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空間魔導書と少年魔法使い  作者: atu78963254
帝国冒険編
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第十八章 苦痛の精華

鳩の巣を潰したその晩、ウェルズは宿へ戻ろうとしていた。ついでに、黒蓮へのケーキも買ってある。


その道すがら、旅人風の身なりをした人物が目に留まった。


「すみません……!」


急ぐあまり、旅人は通行人とぶつかり、マントの下の顔があらわになった。ウェルズには見覚えのある顔だった。以前、宴会で見かけたことがある。騁馳社の上級管理職の一人で、自身もそれなりの腕を持つ二階魔法使いだ。


「騁馳社の幹部が……なぜこんなところに?この方角だと、行き先は下層区か……なぜ一人で、しかもこんなにこそこそと出歩いているんだ?」


ウェルズの疑念は一気に膨らんだ。自身に「陰影隠形」を付与し、あとを尾ける。潜行の技能に魔法を重ねれば、相手の感知をかいくぐるのは造作もなかった。


青年のあとを追ううち、ウェルズはほどなく中層区の外れまで来ていた。嘉徳川を渡り、二人は下層区へ足を踏み入れた。


背後に潜みながら、ウェルズは相手の目的への疑いを深めていった。


男が怪しげにあたりを見回し、人目がないのを確かめてから下層区の廃墟へ入っていくのを見て、その疑いはいっそう確かなものになった。


足音を忍ばせて近づくと、男は廃墟の一室で土を掘り返していた。やがて鮮紅の宝石が掘り出され、それと同時に、陰にこもった冷たい怨気があたりへ漂い出した。


「あれは……苦痛の精華か?」あたりに漂う怨気と、宝石の不吉な血の色。ウェルズにはそれが何の宝石なのか、すぐに分かった。


「騁馳社の幹部が、深夜に下層区で国家一級禁制品『苦痛の精華』を掘り出しているだと?」


血ダイヤ(けつダイヤ)と同じく、苦痛の精華も世界中で規制されている禁制品だ。死霊魔法においては最良の法術材料であり、鍛造材料でもある。


苦痛の染み込んだ臓器が、この宝石の胚となる。ハンクの資料にあった、あの抉り抜かれた腹部が脳裏に浮かぶ。掘臓人は人を殺していたのではない。材料を作っていたのだ。


事の重大さを悟り、ウェルズは身を隠したまま静かにその場を離れた。


「今はまだ、奴らを刺激しないでおこう……」


安全なところまで離れてから、ウェルズは宿へ戻った。


「お帰りなさい!」


出迎える黒蓮に、ウェルズは空間の指輪からケーキを取り出してテーブルに置いただけだった。


「お前の晩飯だ」


それだけ言うとそのまま部屋へ入り、サンドラから受け取った情報を取り出して読み込んだ。


「やはり載っていたか。騁馳都市建設の執行マネージャー。非合法なルートで苦痛の精華を集めているとなれば、ろくな目的じゃないな」


「サンドラに連絡して、こいつの住まいを突き止めてもらおう。家を探れば、何か決定的な情報が見つかるかもしれない」


翌朝一番、ウェルズはサンドラに連絡を入れた。彼女の対応も素早く、その晩には男の住所が家の構造図と一緒に届いた。


「サンドラがここまで手際がいいとはな。構造図まで添えてある……」


その構造図からは、興味深いことが読み取れた。


「まさかとは思うが、この家には隠し部屋があるかもしれない。二階の書斎と応接室のあいだに、壁にしては広すぎる空間がある」


「隠し部屋に何があるのか、拝ませてもらおうか」


ウェルズは潜入を決意した。


夜になると、彼はその屋敷の偵察に向かった。


近くの高台に陣取り、ウェルズはまず中層区に建つその豪邸を観察した。幸い馬車は見当たらない。主人はちょうど外出中だった。


ウェルズは自身に「陰影隠形」を付与して、屋敷に忍び寄った。


見たところ、屋敷にいるのは一階で掃除をしているメイド二人だけだった。


誰もいない部屋に狙いを定め、窓から忍び込む。


