第十七章 別行動
「どうしてこんなことに……どうしてこんなことに……」
黒蓮は籠の鳥のように気を揉みながら、部屋の中を行ったり来たりしていた。
ラロリアが戻って来ないのは目に見えている。黒蓮は自分の小さな頭で、二人をどうやって「仲直り」させるか懸命に考えていた。
一方、そもそもの張本人は傍らで卓を軽く叩き、次の行動を思案していた。
「病、騁馳、黒蓮の身元。片付けるべきことは実に多いな。一つずつ、ゆっくり進めるしかない……」
うろうろと歩き回る黒蓮を目で追いながら、ウェルズは問いかけた。
「質麗皇女という名を聞いたことはあるか?」
「質麗皇女……」その言葉を聞いた黒蓮は一瞬きょとんとし、それから糸の切れた凧のように倒れた。
「黒蓮……!」
彼女がようやくうっすらと目を開けたのは、三十分後のことだった。
「大丈夫か?」
寝台の傍らで意識のない彼女を看ていたウェルズは、目覚めたのに気づいて声をかけた。
「大丈夫です……」
「さっき、急に倒れただろう。どうしたんだ?」
「私……分かりません。さっき急に、頭の中を耐えられないほどの鋭い痛みが走って、抗う間もなく気を失ってしまったんです」
彼女はか細い息を荒く弾ませていた。
「それは……質麗皇女と関係があるのか?」ウェルズは慎重に尋ねた。「実は、上流社会で帝国の質麗皇女が失踪したという話を耳にしてから、ずっとお前が皇女なんじゃないかと疑っていたんだ」
考えてみれば、黒蓮には確かに噂に聞く皇女の美貌と、上品でたおやかな気品がある。初めて彼女を目にした者は、おそらく誰もが皇女と見間違えるだろう。
「皇女……私が、皇女なのかな?」その言葉を聞いた途端、黒蓮は頭蓋の奥の痛みがいっそう鋭くなるのを感じた。断片的な記憶が胸に込み上げてくる。
彼女は思い出した。幼い頃、確かに豪華な屋敷に住み、見渡す限りの芝生を駆け回っていたこと。飼っていた可愛いポニーが、小さな自分に親しげに身を寄せてきたことを。
「分かりません……でも頭がすごく痛くて……」
「何かの記憶が浮かび上がりそうなんです……でも少し混乱していて、私にも分からなくて……」彼女は頭痛をこらえながら低く呟いた。
「もう少し休ませてください……横になっていれば、よくなるかもしれません」
その様子を見ては、ウェルズもひとまずどうしようもなかった。
「お前はここで休んでいろ。俺は出かけて、警察の相手をする準備をしてくる」
黒蓮を抱えて寝台に寝かせてから、ウェルズは扉を開け、最寄りの警察署へ向かった。
そこで彼は事情聴取を受け、調書を取られた。宿には宿泊客として彼の名が登録されている以上、警察は大々的に彼らを捜すに決まっている。面倒を避けるため、自分から警察へ出向くことにしたのだった。
「あなたが以前泊まっていた宿ですが、テロ組織の襲撃を受け、十人近くの死傷者が出ました。宿の報告によれば、襲撃された部屋の宿泊客はあなたで、しかもあなたが連中と戦うところを大勢が目撃しています。この件について、何かご存じのことは?連中はなぜあなたを襲ったのですか?」
「俺が知るか。三階魔法使いで、いい物をたんまり持っていると知っていたからじゃないか?」
「魔法を使ったことについてだが、テロ組織に襲われた魔法使いが魔法で抵抗してはならない、なんて規定は帝国にもないはずだろう?」
ウェルズはぞんざいに刑事をあしらった。
「それと、仲間が一人かなりの怪我をして、今も治療中だ。調書を取りに来るのは無理だ」彼はついでに黒蓮のことを口にした。
「もう一人の女性はどうしました?どこへ行ったんです?宿の登録であなたと同室だった、あの金髪の女性です」
これに対するウェルズの答えは、至って簡単だった。
