす猛威を味わわずに済んだだけ、幸運だったと言える。
さらなる混乱が、今まさに都市を襲おうとしていた。秩序編織者の仕込んだ内通者たちが都市の要所を押さえにかかり、政権の奪取に動きはじめる。「冥府渓流」がもはや尽きることのない死霊の援軍をもたらさないとはいえ、終末救贖者の発動した儀式魔法「至暗の刻」もまた、都市全体を大きく麻痺させていた。
漆黒の雲霧は空を覆うだけでなく、ゆっくりと都市へ降りてきて、霧に紛れた無数のウイルスを隅々にまで浸透させた。魔法によらない灯りは、五メートル先にすら届かない。黒い霧が都市を完全に呑み込むと、市街は恐ろしい闇に沈んだ。
わけも分からぬまま人々は咳き込みはじめ、症状の進行が早い者は手足に力が入らなくなり、たちまち高熱を出した。
だが、これは「至暗の刻」の真価ではない。真に恐るべきは、信者と神術の繋がりを断ち切り、神術の行使そのものを完全に麻痺させてしまう点にあった。
公爵邸の窓辺で、一人の青年が闇に覆われた都市を眺めていた。
「実に残念です。我々が先に撒いておいたウイルスは解除されてしまいました。そうでなければ、『至暗の刻』の黒い霧でこの都市の半数は病死し、冥府渓流から生まれる不死者と合わせて、この嘉徳市を壊滅させられたのですが。今の効果では、それも望めませんね」彼はそう言った。
「約束は、そろそろ果たしてもらおうか……!ゴホッ、ゴホッ……!」
背後で、白髪の老人が焦れたように言った。
「もちろんですとも。我々は信用を何より重んじますので。確かな信用がなければ、あなた様のような方が手を貸してくださるはずもないでしょう?」青年は振り返り、非の打ちどころのない、礼にかなった笑みを浮かべて答えた。
部屋の中には、この一か月のあいだに都市で集めた苦痛の精華が、余すところなく積み上げられていた。
青年はすぐさま手をかざし、屋敷に仕込んでおいた儀式魔法陣を魔力で起動させた。その瞬間、血のように赤い光が屋敷全体を包み込む。異変に気づいた召使いたちは逃げ出そうとしたが、どれほど叩いても、堅固な防護障壁はびくともしなかった。
そのとき、老いた公爵は魔法陣の中心に立ち、魔法の恩恵を受けようとしていた。
ほどなくして、公爵邸にいた生者はみな、自分の血が止めようもなく毛穴から流れ出していくのを感じた。はじめはわずかな血の点だったものが、次第に広がっていく。ついには全員が苦悶の中で干からびた屍と化し、汁を搾り尽くされたサトウキビのように萎びた抜け殻だけが残った。公爵の息子さえ例外ではなかった。
彼らの血は屋敷の中を流れ、苦痛の精華のエネルギーと混じり合ってみずみずしい生命の精華となり、陣の要に立つ老人へと導かれていった。
そのエネルギーを受け取ると、まるで時を巻き戻すかのように、老人の皺は消えはじめ、肌は若返り、古傷はたちまち塞がり、霞んでいた視界もみるみる澄んでいった。
この悪辣な法術が終わったとき、公爵は二十歳の若者の姿になっていた。まるで数十年前に戻ったかのようだった。
術の成果に、青年は満足げに頷いた。
「我々の協力はここまでです。今後のご多幸と、追っ手の帝国部隊に捕まることなく無事に逃げおおせられますよう、お祈りしておりますよ」
礼儀正しくそう告げると、青年は窓を押し開け、一歩踏み出して夜空へと身を躍らせた。
「さて、私も自分の任務を果たしに行くとしましょう」
公爵の協力がある以上、都市の防御法陣が起動することはない。
彼はこれから、神に託された重大な任務を果たしに行くのだ。
大劇場の貴賓席では、威遠伯の護衛が五階の防護力場を張り、足元の一帯を星光の侵蝕から守っていた。だが、力場を支える魔法使いの顔はすでに蒼白だった。
「何が起きている……!?」
会議の面々が立ち上がると、劇場内の惨状が一気に目に飛び込んできた。
見識の広い彼らには、これが解体の書の魔法——聖階魔法「解離星光」だと分かった。
暗視の力で、彼らは空高くに陣取る窃星者の姿を捉えた。
「終末救贖者の聖者がこんな所に現れるとは!?」威遠伯は驚きを隠せなかった。
罪なき観客の多くが魔法の犠牲になるのを見て、ヴェールをまとった聖女は手を合わせて祈った。
純白の聖光が劇場内の観客たちを包み込み、守った。だが彼女は、自らの神術がずいぶん弱まっていることを感じていた。
「これは……?」
彼女は顔を上げ、白いヴェール越しにあたりを見回した。すでに降りてきた黒雲が神を感じ取る力を遮り、そのせいで彼女の神術の威力は下がる一方だった。