そっと廊下へ出ると、掃除をしながら世間話に興じるメイドたちの声が聞こえてきた。


彼は足音を忍ばせて階段を上った。


二階に上がりきったところで、目の前に感知罠が現れた。警報を鳴らす類いではなく、通過した者を記録するだけのものだ。


「こんなところに罠を仕掛けるとはな……ますます怪しい」


ウェルズは低く唸った。


「今は解除するわけにはいかないな。騙すしかない」


ラロリアがここにいれば、こんな罠などたやすく解除してみせるだろうに。ウェルズはふとそう思った。


もっとも、一階の魔法陣を欺く程度、ウェルズには造作もない。わずかに書き換えるだけで、自分の通行記録をメイドのものにすり替えた。


そのまま、目当ての部屋の前までたどり着く。


探知魔法で調べると、扉の向こうに警報術(アラーム)が仕掛けられていた。誰であれ扉に触れれば、その映像が即座に術者のもとへ届く仕組みだ。こんな魔法を使っている以上、メイドでさえこの部屋には立ち入りを禁じられているということになる。


とはいえ、次元門を使えばこの法術は破れる。次元門で行けるのは目に見える場所か、一度訪れた場所に限られるが、視界を確保するのは簡単だ。三階魔法「窺秘の眼」を扉の隙間から回り込ませればいい。


魔力が扉の隙間をすり抜け、室内で窺秘の眼を結ぶ。これで部屋の中が見通せた。


次の瞬間には、ウェルズはもう室内へ転移していた。


目の前に広がったのは、凝った内装の部屋だった。執務机が一つ置かれ、壁にはヘラジカの頭の剥製と額縁がいくつか掛けられ、ほかにかなり大きな書棚もある。


続けて窺秘の眼で周囲の魔力を探る。


「ずいぶん厳重な守りだな。ガラス窓の周りに探知の罠が仕掛けてあるだけでなく、執務机の引き出しにまで警報術が張ってある」


陰影の権能で、自身に「影に潜む」を付与する。たとえ四階魔法でも、ウェルズを狙い撃ちにした対策でもない限り、罠で探知されることはない。


まず机上の数冊の本を調べたが、どれも取るに足らない読み物だった。


次に引き出しを開けると、帳簿や社員名簿、営業収入の記録といった内部文書が出てきた。帳簿をざっとめくっただけで、いくつか引っかかる点が見つかる。


「妙な資金の流出がある……終末救贖者へ渡す資金に、別の名目を立てたものだろう」


帳簿を置くと、ウェルズは続いて一番下の引き出しに手を伸ばした。


触れた途端、三階の警報術の気配が伝わってきた。


「三階の探知魔法か……この家の主はただの二階魔法使いだ。並の盗人を防ぐなら、二階の魔法陣で十分すぎる。金のかかるこんな魔法陣をわざわざ仕掛けるのは、魔法使いを警戒してのことに違いない。この引き出し、何かあるな」


中身をすべて取り出して調べたが、出てきたのはがらくたばかりだった。


だが、答えは底にあった。いちばん下に残った消しゴムだけが持ち上がらない。引き出しにしっかりと嵌め込まれ、一体になっていたのだ。


魔法で触れた痕跡を読み取ると、消しゴムを捻ることで仕掛けが動くと分かった。装置の作りからして、捻り方を誤れば火球術の巻物の罠まで作動する。


痕跡どおりに、そっと捻る。


背後で、隠し部屋の扉が音もなく開いた。


「ここまで深く隠しているのだ。中には必ず、人に言えない秘密がある」


ウェルズは隠し部屋の中へ入った。


まず目に飛び込んできたのは、棚に並んだ保存用の木箱だった。精巧な虎の紋様が彫られている。開けてみると、中に納められていたのは紛れもなく苦痛の精華だった。


木箱は濃い色の檀材で作られていて、霊気を漏らしかねない宝石をしっかり封じ込めておける。苦痛の精華もそうした宝石の一つだ。


「棚一つに木箱が十。つまり苦痛の精華が十個か……」


確かに大金だ。苦痛の精華は市場価格で一つ少なくとも金貨八十枚、運が良ければ百枚にもなる。しかもここには、苦痛の精華だけでなく、血ダイヤ、枯石(こせき)、哀嚎玉(あいごうぎょく)といった禁制の宝石まであった。