「手を切った。知らん」
警察の質問は思いのほか多かった。少しでも際どい問いには知らないで通し、警察に多くの情報を握られないようにした。手続きがようやく終わったのは夜になってからで、彼はやっと帰路につくことができた。
何しろ三階魔法使いはどこへ行っても一目置かれる存在だ。証拠もないのに、警察が難癖をつけてくることはない。
「黒蓮は腹を空かせているだろうな……机に金を置いてきたから、食事には困らないはずだ……」
「何より先に、病の調査だ……」ウェルズは次の方針を考えながら、これまでの情報を整理した。
「終末救贖者が医療集会を襲ったのは、この件と関係がある可能性が高い……殺された者は、きっと奴らにとって脅威だったんだ」
「この線から当たってみるか」
ウェルズが思案していると、脇の奥まった路地から助けを求める声が上がった。
「助けてくれ……!」
「男の助けを求める声……こんな所で?それに魔法の波動?」
ウェルズは怪訝に思い、「陰影隠形」を行使して様子を探りに近づいた。
近づいてみると、コートを羽織った男が街路を死に物狂いで駆けており、時折背後を振り返っていた。肉眼で見る限り、そこには何もないというのに。
「誰もいない……肉眼で見えないだけか」
ウェルズは魔法「不可視看破」を付与した。
こちらへ迫ろうとしていた敵は魔法の波動を察したらしく、先んじて退いていった。ウェルズの目に映ったのは、遠ざかっていく不可視化した者の姿だけだった。
「逃げたか……用心深い奴だ……」ウェルズは低く呟き、逃げる男の前へ跳び出して姿を現した。
「うわあああ……!!」目の前に人影が現れ、荷物を抱えた男は恐怖のあまり地面に尻もちをついた。懐の包みから紙が辺り一面に散らばる。「助けてくれ……!」
「叫ぶな。お前を殺しに来た奴はもう退いた」
「……!」地面に座り込んだ男はウェルズの顔を見て、ぽかんとした。「あ……あなたは……!」
「ほう、どこかで見た顔だな」
「そりゃあ見覚えがあるでしょう。漆画街で……あなたと女の子に地面に押さえつけられたんですから」見知った顔に、男はようやく安堵の息をつき、散らばった紙を慌ただしくかき集めた。
「正確に言えば、お前を押さえつけたのは彼女だけで、俺じゃない。お前があの押さえつけられていた探偵か?」
急いで拾い終えると、青年は立ち上がった。
「そうです、私です。ミルバッハといいます。あなたは私の命の恩人ですよ」そう言いながらも、まだ恐怖が抜けきらない様子だった。
「何で命を狙われた?魔法使いまで敵に回して。まさか、どこかの貴族の浮気現場を押さえて、誰かの恨みを買ったんじゃないだろうな?」ウェルズは軽く眉を上げた。
「私も、そんなふうに下水道で死ぬものとばかり思っていましたが、分析してみるとどうも違うようです。私を死の淵に追いやったのは、重大な陰謀かもしれません。私がそもそも漆画街へ何をしに行ったか、覚えていますか?」彼は真顔で言った。
ウェルズは、あの時探偵が口にしていた言葉を思い返した。
「お前が漆画街へ行ったのは病を調べるためだったな……!知っていることを今すぐ話せ」
ウェルズの口調が変わった。
「興味がおありで?」彼は一瞬きょとんとした。危険に自ら首を突っ込もうとする者がいるとは、思ってもみなかったのだ。「ここでは話しにくい。どこか場所を移しませんか?あなたと一緒だったあの可愛い女の子は?」
「手を切った」
「喧嘩でも?」青年は額に手を当てて考え込んだ。「ああ、新しい恋人ができたんでしょうね。彼女の話をする時のあなたの口調に、まるで動揺がありませんから。もちろん、あなたが取り繕うのが上手いだけという可能性もある。経験上、どちらもあり得ますね。天才というのは、とかく大勢の女の子を引きつけるものですから」