「聖女閣下、我々は今日、あなたの命を頂戴いたします。抵抗して、無用な苦しみを増やさぬようお願いしますよ」
都市を滅ぼす星の球を片手で脇へ退けると、空の窃星者は礼儀正しく言った。新たな聖階魔法がたちまちその威力を現す。足元には重い重力法陣が唐突に浮かび上がり、空からは数街区を粉々にするほどの魔力の光弾が、猛烈な速さでこちらへ落ちてきていた。
窃星者の言葉に、威遠伯はただ事ではないと悟った。教廷の聖女がここで殺されれば、その波紋は世界全体を揺るがしかねない。
「急げ、聖女殿下を連れて、一刻も早くここから転移しろ……!!」
転移魔法に精通したこの五階魔法使いは、威遠伯が傍らに置いていたもう一人の護衛であり、最後の切り札でもあった。聖階の転移封鎖を前にしても逃れる手立てはある。彼は自らが生き延びる望みさえ捨て、何よりもまず聖女の安全を確保しようとしていた。
だがその時、会議の一団の中で血の光が弾けた。
「勝手に動いてはいけませんよ……あなたたちは、ここで殺されてくださいね」
黒蓮の顔をした女が瞬時に長剣を抜き放ち、転移役の魔法使いの背中から心臓へと、血しぶきとともに突き立てた。
「うっ……!」
剣身に秘められたエネルギーが相手の体内で炸裂し、内臓を粉々に吹き飛ばした。
それをやってのけると、彼女はあらかじめ用意していた護符を起動し、その場から離脱した。
「さようなら……!」
空間の波動が偽装を剥ぎ取り、その下の素顔を露わにした。
その笑みを浮かべた顔は、絶域城で彼女に会った者なら誰ひとり忘れはしない。レシナ。
「終末救贖者の隠し駒……!?」「終わりだ……!」
その場の出席者たちの脳裏を、図らずも同じ思いがよぎった。破壊のエネルギーを秘めた光球が今にも落ちてこようというのに、最初に印を結んだ魔法使いはまだ転移魔法を放ち終えていない。たとえ間に合ったとしても、攻撃の範囲から逃れるには足りない。もはや死を待つほかなかった。
天を衝く爆発の轟音が響き渡った。
だが、街区ごと消し飛ぶという予想とはまるで違い、衝撃波と爆発のエネルギーは束ねられて空へと撃ち上げられた。
爆音の中に揺るぎなく立っていたのは、宙へと舞い上がった聖女だった。白玉のようにか細い手のひらが落ちてくる光球を受け止め、爆発のあらゆる影響を束ね、ねじ曲げて、空へと解き放ったのだ。
「我に向けられし刃、我が身に近づくことなかれ」
銀の鈴のような心地よい声が劇場中に響き渡った。
白いドレスとヴェールが衝撃に揺れ、銀白の長い髪がふわりと広がる。その場の誰もが、呆然と見とれていた。
聖階の神術「万穢禁近」。
「ほう……?」
それを見た窃星者は、驚きを隠せなかった。
「神との繋がりを制限されているというのに、これほど強力な神術を使えるとは。いや……違う。あなたの神力は借り物ではない」彼は短く笑った。「教廷があなたを超凡復甦の前兆と持ち上げるのも道理です。あなたは我々が締め上げたあの経路を、そもそも通っていない。機織り屋の計画を使って白竜の護衛を引き離したことも、とんだ笑い話になってしまいましたね」
「まったく信じがたい。我が主があなたをこの場で斬れとお命じになるわけです……!」
博識な聖階の窃星者でさえ、驚きを禁じ得なかった。その瞳に殺意が閃き、手を挙げて新たな法術を練り上げる。数十年来の古参の聖階として、彼女のような新参の聖階を相手取る自信は揺らいでいなかった。
攻撃を逸らし終えると、聖女は袖を払った。清らかな白蓮の燭台が幾つも生まれ出て、彼女の周囲に浮かび、守るように取り巻く。
「早くここを離れなさい。戦いの中であなた方を守りきる自信は、私にはありません」
彼女の澄んだ声があたりに響いた。
聖階同士の戦いで自分たちがまるで役に立たないことは、誰もが分かっていた。皇室の血を引く威遠伯も、劇場を訪れていた庶民も、このときばかりは皆、我先にと逃げ出した。
窃星者という称号は、星辰を喰らって得た夢境魔法に由来する。加えて彼は聖階の魔導書、解体の書を有しており、両者が重なり合うことで極めて強大な戦力となっていた。今、彼はその二つの権能をもって聖女に攻めかかる。窃星者の十指が、琴の弦をつま弾くように揺れた。彼女に触れる必要はない。解体の書が、原界における彼女の姿を見せてくれる。彼が弾いているのは、それだった。「概念解体」——解体の書の聖階魔法。相手の原界における部分を見抜き、原界に干渉することで逆に相手を消滅させる。聖女の体に、深さの異なる十の傷が同時に走った。