だが相手に気取られないよう、ウェルズはどれにも手をつけなかった。


そばには手記が置かれていて、いちばん新しい記述はまさにこの苦痛の精華に関するものだった。


「一か月を費やし、設置地点から十個の苦痛の精華の回収に成功。七日後に騁馳都市建設社へ引き渡す」


読み終えたウェルズは考え込んだ。


「設置地点か……あの魔法陣は、足がつかないよう使い捨てにしているはずだ。この手記によれば、この男一人でここ数か月に苦痛の精華を四十個も集め、そのすべてを騁馳都市建設社へ渡している……」


「都市建設社のどこかに、こいつらの用途を記したものが必ずあるはずだ。七日後に宝石が社へ渡れば、記録も処分されるだろう」


「どうやら、その前に一度忍び込むしかないな」


数日にわたる偵察で、ラロリアは騁馳都市建設の表向きの情報をつかんでいた。


「騁馳都市建設は騁馳財閥傘下の大手建設会社で、嘉徳市の公共建設のほぼ半分を請け負い、不動産業も営んでいる。終末救贖者がこれほど巨大な企業を掌握しているなんて……連中の浸透能力は本当に侮れないわね」


「でも、本当に終末救贖者の浸透なのかしら?もともと政府内に支援者がいたからこそ、この企業がこんなに簡単に連中の手に落ちたのかもしれない」


「終末救贖者と手を組んでいる政府内の勢力として一番あり得るのは、当然、公爵府ね。騁馳自体の急速な台頭には公爵の後押しが欠かせなかったし、以前から終末救贖者に身を寄せていた可能性が高い」


「今つかめるのはこのくらいね。騁馳都市建設に入り込めさえすれば、終末救贖者がずっと隠してきた陰謀……そして公爵との取引も分かるはず」


考えをまとめると、ラロリアは仮の住まいへ戻ることにした。


だが屋敷に近づいたところで、妙な違和感を覚えた。レヴォニーの家から、巧妙に隠された殺気が漂ってくる。それなのに、家そのものには争った形跡が一つもない。


「これは……」


「レヴォニーさんが襲われたの!?」


鋭い感知でそれを察したラロリアは、はっとしてその場を離れた。いま不用意に踏み込めば、敵の罠にはまるだけだ。相手はレヴォニーを押さえたうえで、何の異状もない家にラロリアが入ってくるのを待ち、仕掛けてくる可能性が高い。


近くの高台へ移り、じっと様子をうかがう。家の芝生にはいくつかの足跡があり、飛ぶ鳥さえ家を避けていた。やがて、家の周囲に潜む数名の警官の姿が目に入った。


予想に反して、待ち伏せていたのはなんと警察だった。


「警察……!どうして警察が私を待ち伏せするの?」


「秘密結社に操られた警察なの?」


さらに目を凝らすと、思いがけず、窓辺の椅子にきちんと腰掛けたレヴォニーの姿が見えた。その前には応策局の構成員が立っている。ラロリアの想像はひっくり返された——レヴォニーは操られてなどいない。自ら進んでこの作戦に協力していたのだ。


窃聴魔法を使うと、レヴォニーと応策局員のやり取りが聞こえてきた。


「あなたたちに協力すれば、弟は減刑されるのですね?……」


「事は重大です。彼女の仲間こそ、我々が求めている人物なのです。目標の制圧に成功すれば、我々の権限で特赦を与えましょう」


「絶対に騙さないでください……!」


ラロリアは低く呟いた。「応策局……特赦まで手段に使うなんて。レヴォニーさんは、あの人たちに協力することにしたのね……」


「でも応策局が私のために動いて、しかも特赦まで出せるなんて……もしかして、もう私が誰か見当をつけているんじゃ」彼女は顔色を変え、静かに高台から退いた。


地面に降り立ったラロリアは胸に軽く手を当てた。「ここももう、私の身の置き所じゃなくなったのね。応策局に追われる以上、嘉徳市のどこにも居場所はないかもしれない」


胸の奥が、身を切られるように痛んだ。裏切られたという痛みだった。


「でも、あなたがそうした理由は分かる。どれだけ犠牲を払ってでも、血は水よりも濃い家族のためだもの。私もあなたには随分助けてもらった……でも、私は今、絶対に捕まるわけにはいかない」小さくため息をつく。もう、心の整理はついていた。