「お前の思っているようなことじゃない」
「ならきっと私の思った通りです。私の人を見る目は確かですよ!」探偵はずる賢く笑った。
ウェルズは彼を宿へ連れ帰った。
扉を押し開けると、黒蓮は木の椅子に端座していた。眉間に漂う憂いの色は見惚れるほど美しく、それでいて見る者の胸を痛ませた。
青年はくすりと笑った。
「やはり新しい恋人ができていたんですね。こんにちは、可愛い美少女さん」探偵は彼女に挨拶した。
「お帰りなさい……」黒蓮は立ち上がって歩み寄り、ウェルズの両手をぎゅっと握った。「こちらの方は……?」
「ミルバッハ。道端でついでに助けた男だ」
「ずいぶん仲がよろしいんですね。進展が早い」
「お前の思っているようなことじゃない」弁解するのも面倒で、ウェルズは簡単に応じた。
席に着くと、探偵ミルバッハは懐に忍ばせていた書類を何通か取り出した。
「この資料が、私が命を狙われている原因です」
「事の起こりはこうです。無煙炭工場を経営するシュミットさんが、工場の労働者が大勢病気になっていることに気づき、疫学者のホフマンさんに診断を依頼しました。その過程で彼は思いがけず、この病原菌がしぶとい生存力を持っていることを突き止めたのです。感染力は強くないものの、一度罹ると長期にわたって患者の免疫力を低下させる、と」
「ゆっくりと抵抗力を蝕んでいく、あの手の病か?」
「そうです……!ただコレラよりはずっと穏やかです。ホフマンさんの研究結果によれば、この病は動物を介してしか感染しません。彼は私に、どの動物が保菌体なのかを調べるよう依頼しました」
「しかし調査の途中で、シュミットさんとホフマンさんが相次いで不幸に見舞われ、亡くなりました。シュミットさんは惨たらしく殺害され、ホフマンさんに至っては、終末救贖者の仕掛けた爆弾で無残にも粉々に吹き飛ばされたのです」
「二人の死を知って、次は間違いなく私だと確信しました」
「今日、とうとう連中が家まで来ました……帰宅すると、家の中はすでに誰かに家探しされた後でした。それでこの報告書をまとめて、逃げるつもりだったんです」ミルバッハは書類を卓上に置いた。「ウェルズさん、もし興味がおありなら、この報告書は差し上げます。どうか彼らの仇を討っていただけたらと思います」
ウェルズは書類を受け取った。中身は多数の患者への聞き取り報告と行動記録で、罹患時のさまざまな症状や緩和の手段が記されていた。それだけでなく、ミルバッハは地図も何枚か描いており、患者がよく行く場所や移動経路を書き込んで、どこが感染地点なのかを割り出そうとしていた。
ミルバッハの資料に目を通し、ウェルズはしばし考え込んだ末に結論を出した。
「鳩だ。都市全体を行き来でき、広場の周りに集まり、人に馴れやすい生き物といえば、鳩しかいない。鼠なら、主な感染地は家の中になるはずだ」
「なるほど、一理ありますね」彼はしばし呆気にとられた。
「都市でよく見かける生き物など、数えるほどしかいない」
「ハンクが死ぬ前に言った『伝播』も、たぶんこれを指していたんだろう」ハンクは食品労働組合の代表だ。労働者が次々と倒れていくのに、彼が気づかないはずがない。ただ、最後まで言い切る暇がなかっただけだ。
「俺は調査を続ける。お前は?家に帰ればまた追われるだろう?」
「私は……この都市を離れて、ほとぼりが冷めてから戻るつもりです」ミルバッハはやるせなさそうに言った。
「夜間には地下鉄はないぞ」
「馬を借りて、夜のうちに駆け去るつもりです」話を終えると、ミルバッハは立ち上がって辞去しようとした。