二度目に弦が弾かれる前に、彼女は傍らの燭蓮を一基手に取り、身の前にかざした。燭台が身代わりとなって粉々に砕け散る。彼女はもう一基の燭蓮にそっと息を吹きかけた。炎は燭芯を離れ、宙で翼と燃え盛る長剣を生やし、窃星者へと躍りかかる。聖階神術「燭光守衛」。この天使は六階の巓峰に達する実力を持ち、平時であれば単独で嘉徳市を平らげられるほどだ。
彼女は両手で、残る二基の燭台に同時に触れた。燭火が狂ったように燃え上がり、窃星者の顔の皮膚がそれにつれて皺寄っていく。寿命が灯油として燃やされているのだ。「蝋炬成灰」——相手の命を急速に燃やし、燃え尽きたときが死期となる。
古参の聖者は慌てなかった。次元の裂け目を引き裂き、星辰に導かれた夢境の怪物を一頭解き放つ。その咆哮が燃焼を断ち切った。さらに泯滅の光を引き出すと、数秒のうちに炎の天使は一筋の雲霧と化した。
聖女が袖を振ると、新たな燭蓮が傍らに浮かび上がる。窃星者もまた新たな魔法を準備した。聖階同士の戦いは膠着状態に陥った。
「どうしてこんな……市内が大混乱に……」
シャーロットは屋根から屋根へと駆けていた。眼下の都市からは濃い煙が立ち上っている。黒雲は街路の高さまで垂れ込め、その中には魔法の病と視界を遮る術式が混じっていた。竜の縦長の瞳ならそれを見通せるが、闇に乗じて暴れる者たちはすでに動き出している。行きがけに何人か斬り捨てながらも、彼女は足を止めなかった。
聖階同士の交戦の気配は、都市の半分を隔てていても感じ取れた。
「聖階がいる……気配は三つ……?」
劇場のある一帯は、すでに廃墟と化していた。空で星辰の光を掲げているのは窃星者。聖女に食らいつき、長剣で切り結んでいるのは、その名を聞くだけで誰もが震え上がるもう一人——折命密使だった。魔武を兼ね修めた彼は、片手に叙事詩級の長剣「万物撕裂」を握り、もう片手で印を結んでいる。世界中の幸運が、彼の側へと傾いていた。
折命密使は彼女を一瞥した。「ふん、聚宝者の役立たずは、一晩すら足止めできなかったのですか」
「終末救贖者の聖者が二人……!?」
六階の身で聖者に挑むなど、本来ならあり得ない。ましてこの黒雲は神術を弱めている。だが、ほかに道はなかった。彼女は聖力を練り上げ、神術で自らを祝福すると、地面を強く踏みしめて折命密使へ突進した。
「力を貸して……晨光……!」
一撃目はかわされた。二撃目は渾身の突き。だが命中する寸前、相手の姿がかき消えた。振り返りきるより早く、蹴りが彼女の腰を捉えた。
想像を絶する力で地面へ叩き落とされた彼女は、そのまま三軒の家屋を突き破った。折命密使が墜落点めがけて長剣を振るうと、白虹のような剣気が降り注ぎ、街区の半分が粉々に吹き飛んだ。
「仕留め損ねましたか?剣の付与を破敵・竜類に換えていなかっただけのこと、運がよかったですね」彼は武器に目を落とした。血色の十字が剣身に浮かび、竜紋が赤く染まった。
瓦礫の中に倒れたシャーロットは、全身が痺れて動けなかった。たった一撃。これが六階と七階を隔てる溝だった。竜の体でなければ、とうに死んでいただろう。
「早く……早く動いて……」
折命密使は長剣を高く掲げ、次の一撃の力を溜めていた。
「シャーロット」
聖女の声が、耳元で響いた。
「私の名を呼び、私に祈りなさい」
彼女は目を閉じた。「エミリア様……」
「死んでいただきましょう」
都市を滅ぼす斬撃が振り下ろされた。だが、爆発は起きなかった。落点に触れた瞬間、すべての魔力は空気の抜けたボールのように霧散したのだ。そこに立っていたのは聖剣を手にしたシャーロット。その剣身には、彼女自身も見たことのない紋様が浮かび上がっていた。
「これは……」折命密使が珍しく驚愕を露わにした。
祈りが黒雲に断ち切られていた経路を繋ぎ直し、制限されていた聖力は本来の力を取り戻した。晨光が真の姿を現す。敵の攻撃を弱め、ときには零にまで消し去る「エネルギー化解」。そして傷と体力を急速に癒やす「高効治癒」である。
「伝説の剣、晨光」
「十分持ちこたえなさい。帝国の聖者が駆けつけます」聖女の言葉が再び耳元に届いた。
それからの六分間、窃星者と折命密使は前後から聖女に攻めかかった。攻撃が迫るたび、シャーロットは必ずその場所に現れ、晨光で無害な光へと化解していく。依然として劣勢には違いない。だがそれは、聖者の前に立っていられる劣勢だった。
六分目、二人の聖者は示し合わせたように転移魔法を発動した。速攻での殺害は失敗した。これ以上長引けば、駆けつける帝国の聖者に数で押し潰される。二人の姿は蒼白い星光の中に消え、あとには見る影もなく荒れ果てた都市だけが残された。