「でも、相手が応策局だとしても、私は絶対に負けを認めない……」


この先どこへ向かうにせよ、彼女のやるべきことは初めから何も変わっていなかった。


同じ頃、とあるカフェで、サンドラは懐から書類を取り出してテーブルに置いた。


「君の欲しがっていた騁馳都市建設社の建物の見取り図はここ。欲しいものが見つかるといいわね」


ウェルズは見取り図にざっと目を通した。


「都市建設社の中の罠まで載っているのか。ずいぶん周到に用意したな」


「こんなのは些細なことよ。それより、もっと大事な忠告があるの」サンドラは小さな顔を片手で支えて頬杖をつき、脚を組んでウェルズを見つめた。


「私の情報提供者の報告によると、警察はもうすぐ君を指名手配にするそうよ」


「俺を指名手配だと?」ウェルズは驚きを隠せなかった。「なぜだ?」


「公爵府から下った命令よ。秘密結社との共謀、魔法の不法使用、民家への不法侵入の容疑ですって」


「ふん」


「罪を認める?どれも調査の時にやるようなことだものね」彼女は三日月のような艶やかな笑みを浮かべた。いかにも面白がっている顔だ。


「俺の手段が犯罪と見なされるのは、当然すぎるほど当然だ」ウェルズは気にも留めなかった。


「隠れ家が一つ要る」


「問題ないわ」


「ずいぶんあっさり引き受けるな。ただ、俺のほかにもう一人、隠れ家に住まわせないといけない仲間がいる」


「傭兵隊がまるごと来たって、一か月は安全だと保証できるわ」


「それともう一つ、お前に頼みたい仕事がある」ウェルズは小麦粉の袋にぎっしり詰めた銀色の粉末を取り出した。「聖女の祝福を受けた祝聖薬灰だ。人を使ってこれを煮出して薬湯にし、最近コレラの疑いがある場所に撒いてほしい。そういう場所は少なくないだろうから、少し手間をかけてもらうことになる」


「へえ?人の病気を治す?君がそんな善行をするなんて」サンドラは意外そうな表情を見せた。


「依頼を受けただけだ」


「聖女の祝福……君が聖女と繋がりを持てるなんてね」


「運が良かっただけだ」


「この仕事なら手伝えるわ。慈善団体の名義を幾つか使うだけだもの、問題ないわね」


「では俺は失礼する。報酬は後で払う。構わないな?」


「もちろん」


サンドラとの会談の後、ウェルズは大急ぎで宿へ駆け戻った。


「黒蓮、宿を出るぞ。もうすぐ俺たちは警察に指名手配される」


「えっ……!!それなら、早く出ないといけませんね!」黒蓮は驚きと怯えに顔をこわばらせながら、慌ててウェルズの荷造りを手伝った。ほどなく二人は連れ立って宿を後にした。


二人が去って数時間後、警察が部屋に踏み込んだが、手がかり一つ見つけられなかった。


その頃、二人はすでにあるアパートの一室へ移っていた。この部屋はサンドラの部下の名義で登録されており、しばらくは警察の捜査もここまでは及ばないだろう。


「こんな可愛い子と知り合っていたなんて。よく隠していたじゃない」椅子に座ったサンドラは黒蓮をじろじろと眺めた。黒蓮はおどおどとウェルズの背後に隠れていた。


「妬いたのか?」ウェルズは半ば冗談めかして尋ねた。


「興味ないわ」サンドラの表情は淡々としていた。


「必要があれば、また連絡する」


「おそらく遠からず、この都市全体を覆すような動乱が起きる。その時、無事に帝国から抜け出せるかどうかが何より肝心だ。何しろ俺は今、四階ですらない」ウェルズは言った。


「何が起きるのか、私はむしろ楽しみだわ」サンドラは立ち上がり、ゆっくりと去っていった。


彼女が去った後、黒蓮はおずおずと呟いた。「あの人、なんだかすごく怖いです……冷たくて、情がなくて」


「命を軽んじる煉獄騎士だからな。恐ろしい殺気をまとっている。お前が怖がるのも無理はない。気にするな、あいつは俺たちの協力者だ」ウェルズは彼女を慰めようとした。


「何か思い出したか?」


黒蓮は首を横に振った。


ウェルズは低く唸った。


「心配するな。お前を治せる人間はもう見つけてある。謎が明かされる前に、記憶を取り戻させてやれればいいんだが……」

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