「この資料を買い取りたい。いくら出せばいい?」
「結構です。もう金は受け取っていますから。転売の値段を言うなら、罪もなく死んだあのお二人の仇を討ってくだされば、それが何よりの報酬です」青年は笑った。
「なら、魔法で見送らせてもらおう」
彼は手を上げ、ミルバッハに「陰影隠形」を行使した。その姿がウェルズの目の前で忽然と消えた。
「この不可視化は四十分続く。道中で追跡される心配はない。合言葉も決めておいた。『もういい』と言えば法術は解ける」
四十分あれば、城門近くの宿駅で馬を借りるには十分だった。
「男前の旦那、ご親切に感謝します」ミルバッハは心から礼を言った。
それから部屋の扉が開き、彼は去っていった。
黒蓮は目を凝らして、消えたミルバッハの姿を探していた。
「あの人、行ったのかな……?」
「行った」
「シュミットを殺したのは自浄会で、機織り屋じゃない。前に言ったのは逆だった」ウェルズは低く言った。「あの男は人を雇って疫病を調べさせていたが、その疫病を撒いたのは奴らだ」
ミルバッハの資料はまさに渡りに船で、ウェルズに次の行動目標を与えてくれた。
「明日は鳩を追うか」
翌朝早く、ウェルズはシャーロットから貰った水晶球を手に、病を探るため広場へやって来た。
近くの麦屋で小袋の麦を買うと、ウェルズは広場に無造作に撒いた。
鳩の群れがわっと舞い降り、せっせと朝食をついばむ。
ウェルズは水晶を取り出して観測し、病を持つ鳩すべてに陰影標記を打った。
鳩たちが四方へ飛び去るに任せ、新たに麦を撒いては病んだ鳩を選んで標記する。これを繰り返すうちに、ほどなく数十羽分の標記がついた。
鳩が決まった巣に帰る習性を利用して、ウェルズは標記の集まる地点を追い、ほどなく病原の出所を突き止めた。
「ここが病原を撒いている場所か?」
ウェルズは屋根の上に立ち、向かいの街区の鳩舎を見定めた。私営のレース鳩飼育所だが、それは偽装に過ぎず、実態は終末救贖者が病を撒くための拠点だろう。飼育所の内外にとまっている鳩の大半が病を抱えていることが、何よりの証拠だった。
ウェルズの解決法は至って単純だった。手を上げ、陰影で増幅した灼熱の火球を集め、鳩舎めがけて猛然と撃ち放った。
「ドン!」
天を衝く炎が、瞬く間に鳩舎を跡形もなく消し去った。大半の鳩はこの攻撃で灰と化し、秘密結社の陰謀もそれとともに霧散した。
「これで、しばらくの間は奴らも病を撒けない……」病に耐えられる鳩のサンプルと病のサンプルを育てるのは困難なはずで、ここを潰しさえすれば、短期間では立て直せない。
ウェルズは自身に三階魔法「陰影隠形」を付与し、満足げに立ち去った。後には、火を消そうとする人々の声だけがあちこちで響いていた。
「頭にきた!……あいつ、あの独りよがりな態度、殴られて当然よ!」
大通りを歩きながら、怒り心頭のラロリアは腹立ちまぎれに道端の小石を蹴飛ばしていた。どの小石も、彼女の頭の中ではウェルズの顔になっていた。
「ああああ、一発殴ってやりたい!」ラロリアは叫びながら、渾身の力で前へ蹴り出した。石が一つ高く舞い上がり、つばの広い帽子をかぶって籠を提げた通行人の頭に落ちた。
「……!!」
自分の蹴った石が他人の頭に当たったのを見て、ラロリアはしばし唖然とし、それから慌てて進み出て謝った。「ごめんなさい……」
「大丈夫です……」
つばの広い帽子をかぶった女性が顔を上げた。その美しい容貌は悲しみの色に満ち、目の縁は真っ赤に染まっていた。ラロリアの知人、レヴォニーである。
「レヴォニーさんじゃない?」彼女は驚いて声を掛けた。「そんなにやつれて……弟さんのこと?」
「恩人のお嬢様……」彼女は頷いた。「今、監獄にいる弟に面会に行くところなんです」
「なら……私も一緒に行くわ」お人好しの彼女は、レヴォニーの食べ物や生活用品の入った籠を受け取った。
「ありがとうございます……」
「弟は根は悪い子じゃないんです。温厚で素朴ないい子なのに、まさか機密漏洩の罪で牢に入れられるなんて……」道すがら、彼女は弟の最近の出来事を語り、長いため息をついた。「全部私のせいです……ちゃんと気にかけてあげなかったから」
「サキュバスに惑わされたんだもの。普通の人なら、まさかこんなことが起きるなんて思いもしないわ」ラロリアは彼女を慰めた。「それに、応策局に連れて行かれなかったのは不幸中の幸いよ」
数々の罪を犯していながら、ヘルムートは応策局に連れて行かれず、地元の警察に拘留されていた。
応策局が連れて行くのは重罪人ばかりだ。恐ろしい拷問にかけられ、搾り取れるだけ搾り取られてから警察に引き渡される頃には、死んでいなくとも大抵は体が不自由になっている。ただ拘留されているだけのヘルムートは、これ以上なく幸運だと言えた。
ほどなく、二人は嘉徳市の監獄の門前にたどり着いた。大勢の警察官が警備にあたっており、「偵察」の技能に通じた魔法使いや持魔者の姿も少なくない。
レヴォニーはあらかじめ面会を予約していた。申請を確認し、籠を預けると、看守が二人を面会室へ案内した。
面会者と囚人の間には、透明な白い壁が一枚立ちはだかっていた。面会室に連れて来られたヘルムートは、手にも足にも魔力の流れを妨げる枷を嵌められている。レヴォニーは進み出て受話器を取り、ヘルムートと話し始めた。
ラロリアは傍らに立って見守った。十分が過ぎてようやく、レヴォニーは名残惜しそうに受話器を置き、二人は監獄を後にした。
「弟さん、大丈夫だった?」帰り道、ラロリアは礼儀として尋ねた。
「監獄の暮らしがいいはずありません」尋ねられた彼女は苦笑した。「弁護士とも話をしたそうです。今は、魔法で操られていたせいだと主張しているところですが、刑期は免れません。少なくとも三、四年は入ることになるでしょう」
「警察の機密を売り渡すなんて罪を犯したんだもの、避けられない結果ね」ラロリアは内心そう思った。
「応策局は最近、秘密結社と結託していた貴族の令嬢も捕まえたそうです。その令嬢は想い人に好かれたい一心で、父親の機密資料を盗み出し、超凡の魅力と体型の造形と引き換えにしようとしたんです。確か軍事配置図だったかと。それが受け渡しの時に発覚して、今は監獄に入っているそうです」レヴォニーは言った。
「ヘルムートと同じ、恋に目がくらんだのね」
自分は理性的で聡明だと思っているラロリアは、そう結論づけた。
二人は歩きながら語らい、ほどなくレヴォニーの家の門前に着いた。
「では、ここでお別れですね?」憂いを帯びた顔の彼女が小さく言った。
「実は、厚かましいお願いがあるんだけど……」ラロリアは頬を掻いた。「旅費が少し心もとなくて、お宅に何日か泊めてもらえないかしら?」
レヴォニーは一瞬きょとんとしてから、頷いた。「もちろん構いません」
彼女は鉄の門扉を押し開け、迎えに出たメイドに言った。
「恩人のお嬢様のために客間を一つ用意して」
ラロリアの宿の問題は、ひとまず解決した。
レヴォニーの用意した客間は住み心地も悪くなく、ウェルズの泊まる中級の宿より上等なくらいだった。広々としたダブルベッドに、焼き上げた白磁の専用バスルーム。何より、耳元でくどくどと、彼女のやり方や品行、果ては髪型にまで口出しする者がいない。
「次は、まず匿名の手紙を二通出さないと。一通は学校へ、もう一通は応策局へ。どちらも、応策局に出所を突き止められないよう細心の注意を払わないと」彼女は慎重に二通の手紙を書き上げ、封筒に入れた。
ふと顔を上げると、窓の外はすっかり夜も更けていた。ラロリアは寝台に横になり、眠りについた。
「黒蓮はどうしてるかしら……ウェルズがちゃんと面倒を見てくれてるといいけど……」
翌日目を覚ますと、ラロリアはシャーロットから貰った水晶球を手にあちこちを訪ね歩いた。調べ方は単純で、罹患者を見かけては声をかけ、症状を尋ねるというものだ。粘り強く続けた甲斐あって、かなりの資料が集まった。
だが、鳩こそが病の感染源だと気づいた時には、もう午後になっていた。
「誰かが鳩舎を爆破したのね。ウェルズがやったんでしょう?なら病はもう広がらないはず」公園のベンチに座って夕刊をめくりながら、ラロリアは口を尖らせて呟いた。「この負けた感じ、本当に嫌」
「次の証拠は絶対に私が先に見つけてやるんだから」
だが思うようにはいかず、一日奔走しても、有用な情報は何一つ見つからなかった。
夕食の時間、レヴォニーは豪華な料理を用意してラロリアをもてなした。
「最近、奴隷制の廃止のことでずいぶん揉めていますね。恩人のお嬢様はどうお考えですか?」
彼女は時事の話題でラロリアに話を切り出した。
「奴隷制の廃止?もちろん支持するわ。契約奴隷だろうと捕まえてきた異次元界の奴隷だろうと、みんな人権を持つべきよ」彼女は真剣に言った。
「そうなんですね。恩人のお嬢様は、進んだお考えをお持ちなんですね」
二人は語らいながら上品に食事を楽しみ、とりとめのない雑談を交わした。最後に、レヴォニーはラロリアを見つめて切り出した。「実は、あなたにお願いしたいことがあるんです。恩人のお嬢様、最近お時間があれば、この件を引き受けていただけないでしょうか?」
「どんなこと?私にできることなら、全力を尽くすわ」ラロリアは頷いた。
「実は、下層区に労働者向けに貸している家屋を一軒持っているんです。でも最近、あの辺りに幽霊が出るせいで、住人がみんな身の安全を心配して引っ越してしまいました」レヴォニーは言った。「不運は立て続けにやって来るものですね。お時間のある時に周辺を見回って、もし幽霊を祓っていただけたら、それが一番なのですが」
「幽霊?」ラロリアは考えを巡らせた。怨気の重く凝った場所には、確かに幽霊が現れることがある。本来なら警察がこうした亡霊を処理するのだが、下層区の効率では、いつになるか分かったものではない。
「問題ないわ。この件は私が解決してあげる!」彼女はきっぱりと答えた。
「本当にありがとうございます。これがその家屋の住所です」レヴォニーは一枚の便箋をそっと差し出した。
翌日の夜、一日中新たな手がかりを探し回ったラロリアは、レヴォニーに頼まれた家屋の前にやって来た。
「ここなの?借り手がつかないのも無理ないわ。場所が悪すぎるじゃない」
その四階建ての家屋は、いくつかの廃工場や建物に挟まれるようにして、ぽつんと通り沿いに立っていた。
陰風がひと吹きして、ラロリアの肌から温もりを奪っていく。確かに、ぞっとするほど不気味な気配の場所だった。
「まず中に入ってみようかしら?」
彼女はレヴォニーから貰った鍵で錠を開け、中へ入った。内部はさほど荒れておらず、内装の大半は良好に保たれていた。一部の木製の設備が腐りかけている程度で、少し手を入れればすぐに貸し出せそうだ。
ラロリアが周囲を見回していると、ふと、誰かの後ろ姿が階上へ駆け上がっていくのが見えた。
「誰かいる?」
疑念を募らせた彼女はその後ろ姿を追って足早に階段を駆け上がり、ついに最上階の四階までたどり着いた。
四階を見渡したが、やはり何もない。あの人影は忽然と消えてしまったかのようだった。
「見間違いかしら?」
その時、冷たい風が吹きつけ、ラロリアは総毛立った。周囲の気温が一瞬で五、六度下がったかのようだ。続いて聞こえてきたのは、床板が踏み割られる音だった。
「誰かいるの?」彼女は緊張して周囲を見回し、武器まで抜いた。
答えるように、足音がさらに増えていく。血まみれの足跡が四方八方から湧き出して壁も床も埋め尽くし、恐ろしい速さでラロリアを取り囲んでくる。
「どうして……!」
彼女は驚愕しつつ長剣を振るい、剣気を放った。だが、本来なら難なく壁を引き裂くはずの剣気は何の効果もなく、壁を貫くことすらできなかった。
「そんな……!」顔中を恐怖に染めた彼女は慌てて後ずさったが、瞬く間に隅へ追い詰められてしまった。背後には窓が一つ。もはや窓から飛び降りるしかない。だが四階の下、真昼の日差しに白く照らされた街路を見下ろすと、飛び降りれば死あるのみだと思えた。
「どういうこと……私は、恐怖なんて感じないはずなのに……!」
必死に頭を巡らせても、恐怖は抑えようもなく心の底から湧き上がってくる。
ふと、あることを思い出した。幽霊を捕まえるため、自分は夜にこの家屋へ来たのだ。それなのに、今は夜ではない。
「そういうこと……これは幻覚ね!」
「目を覚ますのよ……!覚めて!」
偽りを見破った彼女は目を閉じ、心の中で叫んだ。
心の中の叫びにすぎなかったが、周囲の景色に大きな波紋が広がった。次の瞬間、幻境は唐突に砕け散った。
溺れかけた者が救い上げられたように、確かな手触りのある空気が呼吸とともに肺へ流れ込んでくるのを、彼女ははっきりと感じた。
目の前に広がっていたのは月明かりの下の漆黒の闇で、ラロリアは土と廃墟の只中にいた。
「なんて強い幻術。危うくやられるところだった」目覚めたラロリアは冷や汗を流した。
「これほどの力……住人たちが出て行っていてよかった。でなければ本当に被害が出ていたかもしれない」
腰の長剣を抜いて魔化武器を付与すると、瞬時に刀身が青い光を閃かせた。
眼前には不気味な黒い霧の塊が漂っていた。霧は寄り集まって人の形をなし、悲鳴を上げる人間の顔へと変じた。
「悪霊……?でも何か普通じゃない」ラロリアは相手を見定めた。「普通の悪霊の幻境が、『意志防護』を心得ている私を閉じ込められるはずがない。やっぱりどこかおかしいわ」
それを見て、ラロリアは自身に「速度増幅」を付与し、鋭く踏み込んで瞬光斬を放った。
だが刃が届くより早く、幽霊は素早く身をかわしていた。魂を刺す狂った悲鳴を上げながら、黒い霧の手でラロリアに掴みかかってくる。
「うっ……!四階の霊魂尖叫……どうして……!?」その尖叫はあまりに唐突だった。無防備だったラロリアは頭の中を刺すような痛みに襲われ、足取りが鈍る。その一瞬を突いて、黒い霧の爪が彼女の肩を捉えた。たちまち、生命力の一部が奪われていくのを感じる。
「放して……!」我に返った彼女は身をひねって剣を斜めに斬り払い、悪霊を押し返した。
ラロリアは手を緩めず、この機に嵐のような猛攻を仕掛けて仕留めにかかった。両手で長剣を握りしめて斜めに斬り、振り下ろし、相手ががら空きになった瞬間、一歩踏み込んで旋風をまとわせた長剣を悪霊へ突き込んだ。
これが「蒼穹穿刺」。魔力で風刃に匹敵する旋風を起こし、強大な貫通力と巻き込む力を持つ武技である。
その瞬間、怨霊は再び悲鳴を上げ、ラロリアの武技を阻もうとした。
「甘いわよ!」今度は身構えていたラロリアは霊魂衝撃を力ずくで耐え抜き、剣に込めた力は少しも衰えなかった。
「ドン……!」
強烈な旋風と刺突が、怨霊を粉々に攪き砕いた。あまりにあっさりした結末に、ラロリア自身も意外だった。こんなに容易く消し去れるとは思っていなかったのだ。
「四階の能力を持っているのに……こんなに簡単に消滅した?」
彼女はある可能性に思い至った。
「外物による増幅?」
そうとでも考えなければ、本来一階か二階級程度の怨霊が、霊魂尖叫などという四階の能力を使えるはずがない。言い伝えにある伝説級魔導書が、使い手に階を越えた高階の魔法を使わせ、超魔を可能にするのと同じだ。
案の定、嵐が収まると、血紅の晶石が一つ地面に落ちた。
ラロリアは進み出て晶石を調べた。
素手の右手で触れた瞬間、膨大な負の感情が頭の中へ流れ込んできた。
「きゃっ……!」驚いた彼女は晶石を放り出し、数歩後ずさった。
「これは……」彼女は手袋を嵌め直し、血紅の晶石を慎重に拾い上げると、目の前にかざしてじっくりと眺めた。
「間違いない……これは苦痛の精華」目の前のそれが四階の宝石、苦痛の精華だと、彼女にははっきり分かった。人間の怨憤、苦痛、憎悪の感情が凝集してできたものだ。怨霊がこれを手に入れて特殊な幻術と霊魂衝撃を使ったのも無理はない。
「普通は……この手の宝石は凄惨な古戦場でしか凝集しないのに……どうしてこんな所に……」
彼女は答えに思い至った。都市で長く暮らしてきた彼女は、下層区の平民たちの悲惨な暮らしも数多く見てきた。
「あの人たちの怨みと苦痛は、戦死した兵士たちより少ないとは限らない。都市に欠けているのは、怨気を凝集させて散らさないための条件だけ。魔法陣を設ければ、苦痛の精華を凝集させることはできる」
そこまで考えると、ラロリアは周囲の廃墟を歩き回り、隠されたものを探し出そうとした。
案の定、廃墟の一つで、隠された怨気凝聚陣が見つかった。
この廃墟の部屋は周囲よりも冷え冷えとしていた。床の張られていない部屋には一見何もない土の山があるだけだったが、術者は魔法陣の成分を巧みに泥砂に溶け込ませ、術の許す限界の範囲内で、魔法陣を砂礫の中に隠していた。
「どうやらこれが苦痛の精華を生んだのね……こんな物を凝結させるなんて、ろくな人間じゃないに決まってる」
苦痛の精華を凝結させた時点で、この魔法陣はすでに壊れていた。ただ、なぜか凝集後に誰も苦痛の精華を回収に来ず、怨気から生まれた怨霊に奪われてしまったらしい。
「帰ってレヴォニーさんに訊いてみよう……何か知っているかもしれない」
心を決めたラロリアは帰途についた。
レヴォニーの家に戻った彼女は二階へ上がり、書斎の扉を押し開けた。レヴォニーは机の向こうで読書ノートを書いており、机の上には心霊魔法に関する本が数冊置かれていた。
「どうかしましたか?恩人のお嬢様」
「あの辺りには確かに怨霊がいたわ。でも私が片付けた」
「なんてお早い!さすが恩人のお嬢様。これでやっと、また広告を出して人を募れます」彼女は嬉しそうに笑った。
「でも、あなたの家の周りの土地はあまりよくないわね。建てかけの廃墟ばかりで」
それを聞いて、レヴォニーはため息をついた。「私も本当に運が悪くて、工事停止区画の家を買ってしまったんです。もともとあの一帯は騁馳都市建設が計画・建設した生活区で、住宅、商業区、それに軽工業区を含んでいました。ところが完成したのは住宅区だけで、後の二つは資金不足ですべて建設が止まってしまったんです」
「騁馳都市建設……また騁馳。魔法陣が設けられた時期と廃墟ができた時期はほとんど変わらない。どうやら苦痛の精華は、確かに終末救贖者と無関係ではないようね」
ラロリアは心の中で決めた。
「もしかしたら騁馳の内部に終末救贖者に関する資料があるかもしれない。機会を見て騁馳都市建設に潜り込む時ね。今度こそ、何としてもウェルズより先に動いてやるんだから!」




